甘い苦い思い
コーヒーに口をつけると、冷たくなっていた。冷めた苦味の中に少し甘い味がする。マグカップに残っているのを、そのまま全部飲み干した。先輩のグラスは大してあまり減っていない。
「小説を書くことって」
巧はそう言いかけて、次に来る言葉を見失った。
先輩も黙って、カウンターに肘をひっかけてグラスを口に運んだ。
巧は、もう一度外の景色を見た。どう、描こう。
あの歩いている人は、何を考えている?
あのイヤホンをつけて誰かを待っている人は、どんな曲を聞いている?
あのタクシーの運転手はどんな人なのだろう?
空は、深いところが濃くなっている。
雲が切れきれに、浮かんでいる。
隣に座っている先輩が、少しつぷやいた。あまりにも、小さな声だったから聞き取れなかった。彼女は、本当に楽しいという気持ちでカウンターの向こうの景色を見つめている。そのまた向こうの、彼女の心の中にある世界を見つめているのだろう。先輩のグラスは大してあまり減っていない。
「小説を書くこと」
先輩は呟いた。巧は、聞き取れなくて首を傾げた。
「小説を書くこと」
先輩ははっきりと言い直した。何かを諭すように。巧はその黒い目を見つめた。先輩はなぜか、続きの言葉をなかなか言わなかった。巧は、それでいいのだと思った。続きなどわかるはずがない。そう直感していたのだ。自分は、その先にある言葉が知りたくて、試しているのだから。
「そういえばさ。」
「はい。」
もう一度集中して、巧は背筋を正して先輩の方に体を回した。
「君、今度ネコと花火観に行くって言ってたよね。」
先輩は、鼻歌を歌うように笑った。巧は一気に顔が熱くなる。
「それがなんか、自分にあってるかよくわからなくて。」
隠そうとして、とっさに出た言葉がおぼつかない。
「自分に合わないって、どういうこと?」
そう返されて、何もいえないことにさらに頭が熱くなる。首筋が痺れて、鼓動が早まるのを感じる。今更、人が誰かを思って顔が赤くなったり、ドキドキしたりするのは本当のことなのだと思う。巧は、ついに何も言えなくなって先輩の目に射抜かれたまま、口を動かす。声が上手く出なくて、言っても届かない。先輩は、巧に向き合うように体を回す。膝と膝が少しぶつかる。先輩はカウンターに置いてあるグラスをストローで一口飲んでから言った。ストローを咥える横顔が、残像のように目に焼き付いた。
「君、ネコのことどう思ってる」
「えっ」
聞き逃したわけではない。ただ、率直にすぎる物言いに気圧される暇もなかった。
「猫実さんのことですか」
先輩は何も言わずに、少し唇をすぼめてうなずく。言えば言うほど息苦しくなってくる。
「好き、です。たぶん・・・」
やっと本当のことを言ったのに気持ちよくもなんともなかった。その代わり、鋭い耳鳴りが頭を貫いては去っていった。
「たぶん、じゃなくて解りきっていることだが。」
先輩は目を逸らさずに言った。巧は喉のおくで変な声がでた。
「どういうふうに好きなのか、聞きたいな」
めまいがする。コーヒーを飲んだのにどっと眠気と体の重みが吹き出してくる。
「ちょっと顔赤いよ」
先輩が手の平で、頰を触ってくる。冷たい感触に、反射的に体が反応する。
「やめて、やめてください。」
巧は、丸椅子の上で必死に身をよじる。
「なんなんですか、もう・・・」
やっと逃れた巧は、カウンターに突っ伏してため息を吐く。ちょっと目が熱くて
涙がでた。先輩に何も言わなければよかった、と今更後悔する。悔しさがこみ上げてきて唇をかんだ。悔しい気持ちになるのだと、自分でも初めて知った。ずっと猫実さんのことを考えていた。それは、巧の頭の中だけのことだった。だから、いくらでも考えることもできたし、悩むこともできた。でも、先輩にいざ言うと、我に帰って何もできていない自分が情けなく思えてくる。現実の猫実さんのことを全く、考えられていないかもしれないと怖くなる。
「巧。どうしたの」
先輩の心配した声が頭の上から届く。息を吸うと、思ったより肺が震えて、ぐすん、と声が出た。でも、俯いたままだと、ちゃんと会話ができないので顔をあげる。自分でうまく制御できない呼吸を、これまで出したことのないほどの必死さで押さえつけた。当然、体は言うことを聞かなかったし、何度も泣きべそが漏れた。
「泣かせちゃった?」
「せんぱいのせいじゃありません」
もしここがカフェでなかったら、先輩の胸に飛び込んで泣きたいところだった。自分が自分にしかわからない理由で、泣いているのが悲しかった。




