忘れてください
電車から降りた後、巧はずっと猫実さんの言葉を頭の中で繰り返していた。あんなふうに、お願いされるとは思っていなくて、巧の方が戸惑ってしまった。
家に帰ってからも、宿題は手につかなかった。猫実さんがくれたアイデア帳をめくりながら想像を走らせていた。猫実さんの細やかな字をながめていると本当に、そこに猫実さんがいるのではないかとわもった。思わず、ノートに書かれた字に指で触れた。
猫実さんはずっと書きたかったのだな、と思った。自分が想像しているよりも、ずっと、彼女の世界を大切にしているのだとわかった。登場人物は皆、細やかに設定されていた。どういう暮らしをしているのか、誰か好きでどんな気持ちを抱いているのか。これ以上巧が書き足すことなどないように思えた。
書いてあげることが、猫実さんの救いにもなることがわかっていた。猫実さん自身が書くという想定した形とは違う。しかし、自分が書くことで確かに猫実さんの思いは、果たされるだろう。
ノートの前で座っていると、猫実さんからメールがきた。
息が詰まる思いで、携帯をつかんで、巧はそれを読んだ。
「今日は本当にごめんなさい。」という件名だった。
「はい」
次の日、巧は猫実さんにアイデア帳を返した。猫実さんは「ありがとうございます。」と、それを受け取った。巧はどうすればよいのかわからないままだった。昨日のメールで、猫実さんは「やっぱり忘れてほしい。」と巧に伝えた。もちろん巧は忘れることなどできるはずがなかった。
「昨日はすみません。勝手なお願いをして、恥ずかしいです。」
猫実さんは、申し訳なさそうに声を落とした。
「そんなことないです。」
巧は元気付けようとして、声を大きくする。
「また何か手伝うことがあったら言ってください。」
「ありがとうございます。優しいですね。」
すんなり、優しいと言われて、巧は意外だった。優しいって、どういうところがそうなのだろう。自分はただ、猫実さんの話を聞いていることしかできなかった。それだけでも良かったのだろうか。
「あの、来週のカフェの話しませんか。無理なら月曜日じゃなくてもいいんじゃないですか?」
「いえ、やります。」
猫実さんは首をふった。それは自分の気持ちを切り替えるためのようでもあった。目には、気合が戻り始めていた。
「お助けぴょん吉も作りましたし。」
猫実さんは、掌に乗るほどのぴょん吉のぬいぐるみを机に出した。桃色のフェルトの体に、リボンの鉢巻きを頭に巻いている。鉢巻には、「お助け」と手書きで書かれている。巧はぴょん吉の釣り上がった眉と黒々とした目を見た。少し、元気が湧いてきたような気がする。




