礼儀が大事?
部室に戻る廊下で、二人は黙ったまま歩いた。何を考えればいいのかもわからず、巧は難しい顔をして唇をかむ。今日、できることはカフェの装飾をつくることぐらいだろう。しかし、気をゆるめて何も考えないでいることもできない。
「猫実さんは緊張しないのですか。」
初めて会う人にもおじけずにちゃんと向き合うことができる猫実さんの姿勢をずっと隣で見てきた。
「ちょっと緊張します。でも、やってみるまでわからないですよね。」
巧が何か言うと、さっとこちらを見て言葉を拾ってくれた。
「いや、カフェのことじゃなくて。どうして猫実さんは
初めての人でも、声かけられるのかなと思って。」
巧は、手を振ってもう一度言い直した。猫実さんの答えてくれたものに対して、自分の考えていたことはずいぶんと基本的だ。
猫実さんは考え込んでしまった。
あごに手を当てて、じっとうつむく。カールしたポニーテールの先がわずかにゆれる。
あまりにも、基本的なことを聞いてしまったので、難しかったようだ。真剣な猫実さんの目を見て、今更、引っ込めることもできない。巧は、じっと横から見守って答えを待つ。
「慣れてる、から…?」
言葉で、手探りするように猫実さんはいった。
「慣れてる?」
「そうです。私、小さい頃から剣道やってたんです。」
猫実さんは、剣を振る仕草をした。軽く握られた掌が、空中でぴたりと止まる。その無駄のない動きに巧は、目を奪われる。
「大会の時なんかは、知らない人といきなり真剣勝負をしなくてはなりません。誰であっても本気で勝とうとしなくてはいけないんです。それも、お互いに。」
「うっ…。」
巧は、一瞬でその世界では生きていけないと確信した。
「殺気を放ってくる人もいるし…。そういう時って、初めて会うとか関係ないですね。」
「殺気なんか出すんですか。」
「あ、普通にあります。」
けろりと猫実さんがうなずいた。どうやら殺気は見える人には見えるらしい。
「怖くないですか。」
「うーん。…いや。」
猫実さんはまたしばらく考えた。こんなふうに言葉を探しながら話す姿勢にも、巧は感心する。
「だから、礼儀ってあるんでしょうね。」
そう言った途端、猫実さんは一人、こくこくとうなずく。何かに納得したようだ。
「礼儀って、あの、そんきょとか、三歩進んで五歩戻るとか。」
巧は剣道の授業の苦い思い出が頭に蘇った。体育の中でも、剣道が一番嫌だった。先生が怖かったし、指示がよく聞こえなかった。周りを見て、常に怒られないようにビクビクしていた。今の体育の時間でもそうだが。
「はい。たぶん、あれがあるから本気で戦えるんですよね。想像してくださいよ。いきなり、やあーって襲い掛かられたらどうします。」
猫実さんは巧の手首に、軽く人差し指をとんと当てた。
「し、死んじゃいます。」
「うふふ…。そうですよね。」
猫実さんは指を引っ込めて笑った。
「でも、だからというか、始まる前に向き合って心を落ち着けるんです。これから全力であなたに向かいます。よろしくお願いします。って。終わった後もちゃんと礼をします。
それがなかったらたぶん、剣道は意味がなくなっちゃうんです。ただの暴力になっちゃうんです。まあ、それは言い過ぎかな。」
猫実さんは、まだ少しわからなそうに首を傾げた。
巧は、猫実さんの言葉がすとんと腑に落ちるのを感じた。胸がすっきりして、まさに一本取られたかのようだった。こんなふうに説得されるのは久しぶりだ。
「で、何の話でしたっけ。」
「あ、どうして猫実さんは初めての人でも、緊張しないのかなって話です。」
巧は脳内で、一字一句逃さずに猫実さんの話を書き留めてある。そういうふうに、巧の中に残っている言葉が他にいくつもあるのだ。それをときどき一人で思い返す。まるで、その時に返るかのように生き生きと思い出せる。
「そうでしたね。」
猫実さんが話を思い出して、ばちんと手を打って笑った。巧もすこし微笑む。
「とにかく、礼儀が大事ってことかな。」
「そういうことです。」
猫実さんが巧の目を見て、うん、とうなずいた。
「まあ、カフェとは全然関係ないけど…。」
猫実さんが話を戻そうとした時に、とっさに「そんなはずはない」と猫実さんをかばおうとした。すると閃光のように、巧の頭にふとアイデアが浮かんだ。
「いや、ありますよ…。カフェにもルールを作ればいいんです…!」
巧は自分のアイデアにおぼれそうになりながら、言葉をついだ。アイデアを逃さないようにすこしづつ捕まえる。
「聞こえないなら、聞こえるまでゆっくり話すというのをルールにすればいいんです。悩み相談を持つのではなくて、テーマを決めて、お互いに悩みについて話すルールにすればいいんです。」
これなら、自分のコミュニケーションの問題も、カフェが何をする場所なのかはっきりしない問題も、一気に解決する。
猫実さんはぽかんとして巧の言葉を聞いていた。




