事件ファイル01『鈴の音が聞こえる』
午後十一時過ぎ。
名古屋の繁華街から少し離れた裏通りを、鈴木鈴音は一人で歩いていた。
人通りはほとんどない。
「……早く帰ろ」
足早に歩く彼女の背後から、別の足音が近づいてきた。
コツ。コツ。コツ。
不審に思い、振り返ろうとした、その瞬間――。
「金を出せ。声を出したら殺すぞ」
背後に立った男が、金属製の警棒を突きつけて脅してきた。鈴音が悲鳴を上げて抵抗しようとした、次の瞬間。
ゴッ。
鈍い音が夜道に響いた。彼女は自分を襲った人間の顔を見ることもなく、そのまま崩れ落ちた。
「……おい」
犯人は息を荒げながら、倒れた女を見下ろした。
「おい……起きろよ」
返事はない。ピクリとも動かない。
「……嘘だろ」
犯人は一瞬だけ動きを止めた。その時、焦った男のポケットから、銀色のライターがこぼれ落ちた。
倒れた鈴音は、薄れゆく意識の中で、頭から流れた血に濡れた手を伸ばし、目の前に落ちた冷たい金属をゆっくりと握りしめた。
「あっ、おい!」
男は慌てて鈴音の血まみれの手からライターを奪い返した。その際、金属の蓋が弾かれ、カチン、と独特の音が鳴った。
男は血のついた警棒とライターを握り直し、逃げるように右足を引きずってその場を離れた。
「死ぬわけない……」
夜の街を逃げながら、自分に言い聞かせるように呟く。
「脅して金を奪うつもりだっただけだ。ちょっと抵抗されたから、一発殴っただけだ。あれくらいで死ぬわけない……!」
顔は見られていない。ただの強盗未遂だ。これで終わった――。
チリン……。
ふと、背後の闇から小さな鈴の音が聞こえた。
「……鈴?」
犯人は弾かれたように振り返る。しかし、そこには漆黒の路地が続いているだけだ。
気のせいか。男は血の気の引いた顔で、足早に闇の中へ消えていった。
実際、この時点ではまだ、「彼」は現場にいなかったのである。
それから三十分後。
同じ裏通りの少し手前を、けたたましい金属音を鳴らしながら歩く二人の男がいた。
「今日はめでたい日だがね!」
小柄な男――羽柴秀吉が、隣を歩く大柄な男の背中をバンバンと叩きながら快活に笑っている。二人はつい先ほどまで、近くの居酒屋『尾張の山ちゃん』の座敷で祝杯を上げていた。
チリン、チリン、ジャラジャラジャラジャラ!!
秀吉に叩かれた大柄な男は、嬉しそうに身を揺らした。
無数の鈴が縫い付けられた陣羽織のような上着。まるで戦国時代の武具めいた異様な装束をまとった男――仙石秀久である。
「『俺の時代が来たがね!』って言っとるがね!」
秀吉は満面の笑みでスマートフォンを掲げた。画面にはこう表示されている。
メジャーアーティスト:鈴鳴り武者・仙石秀久
デビューシングル:『鈴鳴り一番槍』
「そうだがね! 音楽会社や関係者との面倒な調整は全部俺がやってやったんだ、絶対に売れてもらうがね!」
チリン、ジャラッ!
「『秀吉様のおかげだがね。一生ついていくがね!』だそうだがね。……まったく、お前は図体ばかりデカいくせに極度のアガリ症で、人前だと蚊の鳴くような声しか出せんからな。ハンドベル代わりのその鈴が、まさか本当にメジャーデビューの武器になるとは思わんかったがね」
仙石は恥ずかしそうに頭を掻き、チリンと小さな音を鳴らした。
秀吉が仙石をここまで世話して可愛がっているのには理由がある。以前、小田原へ旅行した際、秀吉の特異体質――「怪異(および野生動物)ホイホイ体質」が発動し、野生のツキノワグマ数頭に懐かれ、あろうことかお姫様抱っこで連れ去られるという絶体絶命の事件があった。
その時、全身に熊避けの鈴を大量に巻きつけ、凄まじい爆音と共に森へ突入して秀吉を救い出したのが、他ならぬ仙石だったのだ。秀吉はその命の恩義を片時も忘れたことはない。
すれ違った千鳥足のサラリーマンが、仙石の異様な姿にギョッとして壁際に避けた。
仙石は立ち止まり、サラリーマンに向かって鈴を鳴らした。
チリン、チリン。
「えっと……『お疲れ様』って言ってる……のかな?」
サラリーマンが首を傾げると、仙石は嬉しそうに頷き、チリン! と力強く鳴らした。
「ああ、やっぱりそうだ!」
サラリーマンが勝手に納得して笑顔を見せた、その時である。
「『千鳥足になっとるから、溝に落ちんように気を付けるんだがね』って言っとるがね!」
秀吉が得意げにそう通訳した。
「全然違うじゃないですか!」
サラリーマンは目を丸くしてツッコミを入れたが、仙石は我が意を得たりとばかりにジャラジャラと鈴を鳴らした。
そう。仙石の鈴は言葉を喋っているわけではない。しかし、「何かを伝えようとしている」という感情やニュアンスだけは、一般人にもなんとなく伝わるのだ。
だが、その音の羅列を完璧な日本語――しかも名古屋弁――へ翻訳できるのは、なぜかこの世で秀吉ただ一人だった。
「もっとも、こんな時間にこんな格好で歩いとる奴、絶対に職質されるがね……」
秀吉が呆れたようにぼやいた、その時だった。
『……こっち……』
チリン。
仙石の耳に、自分の鈴とは違う、か細い鈴の音が響いた。仙石はピタリと足を止める。彼には、暗闇に立つ女性の霊の姿がはっきりと見え、その声が完全に聞こえていた。
一方、秀吉には霊の姿はぼんやりと見えているものの、その声はほとんど聞き取れない。ただ「何かを伝えようとしている」という悲しみの感情だけが断片的に伝わってくる。
「……痛い……殺された……」
秀吉が眉をひそめる横で、仙石は迷うことなく薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
「チリン! ジャラジャラジャラーーー!!」
数分後。
仙石のけたたましい鈴の音により、裏通りはパトカーのサイレンで包まれていた。
規制線が張られた現場の中心で、仙石は数人の警察官に完全に囲まれていた。
「第一発見者がこんな格好をしているのか……? お前、こんな時間になぜ現場のすぐ近くを歩いていた!」
「チリン、チリン、ジャラジャラジャラッ!!」
「……は?」
警察官が顔をしかめる。そこへ秀吉が割って入った。
「すまんがね! 『腹が減ったから歩いとった』と言っとるがね!」
「お前が殺したんじゃないのか!?」
そこへ、くたびれたトレンチコートを着た県警の黒田官兵衛が現れた。
「黒田さん! こいつら不審すぎます!」
「……また仙石か」官兵衛は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。「知っている。だが、こいつが犯人ということはない」
官兵衛は手帳を開いた。
「被害者の死亡推定時刻は、午後十一時前後だ」
「それなら絶対に違うがね!」秀吉が声を上げた。「俺たちはついさっきまで、すぐそこの『尾張の山ちゃん』の座敷で仙石のデビュー祝いで手羽先食っとったがね! ほら、これがレシートだ!」
数分後、防犯カメラと店員の証言により、仙石のアリバイはあっさりと証明された。
仙石が嬉しそうに胸を張って鈴を鳴らす。
チリン、ジャラッ!
「『俺が疑われるなんて思わなかったがね!』……って、喜ぶところじゃないがね!」
秀吉はツッコミを入れつつ、小さくため息をついた。
「まったく。お前の晴れの日になんてことに巻き込まれるんだがね。……で、どうしてこんな路地裏に入ったんだ?」
「チリンチリン」
「幽霊さんが『こっちに来い』って言っとった……?」
秀吉が仙石の視線の先を見ると、そこには――透き通った、美しい女性の幽霊、鈴木鈴音が立っていた。
仙石には、彼女の悲痛な声がはっきりと聞こえていた。
『私……背後から突然殴られて、犯人の顔は見ていないんです』
仙石が静かに鈴を鳴らす。
ジャラッ、チリンチリン。
一方、秀吉には女性の声はほとんど聞き取れない。ただ「何かを伝えようとしている」という悲しみの感情だけが断片的に伝わってくる。
だが、仙石の鈴が鳴った瞬間、その意味だけは完璧に理解できた。まるで、仙石が幽霊の言葉を鈴に変換し、秀吉がそれを日本語に戻しているかのようだった。
「『何か覚えとることはないか』って聞いとるがね」
秀吉が通訳すると、鈴音が顔を上げた。
『顔は見えませんでした。でも……倒れたあと、意識が途切れる直前に見えました。男が何かを落としたんです。ライターでした。私が血の付いた手で拾い上げると、男は慌ててそれを奪い返しました。そのとき、カチン、と独特な音がしました。そして逃げていくとき、右足を引きずっていました』
仙石が激しく鈴を鳴らす。
チリン、ジャラッ!
「『そのライターには、被害者の血がついとるはずだがね!』だそうだがね」
その情報を受け取った秀吉は、静かに、しかし明確な怒りを込めて宣言した。
「こんな美人のねーちゃんを殺した奴、絶対に許さんがね。仙石殿、鈴鳴り武者としての初仕事だがね。俺たちで仇をとってやるがね」
翌朝。
男は自宅のアパートで、テレビをぼんやりと眺めていた。
『昨夜、名古屋市内の路上で女性が倒れているのが発見され、その後、死亡が確認されました。死亡したのは、市内に住む会社員、鈴木鈴音さん――』
男の手が止まった。
『警察は、何者かに鈍器のようなもので殴られたとみて、強盗目的の犯行も視野に捜査しています――』
「……嘘だろ」
男の顔からサッと血の気が引いた。昨夜自分が逃げた裏通りの映像が映っている。そして、見ず知らずの被害者が、一人の人間として実名で報道されていた。
昨夜の記憶が蘇る。金属製の警棒から伝わった、あの生々しい感触。
「俺は……殺すつもりなんかなかった……」
誰に言うでもなく、男は震える声で呟いた。
「金を奪って逃げるつもりだったんだ。一発殴っただけだぞ……! 俺が、殺したのか……?」
その瞬間、初めて男は自分が犯した罪の重さを理解した。
テレビの中では、現場に献花が手向けられる様子が映っている。
男の背筋に、氷のような悪寒が走った。
その日の夜。『喫茶厨房 本能寺』。
閉店後の薄暗い店内で、作戦会議が開かれていた。
客席のテーブルには秀吉、仙石、竹中半兵衛、そして黒田官兵衛が集まっている。
「官兵衛殿」秀吉が口を開く。「幽霊の鈴音さんの証言にあった、逃げるときの引きずる足音と、独特な音の鳴るライター。心当たりはあるがね?」
「……ああ。現場周辺の防犯カメラに、帽子を深く被った怪しい男が映っていた。顔までは確認できんが、そいつは右足を引きずって歩いていた。そこから映像をリレーして身元を割り出し、現在、男の自宅アパートを張っている。だが、ライターなんてものは現場には落ちていなかった」
「犯人が拾って持っとるはずだがね。被害者の血がついとる決定的な証拠だがね!」
「ああ。だが、それだけでは犯人を逮捕するには弱い。少なくとも、令状を請求できるだけの裏付けが必要だ」
官兵衛は鋭い視線を秀吉たちに向けた。
「警察の仕事は、怪しい奴を捕まえることじゃない。犯罪を立証できるだけの証拠を集める義務がある。だから、お前らが幽霊と話していること自体は俺は知らん。だが、その情報を現実の証拠に変えるのが俺の仕事だ。俺が動ける材料を作れ」
半兵衛は仙石と秀吉を交互に見た。
「しかし……不思議ですね」
「何がだがね?」
「なぜ羽柴殿だけ、仙石殿の鈴の意味が完全に分かるんです?」
「知らんがね」
チリン。
「『俺も知らんがね』だそうです」
「……なるほど」
半兵衛はそれ以上考えるのをやめ、冷徹な作戦参謀の顔に戻った。
「では、本人の口から語らせましょう。警察が決定的に動くための証拠がないなら、犯人自身に証拠の在りかを喋らせればいい。人間なら、恐怖に耐えられなくなった時、最後に逃げ込むのは警察です。官兵衛殿、交番前で待機を。そして仙石殿は、身元が判明した男のアパートへ」
仙石が立ち上がる。
ジャラジャラジャラッ!
「『俺は何をすればいいがね?』だそうだがね」
半兵衛は薄く笑い、仙石に指示を出した。
「仙石殿には最高の怪異になっていただきます。犯人の前に姿を見せ、極力顔は見せずに鈴を鳴らしてください。そして――もし犯人が逃げたら、全力で交番のところまで追い込んでください。恐怖に耐えきれず、自ら証拠を吐き出すように」
「チリン!」
深夜。容疑者の男は、自宅のアパートで苛立ちながら爪を噛んでいた。
(大丈夫だ。防犯カメラに顔は映っていない。ただの強盗未遂だ。警察が来るはずがない……)
チリン……。
窓の外から、小さな鈴の音が聞こえた。
男の肩がビクッと跳ねる。
あの現場で聞いた音と同じだ。
チリン……。
男が振り返った。
チリン、チリン。
「……やめろ」
ジャラ……。
「来るな……!」
男には、確かに聞こえていた。
『どうして私を殺したの?』
もちろん、外にいる仙石が喋っているわけではない。実際に鳴っているのは、ただの「チリン、ジャラッ」という鈴の音だ。
しかし、その音には明確な「意志」がこもっていた。一般人なら「何かを訴えている」と感じる程度のそのニュアンスを、罪悪感と恐怖に苛まれている男の脳は、自分を責め立てる最悪の形へと自動翻訳してしまっていた。
『なぜ逃げるの?』
(ジャラッ)
男の目に映ったのは、暗闇に浮かび上がる異形の姿。
武具のような装束に、全身無数の鈴をぶら下げた大男のシルエット。
それが、死んだ鈴木鈴音の呪いをまとって自分を殺しに来たのだ。
「来るな! 来るなああああ!!」
男は部屋を飛び出し、夜の街へ向かって狂ったように走り出した。
その後ろから、一定のリズムで怪異が猛スピードで追いかけてくる。
チリン……チリン……ジャラララララ!!
男の脳内には、怨念の声がハッキリと響き渡っていた。
『逃がさない……呪ってやる……!』
だが、実際に仙石が鳴らしていたのは――。
(待つがねーーー!!)
という意味の鈴だった。半兵衛の指示通り、彼は大真面目に犯人を追いかけているだけである。
「うわあああああ!! ごめんなさい! 俺が殺しました! 許してくれえええ!!」
「助けてくれ!!」
男が転がり込んだのは、交番の前で待ち構えていた官兵衛の足元だった。
「あいつが……あいつが戻ってきた! 俺が殺した女が、化け物になって俺を追ってきたんだ!!」
「俺が殺した、だと?」官兵衛の目が鋭くなる。「凶器はどうした!」
「捨てた……! 三丁目先のゴミ集積所に、血のついた金属製の警棒を……だから助けてくれええ!!」
泣き叫びながら、男は自ら決定的な証拠の在りかを吐き出した。
官兵衛は男をその場で逮捕した。
官兵衛が男の身体と所持品を確認すると――ポケットから、血痕らしきものが付着した銀色のライターが見つかった。
官兵衛が蓋を開く。
カチン。
鈴音が証言していた、あの独特の音だった。
「……それを聞けば十分だ。このライターの血痕もな」
官兵衛は冷静に手帳へ記録し、男を見下ろした。
「ご苦労だったな。署で詳しく聞こう」
数日後。
男の自白と、発見された警棒。そして血液鑑定の結果、鈴音のものと一致したライターの血痕。これらによって事件は完全に決着した。
秀吉たちの前で、鈴木鈴音の幽霊が深く頭を下げる。
『ありがとうございました。これで思い残すことはありません』
仙石が優しく鈴を鳴らした。
チリン、チリン。
「『成仏するがね。元気でやるんだがね』って言っとるがね」
鈴音はふわりと微笑んだ。
『はい。私、黄泉の国に行っても「鈴鳴り武者」のファンでいますね!』
光の粒子となって成仏していく彼女の言葉通り、後に「鈴鳴り武者」は黄泉の国において圧倒的な人気を誇るソロバンドとして伝説になるのだが、それはまた別の話である。
その頃。
事件の起きた裏通りから、男が逃げ惑った名古屋の繁華街にかけて、ネット上で妙な都市伝説が広まり始めていた。
『夜道を歩いていると、誰もいないはずの背後から鈴の音が聞こえる』
『全身に鈴をつけた武者のような大男が、ものすごい速さで追いかけてくる』
『遭遇すると、過去の罪を暴かれるらしい』
「何なんだ、この怪談は……」
県警のデスクで、ネットのオカルト掲示板の記事を見ながら官兵衛は頭を抱えていた。
事務所に遊びに来ていた秀吉は、スマートフォンを覗き込みながら大笑いしている。
「『鈴鳴り武者』、だがね!」
当の張本人である仙石は、首を傾げていた。
チリン?
「『俺のことか?』って言っとるがね」
「そうだがね」秀吉はニヤリと笑った。「メジャーデビュー曲『鈴鳴り一番槍』のプロモーションとしては、最高の滑り出しだがね!」
「ふざけるな」
官兵衛は呆れたように深く息を吐き、デスクの資料を閉じた。
「……芸名が、そのまま怪談になったぞ」
チリン。
「『俺はただ走っただけだがね』だそうです」
「そういうところだ」
官兵衛は深いため息を吐いた。
「やっぱり、お前が一番の怪異だな」
チリン。




