表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クリエイト!(その3)  作者: 大塚
夏が始まる
29/118

待つ人

 巧はそわそわして気持ちが落ち着かない。小説もいつもなら喜んで、二、三時間集中していられるのに、ちょっと書いては座っていられなくなる。この間テレビでみた健康体操をしたりして、なんとか紛らわそうとする。気が散ったのを、紛らわそうとするから余計に気が散る。

 それで、結局アレはいつ着ようか。

 いまは待ち合わせの時間までまだ六時間ほどある。巧はなかなか進まない時計から目をそらして、ベッドの上にある浴衣、じゃなくて作務衣に視線を下ろした。これっておじいちゃんが着るやつだろ・・・・・・。と思ったが、こうなったら小説のネタにしてやる。

 家にあるのが、作務衣しかなかった。母にも抗議してみたが、「男はひかえめにするのよ」と言われた。だったら剣道着でいく? と言われて引き下がった。

 

 そんなふうに悶々とする以外、やることがない。いや、何をすべきか、と言われたら小説を書いたり、宿題をしたりすべきだと頭の中ではわかっている。でも何も手につかない。頭が猫実さん以外のことを考えることを拒否する。

 不思議に思った。自分もこうやってドキドキすることがあるのかと驚いた。難聴の自分には、ほかの何かも欠乏しているのかと思っていた。周りの人と自分が違うと思うと、目に見えない何かが欠けているように感じる。普通と言う言葉を、諦めていたし、信用していなかった。でもこうして、誰かのことを考えて悩むことはできるのだ、と知って、悩みながらも安心した。

 自分には、小説が一番だと思っていた。でも、いまならもっと大切な人が心の中にいる。巧は自分が変わっていく感覚をおぼえた。こんなことも小説に書けそうだよな、とも考えた。


 何を話せば良いんだろう。とベッドに仰向けになって考える。夏の日差しが、部屋においてある物一つ一つに影をつける。クーラーはかけていない。時々風が窓から入ってくる以外、しずかで一人きりだ。

 猫実さんが楽しんでくれるような話とは何だろうか。目を閉じて考える。部活、と思いつく。

 お助け部はまだまだ未熟だと思う。生徒会の仕事を手伝ったり、ポスターを作ったり、ラジオの練習をしたりした。それはそれで楽しかった。今までのことを考えると、とても懐かしい。でもまだ猫実さんの思うようにはできていない。「人を助ける」というビジョンが実現されていない。 

 でも巧は放課後の二人きりの時間が好きだった。小説を書いたり、真面目な話をしていたり、そんな時間が自分の中にかけがえないものとして積もっている。意味がありそうで、意味の無いような時間。でも、大切な時間。猫実さんの中にも、積もっていたらいいなぁと思う。

 もしも、お助け部が有名になって、二人だけの時間が減ったら・・・・・・。すこし寂しいなと思う。猫実さんにはすこし悪いけど。でも、これから活動していくならそれは避けられないことかも知れない。巧は猫実さんがうまくいくことを願っている。だから、今まで二人の時間についてお礼を言ってから前に進めたら良い。

 布団の中で、迷いながらまっすぐにそう思った。


 母に呼ばれて昼食をとる。夏休みでも平日だからテレビは主婦向けの情報番組だった。音は聞こえないので内容はどうでもいいが、天気をもう一度確認する。オレンジ色の太陽のマークがかつて無く愛おしく見えた。巧は安心する。行けるんだ、と何度も心の中でガッツポーズをする。こんなに大げさに喜んだのが久しぶりでおかしい。

 いても立ってもいられなくなって、部屋に戻り、作務衣に着替える。いつもと違う布の感触が涼しくて、恥ずかしい。これで街に出るのだと考えると、あんなこと言わなければ良かったと思う。でも、これならば浴衣の猫実さんともつり合いがとれるだろう。もういっそ、世界に二人だけなら恥ずかしくないのに。放課後のお助け部の部室みたいに。

 猫実さんを待たせるよりかはまし、と心の中で思い立って家をでる。半分、待っていられない自分もいた。

 夏の中、自転車をこぐ。見た目はともかく、作務衣は涼しかった。紺色なので光を吸ってしまうかと思ったが、空気の入りが良くて、暑くない。それに、周りの目を意識しながら、普段とは違う服装で街をいくのは、慣れると楽しい。いつもは、周りの目など気にしてなかった。でも、今日は違う。見慣れた景色も、新鮮に映る。自然とほおが緩くなる。なんとなく巧は、真っ青な空を見上げた。どこまでも青く。美しいという言葉が似合う景色だった。

 駐輪場に自転車を止めると駅に向かう。駐輪場のおじさんに挨拶し、群れをなしてとまっている自転車の開きを探して止める。一つ一つのアクションがいちいち恥ずかしい。誰かのために、自分のためにしたいことをする、なんていつ以来だろうと思う。電車の窓からは、通学する時に見る景色が広がっている。家の屋根の一つ一つを巧は眺める。それだけで楽しかった。

 三十分早く、ついてしまった。

 さっきからずっと、胸の辺りが痛い。今日の自分は変なのではないかと思う。まさか本当に胸が痛いほど、誰かを思っているなんて、自分で自分を不思議に思う。どうして精神が、体に影響を及ぼすのだろう。

 今の自分では表現できない感情が混ざり合う。苦しみでもない。楽しいのでも、嬉しいのでもない。言いようのない気持ちを人は「恋」とでも言ったのだろうか。恋とはわからなさにつけた名前で、恋をしていると言ったところで自分はちっとも楽にならない。

 言葉を探すことすら諦めて、改札のほうに視線を走らせようとした瞬間、目の前に彼女が立っていた。

 浴衣といつもと違う団子にまとめられた髪と、いつもと同じ笑顔が一斉に襲いかかってきた。不意を衝かれて言葉を失った。猫実さんが何かを言ったように口を動かしたが、冗談ではなく聴覚が一瞬どこか行ってしまった。

 「晴れて良かったですね。」 

 彼女の声をもう一度頭の中で、繰り返してやっと意味をつかむ。これは夢ではなく、現実なのだと理解する。駅の雑踏の声や音が戻ってくる。

 「そうですね。」

 と巧は急いで返事をした。


 まだ花火すら見ていないのに、巧は幸せでいっぱいだった。街の景色がいつもより解像度を増して迫ってくる。それが強烈に感覚を刺激して、自分が歩いていることを忘れそうになる。隣をあるく猫実さんに夢中で、巧はいくつかつまずきそうになった。そのたびに「大丈夫?」と猫実さんが心配してくれて、巧も「大丈夫です」と答える。先輩と歩いたときも、そうなったと思い出す。でも今日は、全然大丈夫になりそうもない。

 白をベースに、赤と青のくの字型の模様が整列したデザインで、帯は引きしまった紺。猫実さんの浴衣に見とれていた。彼女の誠実な感じや、清らかな感じが体現されているように見えた。

 結局、「似合ってますね」と無難な言葉を選んでしまった。それ以上言うと、自分の余計な気持ちまでばれてしまいそうで、駄目だった。

 「いやそれほどでも。」

 猫実さんは、ほんのり声をはずませて喜んでくれた。嬉しい。

 「巧さんの、ゆか……作務衣も珍しくて似合ってますよ。」

 「そうですか。」

 巧の方もまんざらでもない。どうしてこんな単純な言葉でこんなに嬉しくなるのか、わからない。

 幸せで、何も意識しなくても笑顔があふれてくる。このあとも続くだろう、この甘い時間が終わって欲しくない。ありきたりな願いだけど、そう思った。


 バスを使ったらすぐに着きますよ。といわれたのだが、バス停にも浴衣の人々の列ができていた。

 二人でその列に加わる。猫実さんはいつもどおり、うっすら笑っている。ポニーテールではなく団子の髪型の分、首筋がきれいな線として目に入ってくる。巧は見とれながらもこんなふうに人をみて良いのだろうかと戸惑う。何が適切な接し方なのか知らない。

 気持ちが人の物の見方や、心まで変えてしまうことに巧は驚く。それを自分の体験として得られるのが不思議な驚きだった。その気持ちは本当で、それを言葉にしてしまったら本当に力を持つのだと思うと、めまいがする。自分と自分のこれからも、猫実さんも、変えてしまう。自分にはわからない形で、変わってしまう。

 「巧さん。」

 猫実さんが向きを変えて、こちらを見た。

 「今日のこと、小説に書きたいって思ってます?」

 「ん、ああ…はい! もちろん書きます。」

 うわずった声がでてしまう。しかし、思ったことをそのまま書くわけにはいかないだろう。でも、自分の体験を書いてきたからには、この猫実さんへの気持ちも書きたい。でも、猫実さんには読まれたくない。というか、誰にも読まれたくない。でも書きたい。

 巧は、バスを待ちながら密かにもだえる。

 「こうやって巧さんといるのって、めずらしくないですか」

 「そ、そうですね」

 立って並んでいるからか、いつもより近くに感じる。目や唇の形までわかる。どうやって書こう、と考える。そういうふうに考える自分もやましい気がして心の置き所がわからなくなる。

 「いつもは、仕事というか部活のことですから。」

 「はい。」

 なるべくはっきりと返事をしようと、頑張る。

 猫実さんの声は、耳に心地よく届く。聞き取りやすくて楽しい。自分が透明になっていくのを感じる。障害があることを忘れて、巧はうなずける。何を話そうかと、頭が必死に回り始める。そんな経験が無い。元から人と会話をしないし、まともに話すとしても先生や、業務連絡が多い。 知らなければならないことを、知らなければならないから大きな声や筆談で伝えてもらう。知らなくてもいいことが自分の周りを通り過ぎていくのがわかる。同級生のはしゃぐ声や、テレビの画面が、自分のことを見ていないと感じる。

 知らなくてもいい話を、猫実さんはしてくれる。

 なぜか巧の前で立ち止まってくれる。なぜか知らないけれど、手を差し伸べてくれる。何でも無いことで笑ってくれる。くだらないことで、心が揺り動き、温かくなる。


 バスがきて、ひとりずつ列を回収してゆく。なんと、一回ですべて入れなかった。二回目のバスでようやく乗り込むことができた。街をあげての盛大な催しに、たくさんの人が胸をふくらませて集まってくるのだろう。

 猫実さんのまねをして、ICカードをかざして乗り込んだ。人が詰めかけてくる。朝の満員電車より、苦しいかも知れない。つり革が少ないが、なんとなく巧は頭上にある物をつかんだ。それでも人がもっと乗り込んできて、猫実さんと一緒にバスの奥に押し込められてしまう。二人の体がくっつく。猫実さんの肩が、巧の胸にあたる。以外とやわらかいな、と冷静にそれを感じる。力のつよい猫実さんだけど、巧よりもずっと軽くてはかない質感だった。バスが動いてゆれるたびに、ふれあう感じも変わっていく。こんなふうにふれてしまうことに、罪悪感を覚える。じゃあ、どんなふうなら良いのか、と思考が移り変わろうとした瞬間に、巧は急いで打ち切る。目の前には猫実さんのお団子がある。うなじがすこし動いた、と思ったら猫実さんが巧の方を向いてきた。目が合った。猫実さんはどこか楽しげに、口をうごかしてささやいた。こんでますね、と言ったのだと思ったから、巧も「はい」と返事をこっそり返した。


 バスからようやく解放されると、心がのびやかになった。上を向いて空の青さにはっとする。青色が天球いっぱいに広がっている。会場の海に面した公園に歩いて行くと、レジャーシートを広げた家族や、さらには屋台がいくつも軒を連ねていた。先輩と来たときとは全く違っていて、同じ公園とは思えなかった。

 「レジャーシート持ってきましたよ」

 と猫実さんがバッグの中からアニメのキャラクターの柄をのぞかせる。小さい頃、巧もみたことのあるキャラクターだった。見せられてはじめて自分が、特に用意もせずに来てしまったことを後悔する。

 「すこし待ちますけど、今なら開いてますね」

 「遅いととれませんか?」

 「はい、立ち見です。それでもいいですけどね。」

 猫実さんが遠くの堤防の方へ歩き出す。巧もついてゆく。 「あちらが、花火が上がる方角なので、ここに二人で座りましょうか。」

 せっせと、猫実さんが足を折りたたんで、地面にレジャーシートをひく。みているだけにもいかず、巧も手で端をおさえるのを手伝う。地面に二人が座れるぐらいの小島ができた。畳一枚分よりすこしせまい。草履を脱いで猫実さんがはだしであがりこむ。緑色の芝生に赤い鼻緒が残される。巧もおじゃまします、と言いながらレジャーシートにのりこむ。すこし冷たい感触がいいようのない懐かしさをつれて、記憶をさかのぼってゆく。保育園のころ、こんなふうに裸足でレジャーシートに乗っただろう。

 そんな昔の思い出を、こんどは他人とまた体験するのだ。巧は不思議な気持ちを味わいながら猫実さんの隣に体育座りをする。猫実さんの足はしっかりして、さっき感じたはかなさはあまりなかった。きっと剣道をやっていたからかもしれない。

 空を見あげる。ビルに遮られない広い空にすいこまれそうだった。堤防をはさんで、海が見える。波はほとんど無くきらきらと太陽の光を水面が反射している。たくさんの種類の青が見える。美術の時間に見た青の名前を当てはめてみる。群青、水色、マリンブルー、スカイブルー、セルリアンブルー。それでも、言葉が足りない。美しさを表す言葉を自分は知らない、と思い知らされる。

 猫実さんは、バッグから一冊スケッチブックを取り出した。

 「スケッチでもするんですか?」

 「いいえ、これから巧さんと話したいことがあるんです。」

 ほおの近くの髪を風になびかせながら、猫実さんはスケッチブックをめくり始める。絵より文字の方が多い。猫実さんなりの考えのまとめ方なのかも知れない。文字を平面的にならべて、全体を捉える。だから、ノートよりもスケッチブックの方が向いている。

 巧はよく聞こえるように猫実さんの行動に意識を集中する。

 「始まるまで、お助け部の今後について話をしようかなとおもいます。」

 膝を崩した猫実さんが胸の前に両手で掲げたページには「お助け部について。」と大きく油性ペンで書いてあった。わくわくした、唇がわらっていてそれが何よりも巧を楽しい気分にさせた。

 「・・・といいたいところですが、まず混んでくる前に屋台で夕食を買いに行きます!」

 猫実さんがさっと立ち上がった。巧も立ち上がって息を吸い込むといつもは感じない爽やかで硬質な香りをかすかに感じた。これが海の匂いなのだと知った。

 ほかのレジャーシートを踏みつけないようにして屋台に近づいてゆく。香ばしい匂いもただよってくる。浴衣のカップルや、制服のままの少女。バッチリ着物を着ているおばあさん。いつも通りの服で来た、という風なおじさんまで多種多様な人が歩いたり食べたり、笑ったりしていた。何を話しているかは聞き取れないが、熱気を込めた騒がしさは嫌いじゃない。

 二人で、いろいろある屋台を回ってゆく。猫実さんがベビーカステラを買った。口に一つ頬張りながら、「食べる?」と当然のように紙袋を差し出してきた。そんな経験の無い巧は、嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちを入り混ぜながら、おそるおそる一つだけいただくことにした。

 歩きながら、なんだか楽しいぞと思えるようになった巧は、焼きそばとフランクフルトを買って歩いているうちに食べてしまった。猫実さんは、ケバブとチョコバナナを買った。無邪気に楽しんでいるようだった。結局、巧はいちご味の、猫実さんはブルーハワイ味のかき氷をレジャーシートに持ってかえって、食べながら会議を始めることにした。

 「えーと、お助け部って、一学期どうだったとおもいます?」

 猫実さんがかき氷のカップをシートの上において、スケッチブックのページを再度開いた。いろいろなことを思い出したが、結局自分たちが二人であれこれ考えていることが多い。まともに、依頼になったのは山形さんぐらいしか思いつかない。

 「スーパーマンのようには、なりませんね。」

 巧はそう言うと、猫実さんが「はい?」とけげんな顔をして返してきた。

 「えーと、僕が言いたいのは、超人がすごい力で人を助けるのではなく、普通の僕たちが普通の人たちを助ける、と言うことです。」

 「なるほど。」

 猫実さんが筆先を軽く鳴らしながら、メモをとっている。脇に置いたかき氷には興味を無くしてしまったのかもしれない。

 「ほんとに、人を助けるって地道ですよね。助ける側になって初めてわかりました。」

 猫実さんがうなずく。巧も話が通じて嬉しいと思う。

 「いつもは、助けられている側ですから。」

 巧は体育座りで結んだ腕をもっと強く、組み直した。手汗がでてきて、目がうるんできた。景色がやわらかく心にしみこんできた。どうしてこんなに嬉しいのだろう。隣に座る猫実さんを直接見ることはできなかった。

 「猫実さん、ありがとう。」

 と声をすこしだけ大きくして言った。もし、くぐもって言い直すことになったら、できないかも知れないからだ。言ったと途端に、意識が体から離れていくような気がした。巧はなんとか、現実を確かめるかのように頭の後ろをさわって、また足の前で手を組んだ。

 「いえ・・・それほどでも。」

 猫実さんは手を小さく振って、レジャーシートの上のキャラクターと目を合わせた。巧は、そんな姿と、それほどでも、という言葉の使い方を覚えていようと思った。

 「あの、巧さんは、お助け部たのしいですか?」

 「はい。もちろん、たのしいです。二人で待っている間とか。」

 「そうですか。・・・待っているのが楽しいんですか?」

 「ああ、なんか居場所があるって感じがするんです」

 また、頭の後ろをさわった巧はそれが恥ずかしい時の癖なのだと自分で気がつく。それがまた恥ずかしくなる。猫実さんの方をちらと見ると、こちらではなく、崩した足の指を見ていた。すこしほっとする。いつものように視線をぶつけてくるのではなく、何かを考えているようだった。 「そうですか。ならよかったです。」

 巧が見ていたのに気がついたのか、猫実さんがぱっと輝くように笑った。まぶしくてまた、前を向く。今はどんな物よりも素晴らしく見える。不思議だった。テレビや本の中に存在する憧れは、息をひそめて、ただ猫実さんの笑顔がみたいと思う。彼女のそばにいる時間がとても満たされているように思う。

 「やっぱり、お助け部に一番助けられたのは自分だと思います。」

 素晴らしい何かにふれていると、自分でいられなくなるのではないかという恐れが、今までの巧にはあった。書いた人の信念が刀となって突きつけられる小説。人生が変わって見えるほど素晴らしい映画。自分の存在を揺さぶってくる他人の表現が怖かった。自分が試されているような気がした。自分に書くべきことが残されているのかと、不安になった。

 けれども、猫実さんの前では心が落ち着く。自分が許されている気がする。

 「意心地がよくて、楽しくて。放課後お助け部に行くために学校に通ってたと言ってもいいぐらい、楽しみにしていて。たくさんの理解してくれる人に出会えて、良かったです。」

 ふるえそうになる声を、おさえながら巧は言葉を選んだ。猫実さんに伝えたい気持ちはこれだけではない。けれど今は、何よりも感謝の言葉をただ捧げるだけで返事を求めない言葉を、選び取っていた。

 「それは、巧さんの方も私に伝えようとしてくれたからたですよ。」

 猫実さんが寝かせていた膝を立てて体育座りになった。背景の空は、気がつけば暗くなっていた。猫実さんのつま先の前にあるスケッチブックには「やっぱり地道」とメモがしてあった。

 「あの、僕は幸せだと思います。」

 薄暗くなって、よく見えなくなったスケッチブックをなんとなく眺めながら、巧は言葉をつづけた。

 「これからもっと幸せになれるようにがんばりたいと思います。」

 幸せとはいってもまだ、やり残したことがある。そして、誰かを幸せにしたいとも思う。誰かを幸せにする小説が書けたら最高だ、と思う。見当もつかないまま、ただ文章を書いている。その先に何があるのかを知らないまま。たどり着けるのかどうかもわからない。猫実さんに文章を教えて欲しいと言われても、巧が逆に教えて欲しいぐらいだ。

 隣にいる猫実さんは何も言わない。なんだか一人で完結した話をしてしまった気がした。巧は話題を戻そうとして、猫実さんに質問した。

 「猫実さんにとって、人を助けるって何ですか?」

 哲学的すぎたかな、と心配した。言葉を待ちながら、猫実さんの方を見つめた。

 猫実さんは困ったように笑って、それからすこしせきばらいをした。

 「人を助けるということは・・・。」

 「はい。」 

 夕暮れの中、目が合った。猫実さんのぬれた目を見て巧は息を呑む。

 「助けられる人が、『幸せ』と言ってくれるまで、その人のそばで、待つことです。」

 ゆっくり、言い聞かせるように伝えてくれた言葉を、巧は一字一句逃さずにもう一度、反芻しようとする。頭の中で、もう一度くり返すまでもなく、意味が胸を打ってきて、巧は動けなくなった。純粋な感情そのものが駆け上がってきて、体が震えた。

 助けられる人が、『幸せ』と言ってくれるまで、その人のそばで待つこと。

 風が吹いた。猫実さんが目頭を人差し指でぬぐっている。「すみません。」と小声で猫実さんが言った。何に対してあやまっているのか、はじめはわからなかった。人が嬉しいとき、こうやって泣くのだと巧はわかった。もう一度風が吹いて、スケッチブックのページがめくれる。猫実さんはそれを反射的に左手で押さえた。鋭い紙の音がした。

 かつての猫実さんのメモが夕闇にういている。「英語はリスニングもおこたらない。毎日やる。」「寝る時間は削らない。限りある時間を有効に使うこと。」「数学はとにかく練習。本番のつもりで集中してやる。」・・・期末試験のときのメモだろう。

 巧は目を細めて、それをおさえる猫実さんの手を見ていた。左の目からおさえきれなかった涙が彼女のほおを流れた。だから、猫実さんは右手で両目の涙をぬぐった。

 巧は、自分が助けられたのだと、助けられることがやっとできたのだと思った。だから、猫実さんがうれしいのだとわかった。巧は猫実さんの手にそっとふれて、スケッチブックを畳んだ。何か動いていないと耐えられなかった。彼女の手は、また再び力が宿ってスケッチブックを受け取った。猫実さんはこくりとうなずいてそれをバッグにもどした。

 なにを言えばいいのだろう。これ以上無い気持ちを。巧は、もし自分の心という物に実体があるのなら、体から取り出して彼女に差し出す自信があった。そうしたかった。 「猫実さん。」

 おどろくほど速く、彼女がこちらの方を向いた。巧は急いで体を彼女に向けて座り直した。

 言葉をさがす。

 「ありがとう。」

 照れくさくて思わず目をそらして笑ってしまった。ほおが熱くなる。けれど、ありがとうと言った一瞬のことをまた味わう。本当の意味で、今まで言ってきた「ありがとう」よりもっと深い意味で言えた気がする。こういうときのために、ありがとう、と言う言葉が用意されていたのだと思う。今まで言ってきた「ありがとう」はそんなときのために、自然と口から出るようにしてきた練習だったのかもしれない。形に、意味がやっと宿った気がした。

 「素敵なことばですね。」

 巧は猫実さんも同じようなことを考えていたのだと気づく。

 「そうですね。」

 「私も言っていいですか。」

 「はい。」

 「私の方を見てください。」

 「えっ」

 巧はいそいで体育座りのまま隣に座る猫実さんを見る。勢いで、ビニールシートの上に正座をしてしまった。すると猫実さんも笑って、ゆっくりと正座をして巧に向き合った。私の方を見て、ってこんな風にだろうか。違う気もしたが、なぜか凜とした猫実さんの正座をみると、とても甘やかな気分が心を満たしてゆく。体全体が嬉しくて興奮しているのを感じる。

 「えーと。こほん。」 

 猫実さんがにぎりこぶしを口元に持って行って笑う。巧も微笑み返す。

 「巧さん、有り難う。」

 「どういたしまして。」 

 自分の何倍も美しく爽やかなありがとう、に巧は見とれる。ああ、そんな猫実さんが好きだ。と思う。

 せっかく正座をして向き合ったのに言う言葉がない。どういたしまして、のあとにこちらこそありがとう、と付け加えれば良かったと後悔する。逃したタイミングは帰ってくることなく、すこし気まずい空気が漂いはじめる。こうやって見つめ合っていたいけれど、ただ見つめ合っているだけでは不自然だ。巧は「これからもよろしくおねがいします。」とぎこちなくお辞儀をした。正座だと、お辞儀がひかえめに、自然になる。そんなことよりも足がだんだん痛くなってきた。 

 猫実さんが「こちらこそよろしくおねがいします」とお辞儀を返してくれた。笑いながら、手を差し出してくる。握手だろうか。ためらいながらも巧も手をのばして、猫実さんの手に自分の手をあずける。うまく力が入らないからだ。やわらかくて軽い手がしばらくして離れる。目を合わせていたとき、自分の目に過剰な思いが込もっていなかったか心配だった。猫実さんが差し出した手に、それ以上の気持ちを込めないように気をつけた。自分の恋心というものはむしろこの場においては邪魔になると思った。それを超えたところにあるもっと高潔で、神聖な関係で結ばれていたいと思った。それがいつまでも続けばいいと、巧は思った。


 「まもなく、第三十五回納涼花火大会をはじめます・・・」


 大きな音量でアナウンスが流れる。猫実さんが正座を崩してもともと見ていた海のほうに向き直る。巧もそれに合わせてやっと、楽な姿勢になる。足がしびれていたので自分でさする。

 アナウンスを二人でしずかに聞く。細かい数字は聞き取れないが何万発という単位で上がるらしい。それがおおいのか少ないのかは見当もつかないが。

 「楽しみですね。」

 体をふるわせて猫実さんが巧に笑いかけてくる。巧の方は頭がうまく回らずに、うんと返事をするだけだ。これから何が起こるのだろう。

 「はじめてです。」

 「はい?」

 「はじめて近くで花火をみます。」 

 声に出したが、小さくくぐもってしまった。こうやってじっくり語ったりする機会がない。さりげない声の出し方も忘れるぐらい、孤独だった。

 「きっとびっくりしますよ!」

 「へえー。」

 もう一度、アナウンスが流れた。音楽とともに、女性が「まもなく、開会です!」ハイテンションで状況を伝える。「まずは、市長のごあいさつです。」

 おおー、と周りのビニールシートから歓声がもれる。知らない市長の声が聞こえてきて、なるほどここは隣町なのだな、と思う。そして花火大会とは別にしずかにしていなくてもいいのだと学ぶ。映画とは違うところだ。

 市長があいさつをして、終盤に協賛の会社の名前をならべてついに、「ではお楽しみください!」とコール。

 猫実さんも「わあああ」と胸の前で手を軽く合わせて空を見る。巧も見逃すまいと、のっぺりとした夜空を見つめる。


 あまりにも大きくて音だと気がつかなかった。

 次の瞬間金色の閃光が夜空に輝いた。巧の周囲を明るく照らした。誰もが光を顔に受け止めて、歓声をあげる。

 背筋を駆け上がってくる感動を言葉にする間もなく、また夜空に花火が開く。胸をたたきつけるような音が届く。

 巧はただ味わったことのない景色が現実に変わっていく様子をながめていた。聞いたことのない大きな音を感じていた。空に金色の花が散る。幾条もの光の束が立体感をもって迫ってくる。

 これほどまでに、現実は豊かで美しいものだと知った。 見上げているふとしたときに、さっき猫実さんが話した言葉がよみがえってきて、喉がふるえた。いそいで、こんな自分は変だと、思おうとした。けれど、喉に力をいれても、目に涙が浮かんできた。必死で上を向く。何が恥ずかしいのか? 何で泣くことが変なのか?

 花火の大きな音は感じるのに、どこか遠く、それでも明るく人たちを照らしている。大きな音と、光とやわらかな熱に包まれていると、周りの何万という人と、空と海と大地が自分と一つになっていく感じがした。そして、猫実さんも。

 「きれいですねえ。」

 「はい。」 

 巧は、涙をかくさないまま猫実さんを見た。まるでそれをさらけ出すかのように彼女をみた。花火が光って、景色を等しく色鮮やかに照らした。巧の涙を見たはずなのに猫実さんはいつもと変わらずに笑った。そして手首を曲げて浴衣の袖をつかむと、それで巧の涙をぬぐった。涙の匂いと猫実さんの手のほのかな匂いがした。

 たった一人の何気ない言葉で自分は泣いてしまうのだと、気がついた。弱い自分がなぜか今だけは愛おしかった。

 「猫実さんのことばで・・・」

 言いかけたとき、音にかき消された。猫実さんは巧の顔に手を止めたまま空を見上げる。金、赤、緑、と様々な花火が空に上がってゆく。そして、大音声とともに金色の大輪が空に開いた。柳のように黄金の線が海に降りてゆく。バラバラと火花が破裂する聞いたこともない音が、暗闇に残る。圧倒的な存在を感じて、我を忘れそうになる。

 それでも見ている自分は、この美しさを書き表したいと願う。言葉を探して、心に染み渡る感触を、味わっている。言葉がみつからなくいまま、花火が消える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ