夏のカフェ
「暑いな。」
「はい」
巧は、落ち着かない気持ちで隣を歩く先輩の顔色をうかがう。よく知らない道を歩くには難しすぎるシチュエーションだ。さっきから側溝につまずいたり、電柱にぶつかったりすでに満身創痍である。電柱にぶつかる巧を見て、先輩は「犬も歩けば棒に当たる」と呟いていた。
町は、穏やかで歩いている人も少ない。どこに向かっているかもわからないまま巧は、先輩の歩調に追いつくのに必死で歩いている。
「あの、もっとゆっくり歩いたほうがいい?」
「あ、はい。いえいえ!」
「どっち?」
先輩は振り返って立ち止まる。首を傾げて笑っている。
「あ、ゆっくりでお願いします。」
「はーい」
巧が追いつくと、先輩はまたゆっくりと歩き出した。まさか、自分がこんなふうに先輩と話しているのが信じられない。まるで宇宙空間にいるかのような、足元の覚束なさを感じる。
「本当に慣れてないんだね。」
「すいません。」
どこかに座りたいなと思いながら、歩く。自分がそんなに早く疲れてしまっていることが情けない。さっきから見る先輩は眩しくて、少し見ていられない。話していることや、目が合うことが全て過剰に神経に突き刺さってくる。あとで絶対小説のネタにしよう、と決心して気をとりなおす。普段の自分にはないものを得ることができていると思えば、いくらかは気が楽に思えるかもしれない。
着いたのは駅の近くだった。巧も先輩の家に来るために使った駅だ。ロータリーの周りに店が立ち並んでいて、人々が軒下の日陰を選んで駅に向かっていく。
「カフェ行く?」
「はい」
「コーヒー飲める?」
先輩は笑いながら、尋ねた。反射的にしか会話ができていない自分に気付いて、でもやっぱり「飲めます。」としか答えられなかった。
カフェには、ぼんやりと音楽がかかっていて香ばしい匂いが漂っている。涼しい空間にたどり着いて何とか、気持ちも元に戻ってきた。巧たちも並びに加わって、順番を待つ。
「何にする?」
さっきよりも少し近くで聞こえる先輩の声。慣れない距離感だ。甘い香りも鼻に入ってきて、いい気持ちになる。
「僕は、コーヒーにします。」
というより巧はカフェでコーヒー以外の飲み物を知らない。
「ホット、アイス?」
「はい?」
「冷たいのと温かいのどっちがいい?」
そんなところまで聞かれると思わなかったのですぐに対応できなかった。コーヒーといえば何となくコーヒーが出てくると思ったのだ。
「私が奢るよ」
「え、いいんですか。」
「いいから」
「そんな、ありがとうございます。」
巧は、お辞儀をして礼を言った。こういうときにどうすればいいのかわからない。もっとお礼を言いたいのに、先輩はレジの上にかかっているポードを見て注文を考え始めてしまった。でも、何だかそれだけで自分がここにいていいのだと言われているみたいで、嬉しかった。
「じゃあ、巧、席取ってきてよ。」
「はい」
巧は返事をして、列から抜ける。そして、先輩が指さしたカウンターに向かって歩き出す。不思議と足が弾むように軽かった。そこそこ空いていたので、自分一人が座ればすぐに隣が埋まることはないだろう。やっと席に着いたら、お腹から深い息が出た。どうして自分がここにいるんだ。そんなことを考えた。先輩と一緒に何を話せばいいのだろう。そう考え始めると、まだ完成していない小説のことが気になってきた。夏休みが書くチャンスなのにまだ、とりかかれていない。それに、先輩は受験勉強があったりするのではないだろうか。猫実さんの方はまだ、文章を書くこともおぼつかない状態だ。よく考えれば、卒業までに小説を渡す約束を果たすのはすごく厳しい条件のように思えてきた。
「はい、どうぞ」
隣に先輩が椅子を引いて腰をかける。巧の前に、カップを差し出してくれた。丸々としたマグカップから、ほのかに白い湯気が立ち上っている。先輩の片手には、茶色の液体が入った細いグラスがある。牛乳とコーヒーの色のグラデーションだろうと予想するが、カフェラテだったか、カフェオレだったか名前は知らない。
「夏でも、ホットなんだね」
グラスに入った緑色のストローを軽く手で持って先輩は口に含む。熱いのですぐに飲むことはできないが、巧はいただきます、と断ってからマグカップを受け取った。先輩は、どうぞ、と手のひらを差し出す。
「考え事?」
先輩は、カウンターに肘を着いたままグラスをコツンとおいた。何が面白いのか、いつものように不敵に笑っている。巧は何だかそれが先輩らしくて、ほっとした。当たり前だけど学校の外でも先輩はやっぱり先輩なのだ。
「小説のことです」
カウンターのガラス越しには、ロータリーでパスを待つ人たちが見えた。これらかどこに行くのだろう。声が小さくならないように気をつけた。そしたら、自分の声が変だったような気がする。あまり人と話してなかったので自分の声のスケールがよくわからなくなってしまった。
「君はいつも小説のことを考えている」
君、と呼ばれて巧は自分の深い部分が呼び覚まされている気がした。考えが回り始める。先輩の言葉を受け入れるように、体が少し柔らかくなってくるような気がする。カフェは静かで、声を聞くことに集中しやすい。
巧にとって小説について考えることは、あまりに当然すぎて、夜桜先輩にそう指摘されても自分が変だとは思わなかった。むしろ、小説を書くことは、自分の考えをそれだけに懸けることですらあると思う。そうだから、自分は書くことに価値を感じているのだ。
巧は、自分が今取り組んでいる小説について話した。とりあえず書くことは出来そうだと言った。けれど、自分が思ったように美しく書くことは難しいのだと付け加えた。その感覚は、いくつか小説を書き上げてから、出てきた感覚だった。言葉を思い浮かべて書くことはできる。しかし、自分の頭の中にあるものを紙の上で言葉だけで再現しようとすると、どれだけ書いても上手くいかない気がする。その度に自分の語彙力や表現力の乏しさを痛感する。
「もっと勉強しないとって思ってます。」
先輩はそうか、とうなずいてまたストローに口をつけた。今度は噛むように。目は睨むように鋭く、ガラス張りの外の景色を見ていた。
例えば今、先輩の目にはどんな風景が広がっているのだろうと想像する。先輩はどのように言葉でそれを表すのだろう。巧はそんなことを考えた。書くことが、そうやって自分が見ている景色を言葉で捉え直す営みであるならば、その結果は一人一人違うものになるはずだ。だから、こうして二人で同じ景色を見ていたとしても、先輩なら巧と違う答えを見せてくれるはずだ。それがそのまま自分の答えになるわけではないが、巧は何かを得ることができるなら聞いてみたかった。
「君は、どうして小説を選んだ。」
先輩は指を口の前で組んで、巧の方を見た。特に考える質問ではなかった。
「小説以外、思い浮かばなかったです。別に絵が得意な訳でもなかったし。気がついたら、小説を書いていたという感じです。」
今思い返しても、不思議に思う。詩を書いたり、あるいは音楽を作ったりしても良さそうなのに、小説だった。これといって、感銘を受けた小説や文学は思い浮かばない。むしろ、そうした感動は小説を書き始めた後に感じた気がする。猫実さんや、先輩と出会ってから自分を動かす何かがやっとわかるようになった気がする。だから、小説を書き始めた理由を聞かれても、ふと思いついたから、としか言いようがない。
「でも、小説を書き続ける理由は、決まってます。」
先輩は黙って、巧の目を少しだけ見た。
「楽しいんです。書いていると、自分でもどうなるんだろうってワクワクします。」
「いいね。」
先輩は心から楽しそうに笑った。きれいな顔は笑っても崩れなかった。むしろその笑顔さえ先輩の中にある何かが貫かれているようだった。




