第七話 番号:永瀬はその言葉を、手帳に書かなかった。
今回は制度の内側にいる永瀬が、初めて外へ出る話です。
全十二話完結。最初からお読みでない方は第一話からどうぞ。
永瀬はIDを一つだけ選んだ。
基準はなかった。強いて言えば、スコアが四七・二だったあのIDだった。BとCの境界から〇・六だけ下にいた人間。それだけだった。
個人情報へのアクセス権限は、永瀬にはなかった。名前も住所も、画面には出てこない。ただIDと区分とスコアだけがあった。
三日かかった。
システムの別の場所に、異議申し立てのログがあった。そこには申請者の連絡先が含まれていた。閲覧権限の境界が、一枚だけ薄いところがあった。永瀬はそこを、三日間かけて探した。
谷口航、四十八歳。
名前を見た瞬間、何も感じなかった。ただの文字だった。でも画面を閉じなかった。
連絡先にメッセージを送った。「雇用区分の判定について、お話を聞かせていただけますか。個人的な調査です。組織とは関係ありません」。名前は書かなかった。部署も書かなかった。送信してから、しばらく画面を見た。
返信は、翌日の昼に来た。
「会えます。川沿いのベンチにいます」。それだけだった。
永瀬は定時で上がった。川沿いへ行った。ベンチに男が一人いた。五十代に見えた。コートを着て、川を見ていた。
「谷口さんですか」
男は振り返った。「あなたが送ってきた人か」
「はい」
「どこの人ですか」
永瀬は少し間を置いた。「言えません」
男は何も言わなかった。川が流れていた。永瀬は隣に立ったまま、座らなかった。
「判定のスコアを見ました」と永瀬が言った。「四七・二でした」
「それが何かの答えになりますか」と航が言った。
「なりません」と永瀬は言った。「何の四七・二なのか、私にもわかりません」
航はしばらく黙っていた。「わかっている人間はいるんですか」
永瀬は答えなかった。答えられなかった。
風が来た。航はコートの襟を立てた。永瀬は川の向こうを見た。無人のバスが橋を渡っていった。
「教えてもらって、どうするつもりですか」と航が言った。
「わかりません」と永瀬は言った。「ただ、聞かなければと思いました」
航はそれを聞いて、少しだけ川の方を向いた。「区分が変わっても、生活はできています。金は来ます。でも」
そこで止まった。
永瀬は続きを待った。
「鍵を渡されたのに、どこのドアかわからない」と航が言った。「それだけです」
永瀬はその言葉を、手帳に書かなかった。録音もしなかった。ただ、聞いた。
帰り際、航が言った。「あなたの名前は」
「言えません」と永瀬は言った。
「そうですか」と航は言った。怒った様子はなかった。
永瀬は頭を下げて、歩いた。振り返らなかった。
川がまだ流れていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
手帳に書かなかった。録音もしなかった。ただ、聞いた。それだけの話でした。
第八話に続きます。




