第九十話 掌の上で呑気に踊る
絶望とはこういうものをいうのだろう。
もう無理だと全てを諦め、投げ出してしまいたい。選択を他人に委ねてしまいたい。思考を放棄してしまいたい。
ひたすらネガティブな言葉ばかりが頭に浮かんでくる。
カレンはどうにもならない窮地に、ただ横たわっている事しか出来なかった。
せっかく助けを求める決意を固めたのに、アンナ達が守る為に動いてくれたのに、結局何も変えられなかった。希望が見えていた分、ショックは深く大きい。
途中から記憶が途切れているカレンだが、避難していた書庫を式神の鎧武者に襲撃されたのは覚えている。記憶の続きは、あの人の配下であろう男に現在の立場を説明をされたところからだ。
健闘虚しく、式神の手により拠点へと拉致されたカレン。一度逃げたという事で、両手を縛られた上で厳重な個室に幽閉されている。
男の話によると、余分にくっついてきた少年も一緒に捕らえているらしい。あの場にいた少年といえば透人だろう。
式神が襲ってくる前の不謹慎なふざけた態度には怒りを覚えたが、戦闘では真剣になり確かに活躍していた。それこそ最後まで必死に。
彼を巻き込んだ罪悪感と謝罪の気持ちで一杯になる。
そんなところに壁の向こうから聞こえてきたのが、捕まっている筈の人物による呑気な声である。
「隣に居るのってカレンちゃん? だっけ? で合ってる? もしそうならさぁ、暇だから色々と教えてくれない?」
罪悪感と謝罪の気持ちは瞬時に消し飛んだ。
乱闘開始前の説教じみた発言は反省していたのだが、やはり反省の必要はないようだ。
ふざけているような言い方により、絶望に追いつめられていた心が更に刺激される。心配し罪悪感を感じていた自分を馬鹿にされた気がして、やり場がなくて溜まっていた感情を吐き出すように大声を出してしまう。
「暇だからってなんですか……! こんな時にも能天気にそんな事言って……! あなたは今の状況が分かっているんですか!?」
「だから分かってないから聞いてるんだけど。何を、いつ、どうやってされたかは分かるけど、誰も場所も理由も分かんないし。カレンちゃん? は知ってる?」
怒声を向けられても変わらぬ能天気な調子での台詞を聞き、カレンは冷水をかけられたかのように背筋から全身が冷たくなった。
下らない事を恐れて今回の経緯を隠したのはカレンの方だ。
事情も知らぬまま手を貸してくれた透人に感謝こそすれ、八つ当たりをするなんてとんでもない。
だからといって不真面目な態度を許せる訳ではないのだが、それは我慢だ。
大きく息を吸うと、落ち着いた冷静な頭で、心をこめて謝罪をする。
「……すみません。失礼しました。事情も知らないまま力を貸してくださったのに……」
「いやぁ、別に謝らなくていいよ。ああいうのよく言われて慣れてるし。助けようとしたのも、なりゆきというか……そう、観鳥さん達にあの部屋貸してくれた恩があるからだし。それより色々と聞かせてくれる? まあ、嫌ならいいけどさ」
その気楽な声はとても同じ状態にいるとは信じられない。本当に同じように幽閉されているかと疑いたくなる程リラックスしている。
そんな透人には、無礼な態度を咎める気はないらしい。それどころか全く気にしていないように思える。
飄々と掴みどころがなくて、何を考えているのかよく分からない。アンナやジニーが信頼している理由もよく分からない。
でも善人なのは確かかもしれない。
それならカレンは、誠意を見せなければならないだろう。
身をよじって上半身を起こし、声がする方向の壁へと情けない顔を向けて告げる。
「……嫌だなんて我が儘は言えませんよ。今回の首謀者は……私の祖母なんですから」
「んー……家族喧嘩? やっぱプライバシーは守りたい?」
「……いえ、全てお話します」
透人からの甘い誘惑を断ち切り、罪を晒す覚悟を決める。
感情を抑えるよう努め、淡々と語っていく。
「始まりは、祖父の死でした。それをきっかけとして、祖母は研究にのめり込んで他に何も見えなくなって、遂には非人道的な研究を始めてしまったんです」
父方の祖父と祖母は世間に正体を隠した陰陽師の名門の生まれであり、飛び抜けた才能があった。
彼ら夫婦には、遥か昔から闇に潜むこの世界を二人で支えてきたという自負があった。
それ故に、彼らに比べれば遥かに劣る才能しか持たない息子や部下に失望し、お互いだけしか信頼していなかった。
そんな片割れを亡くした祖母はいずれ訪れる死に恐怖し、己がずっと守ってきた世界を凡才に託すしかしかない事実に恐怖した。
そこで取りつかれたように没頭したのが、昔から夢見られていながら未だ実現に至っていない幻想、不老不死の研究である。
困難を極めるその研究の為に、狂気を帯びた老研究者は数々の部下を犠牲にし続けてきたのだ。
カレンもまた同罪である。
止められなかった、というだけではない。
日本古来の魔術呪術以外からのアプローチを求めた祖母に、母譲りの西洋を起源とする魔法を提供していたのだから。
初めは知らずに協力していた。
真相を知ってからも協力していた。せざるをえなかった。
既に取り返しがつかないとことまで来ていると脅されたから。
そんな暗くて辛い日々が転機を迎えたのはつい先日の事。
とうとう祖母がある手段を発見したのだが、それは他人の犠牲が必要な手段だった。その犠牲に選ばれたのがカレンだったのだ。
これは罰だと、受け入れるしかないと諦めていた。
だが、祖母の方針に反対する部下が秘密裏に接触してきて、その手引きにより逃亡に成功したのである。
伯母宅を訪れたのは祖母の狂行を伝えて止めてもらう為だ。
なのに中々打ち明けられなかったのは、自らの罪を隠したかったからだ。
ようやく覚悟を決めてアンナに打ち明けたのが昨日。
そして今日、強硬手段で連れ戻されてしまったのである。
話し終えたカレンは顔に色濃い陰りを表し、自嘲気味に嘆息を漏らす。
「祖母にも言われましたけど、やっぱり運命は変えられないんですね。抵抗せず、受け入れるしかないんです」
「んー…………まあ、その通りかもね」
「……否定しないんですか? 透人さんもどうなるか分からないのに」
「ん? 何か問題あった?」
意味が伝わっていない透人の様子に、内心に押し込んだ彼への苛立ちが深まる。
ただし、一方で納得する自分がいた。
軽くてふざけたような調子は達観の表れ、自棄になっているのだと。
「もう諦めているからそんな適当な態度なんですね」
「ん? いや別に諦めてなんてないけど?」
「はい? あなただって運命は受け入れるしかないって言ったじゃないですか」
先程と真逆の内容を受け、カレンは怪訝な顔になり戸惑いを露にした。
すると少しの時間を置いて、やや非難めいた声が返ってくる。
「……あのさぁ、いくら身内だからって、他人を簡単に切り捨てるような人の言うことは信じちゃ駄目だよ」
「え? あの、どういう意味です?」
話と話の繋がりが見えず、カレンの困惑は加速した。
もし両手が縛られていなければ、あたふたと忙しく動いていた事だろう。
そんな彼女とは裏腹に今も無表情に違いない透人は、やはり静かに落ち着きながらもお気楽な調子の声を発してくる。
「だからさぁ、逃げられない運命ってのはお婆さんが言ってるだけでしょ? 実際自分がどんな運命か、なんて分かんないじゃん」
「……えー……そう、ですか?」
「そう。だからさ、どうせなら逃げられない運命とか思わずに助かる運命にあるって思えばいいんだよ。で、それを抵抗せず受け入れる。恥ずかしく格好つけて言い切るなら……囚われの女の子は助かる運命にある、って事だよ」
「…………この状況でよくそんな夢みたいな事を言えますね」
「んー。まぁ、そう考えた方が気が楽だよって話でもあるかな。流れには逆らわずに身を任せて、その上で出来る限りは頑張る。少なくとも俺はずっとそうしてきたよ」
平然と持論を述べる彼からは確固たる信念めいたものを感じられた。ただし強固な信念とは言いがたい。水のように形を変えて何もかもを受け入れる、柔軟な印象だ。
明海透人という人物が本当に少しずつだが分かってきた。
いつでもどこでもマイペース。かつ絶望とはとことん無縁の能天気。そして独特の考え方を持っている。
今回手を貸してくれたのも、単純に流れに身を任せた結果なのだ。
厳重に幽閉されていても、とことん揺るがない自己には尊敬すら抱いた。
ただ、続いた言葉には少々がくっとさせられた。
「という訳で援軍が来るまでの暇潰しに作戦会議でもしようか」
「……本気で助けが来ると思っているんですか」
「うん」
簡単な肯定の返事からは、助けが来るという希望を信じて一片の疑いすら抱いていない様子が窺えた。
あまりに楽観的過ぎる。
そんな望みは薄いのだと、諦めに淀んだ顔のカレンは呆れ気味に説明する。
「この場所は見つからないよう隠されているんですよ。私をこっそり逃がしてくれた内通者も既に捕まったと聞きました。それに魔法は封じられて携帯電話も取り上げられて、位置を伝える手段もありません。それなのに……」
「あ、ちょっと待って忘れてた。魔法を封じてるのってさ、もしかしてこの縄のせい?」
「……はい、そうです……けど、それが何か?」
「いや? ただの確認だけど?」
説明途中での唐突な割り込みを不自然に思い、肯定しながら質問を返すも、透人の答えはあっさりしていて謎は解消されなかった。
詳細な意味を求め、改めて問いかける。
「確認したからどうだって言うんです?」
「んー。まぁ、どうだっていうか……うん。やっぱり大丈夫だよ全部」
「どこが大丈夫なんですか? 何が大丈夫なんですか?」
「だから全部だよ。援軍が来たら脱出目指して頑張るよ。新しい戦いの理由も見つかって更にやる気も出たし。いや、地下室で手抜きしてた訳じゃないんだけど」
「本当にやる気があるんですか? というか話を逸らさないで下さい。助けが来る保証なんてないんですよ?」
「いやぁ。それがね、実はあるんだよ」
話が通じない。
カレンが微かに苛立ちを覚え始め声にもそれが表れだしていたが、透人は相変わらず何でもない事のように平然と言ってのける。
「俺達は確かに掌の上で踊ってるのかもしれないけどさ……その手、お婆さんのじゃないから」
「え? えー……はぁ…………?」
カレンは透人の発言の意味を理解出来ず、首を傾げるばかり。頭の中は疑問で一杯だ。
だから彼女は、あんなにも深かった絶望がいつの間にやら不思議な脱力感に流されてしまった事に、全く気がついていなかった。




