第九十三話 悪さはここまで
「何だってぇ? そっちに侵入された?」
世の裏側に潜む存在の一門を束ねる老婦人は不機嫌そうな声音でうめいた。
場所は大人達が忙しく動き回っている屋敷。彼女が当主を務めている陰陽師の本家である。
彼女は人を象った白い紙から、機密施設で発生した問題についての報告を受けていた。
どうやら隠蔽の術を破って隠し場所を発見した侵入者と、牢から脱出した捕虜が好き勝手に暴れているらしい。しかも現在施設にいる人員だけでは手に負えないのだという。
野望に必要な孫の保護者気取りが、唯一の手がかりを求めて間違いなくここへ来る。
その歓迎の指揮をとろうとしていたのだが、そうもいかなくなったようだ。
「全く……不甲斐ないにも程があるよ、アンタたち。分かった。私が行こう。それまで、決して逃がすんじゃないよ」
*
橙色の火が天井から明るく照らす、土壁に囲まれた狭い空間。通路と通路がTの字に交差する地点。
透人はそこで土壁に身を隠し、左方向、直角に交わった通路を覗きこんでいた。
その先には異形の四足獣が己の雄姿を誇示するように堂々と進んでいた。
虎やライオンを思わせる大きさ。ぎょろりとした目玉を爛々と光らせ、ごつごつした体を持つその姿は図屏風などに描かれる唐獅子に似ている。
距離が空いた後方には警戒した様子の男が足を動かしていた。
和装を身につけ、白いお札のような紙を胸の前に掲げている。
霊視の力があっても魂を感じとれないという事は唐獅子も式神の一種であり、後ろの男が造り出したものなのだろう。
男と式神は此方の位置を掴んでいるのか、途中にある扉や横道の通路を無視して真っ直ぐ向かってきている。
今まで同じペースで進行していた彼らが急に速度を上げたのは、通路の突き当たりまで十メートルを切った時だった。
四足の力を余す事なく使った獣の突進は瞬く間に彼我の距離を縮める。とても人間には追いつけないスピード。男は式神を先行させ、自分はその後で追撃を行うつもりらしい。
獰猛な唐獅子は潜んでいた透人の目の前に姿を現すと、体の向きを変えつつ四足全てに力を込め、
「発動、落とし穴」
そして、いきなり足下に空いた深くて丸い穴へと、何の抵抗も出来ずに吸い込まれていった。
土を操作する魔法による落とし穴。下の階まで貫通しているので、はまった獲物はもう復帰不可能だ。
目論みがあえなく崩壊した男は驚きで口を大きく開き、警戒が緩んだように見えた。
ここで透人はサイコキネシスを使用。あらかじめ周囲の壁を削って用意しておいた砂を舞わせる。砂嵐のようとはいかないが、男の周辺の空気が茶色に染まった。
男の目には当然の結果として砂粒が入ってしまう。彼は口汚く毒づき、慌てふためいた。
その隙に透人は風を受けて勢いよく飛び出し、走りながら魔法を放つ。
「ショット」
「ぐあっ!」
空気の弾丸を食らった男は踏ん張りきれず、尻餅をついた。
ただしそれだけ。立てないような怪我はしていない。距離が開いており、魔法の威力が少なからず減衰していた為だ。
とはいえ視界を封じた上に体勢も崩した。優位を保持する透人はそれを活かそうとして駆ける。
けれども男の抗戦の意思は衰えていなかった。むしろ怒りの感情を昂らせ、手にしたお札を前に突きだし何事かを大声で口にした。
だがそのお札に、空気弾を飛ばした後に投げていた棒手裏剣が風穴を空ける。更に超能力で動かし、上半分を容赦なく引き裂いた。
相手の術は不発。
しかし、目が見えていない男にはその原因が分からない。益々パニックに陥り、意味がないにも関わらず唱え続ける。
哀れな道化となった男に透人は近づき、硬化したショルダーバッグで頭に一発。脳を揺らして意識を刈り取った。
初めに主導権を握ってからは、男には何もさせずに決着となったのだった。
戦闘を終えた透人は後ろを振り返ると、それまでの行動に似つかわしくない呑気な声で後方で待機していた少女に呼びかける。
「よっし、完了。先に行くよー、カレンちゃん?」
「あ、はい……」
曲がり角からゆっくりと出てきたカレンは気の抜けた返事をした。その顔には色々な感情が混ざりこんだ、実に複雑な表情を浮かべている。
独房から抜け出した透人とカレンは、上層から降りてくる援軍との合流を目指して敵陣を突き進んでいた。
奪われていたメモ帳やショルダーバッグ、携帯電話などは回収済み。その保管場所はロンの魂を探す事で発見出来た。不真面目な付喪神は「何ヘマやらかしてんですか旦那ぁ。おかげでちっとも寝れなったじゃないですかぁ」などとぼやいていたので軽く謝っておいた。
そうして準備を整えた二人は進軍を開始した。度々現れた数人の男を撃退しながら。
その基本的な戦術は不意打ちだ。霊視と探索魔法を併用し、相手より早く発見しては罠を張り先手をとる。
卑怯な手段ではあったが、行動を起こすに当たって一切の躊躇はなかった。そもそも透人にとってはいつも通りの戦術なのだった。
透人が様々な小細工を駆使して戦っている間、カレンは常に後方に待機していた。ただし、探知や追い風などの魔法でサポートを担当して貰っている。
透人としては助かっていたが、複雑な表情からするとカレン本人は卑怯な手段による勝利を素直に喜べないようだった。まだまだ人生経験が足りていないらしい。
対照的な二人はこれまで大した被害もなく障害を突破し続けていたが、それには大きな要因が二つあった。
まず一つ目は、敵地であるにも関わらずこの場所は透人の魔法を活かせる都合の良い環境だった事だ。
透人がアンナから教わった自然魔法、或いは自然魔法、には火水土風の属性がある。そして彼は土の属性との相性が良かった。
硬度や重力の操作も便利だが、書庫でも落とし穴が使えればどんなに楽だったか。
二つ目は襲撃が散発的かつ少数であった事。
侵入と脱出、どちらも想定外だったのか男達は混乱しており、連携もあまり上手くとれていなかったのだ。
相手が安全だと信じている場所へ奇襲し、油断を突く。これはつまり書庫への襲撃と全く同じ事をやっている訳である。
ただ、どうやらそれだけでなく首謀者である頭目が不在であったらしい。的確な指示を与えるリーダーがいれば違った結果になっていたかもしれない。
そしてそれは今からでも言える事でもある。
連絡を受けたリーダーが到着したら相手側に戦局が傾くとしても、それまでに少なくとも合流くらいはしておきたい。
透人は不確定要素に若干の不安を感じつつ、それでも慎重に安全を優先して進んでいった。
複雑そうな顔のカレンの手を借りて避けられぬ戦闘を乗り越えながら、地道に足を動かしていく。
そして、遂にひとまずの目的を達成したのである。
「うん。カレンちゃん? もうすぐ観鳥さんのところに着くよ」
「ほっ、本当ですか!?」
透人の台詞を聞くなりカレンは表情を一変。一気に顔を明るくさせた。よほど嬉しいのか慌てて言葉にも詰まらせた。
それだけの信頼や愛情があるのだろう。
そして、その気持ちは決して一方通行ではなかった。
「カレンちゃん!」
「アンナちゃん!」
お互いの姿を認めた瞬間、従姉妹達はほぼ同時に叫んだ
二人は駆け寄ると抱きついて溢れんばかりの喜びを表現した。彼女らの瞳からは光る滴も見える。
絶望からの再会。それは絆をより強くしたらしい。
ごめんね。いいよ。よかった。ありがとう。
短い言葉のやり取りがしばらく続いた。平凡ではあっても、かけがえのない言葉のかけあいだ。
触れてはいけないような、神聖とも表現出来る空間がそこにはあった。
だから透人は手持ち無沙汰だった。
霊視による周辺警戒をしていたが、異常は無い。他にやることがなく暇だった。
そろそろ移動した方がいいだろうし、仕方ないから割って入ろうか。
そんな風に考えながら視線を動かしていると、同じくじっとしているだけの清慈郎と目が合った。正面から真っ直ぐに見据えてくるその様子は何か苛々しているようでもあった。
つまり夏休み以前の、透人を敵視していた清慈郎だ。幽閉されていた部屋で会った魂だけの彼もそのような雰囲気だったが、今は実体がある分より色濃く鮮明に伝わってくる。
公園で話した際にあった悩みは解決したのだろうか。
彼がここにいる理由はアンナが助けを求めたからだろうし、入り口から二人で協力して降りてきた筈である。彼女のおかげかもしれない。
などと思考している内に従姉妹二人は抱擁を解いていたらしい。そしてカレンが初対面の人物に気がついた。今まで全く目に入っていなかったような反応で。
「……アンナちゃん。あの人は?」
「せいじろうくんだよ。同じクラスの友達でね、魔法はつ……あっ」
アンナは目を見開き、空いた口を手で押さえた。
続けようとした言葉は、魔法は使えない、だろうか。
直前で明かしてはいけない事情だと気づいたらしい。
彼女は硬直から回復すると、何事もなかったかのように話を再開させた。
「うん。とにかく助けてくれてるの」
「……? アンナちゃん、どうかしたの?」
「ううん。何でもないよ」
当然のように違和感を持ったカレンだが、言い切られてしまっては追及出来ないようだった。
体をアンナの影から動かし、礼儀正しく頭を下げる。
「清慈郎さん。どうもありがとうございました」
「……気にしなくていい」
清慈郎は素っ気なく言った。無愛想ではあるが、端正な顔は透人を睨んでいた時より穏やかになっていた。
ここでようやく場が落ち着いたので、透人は避けられぬ重要な話題を投じてみる。
「で、これからどうするの?」
「ふぇ? どうする……って、急いで逃げなきゃいけないんじゃないの?」
「でもそれじゃ根本的な解決にはならないと思うけど」
「確かにそうだな。向こうに譲れない目的がある以上は何度でも同じ事を繰り返すだろう」
「んー。やっぱり有効なのは決定的な証拠を持ち出して他の権力者に見せるとかかなぁ」
「可能ならそれがいいだろうな」
「証拠……あるのかな。私達だけで見つけられるかな? カレンちゃんはどう思う?」
「……えっと、資料なら奥の方にあると思う、けど……」
「なら探そうか」
四人で真剣な相談をし、方針を決めた。口調や表情が真剣に見えない者もいたが、本人としては真剣だった。
四人はそれぞれ改めて気合いを入れ、根本的な解決の為に行動を開始しようとする。
その時、透人達はこの場にいない五人目の声を耳にした。
『やれやれ。本当に子供だけかい。ここに残した奴らの鍛え方は随分と足りていなかったようだね』
「……っ!」
突如聞こえた年老いた女性の声にカレンが声なき悲鳴をあげた。表情からすると驚愕というより恐怖によるものらしかった。
例の祖母の声なのだろう。とうとうボスのおでましのようだ。
ただし、今の年老いた女性の声を発したのは本人ではなく、人の形をした白い紙だった。虚空に浮かぶそれは不気味な雰囲気を放っている。
それぞれが緊張感を帯びて身構える前で発言は続く。
『子供の割にはよくやったもんだよ。だがね、あんたたちの悪さはここまでだ』
「え? ひゃあっ!」
紙からの台詞が終わった瞬間。
カレンが底無し沼にはまったかのように土の床へと沈んでいった。その動きは速く、あっという間に全身が吸い込まれて見えなくなってしまう。
透人もアンナも清慈郎も救出どころか反応すら出来なかった。
後手に回ってしまった透人は焦る内心を落ち着かせ、霊視でカレンの行方を追う。
「大丈夫。床の中を通って前に移動して――」
「カレンちゃんっ!」
透人の言葉が終わらぬ内に、アンナは転がるように前へと走り出した。抑えきれない焦燥に普段の柔らかな雰囲気が塗り潰されている。
後悔からか、清慈郎が苦い顔で歯ぎしりしながらその後を追った。
そんな二人を邪魔したのは、声を発していた紙の後ろから現れたもう一枚の紙だった。
それは星形の光を放つと同時に変化を遂げる。
通路を塞ぐ程の大きさを誇る、九本の尾を持つ巨大な狐へと。
幻想的な狐の式神は強大なる番人となって、順調であった若人達の快進撃を止めた。




