第8話 笑い方を知らないアイドル
四月二十五日(金) 夕方 四階・オフィス
三次審査の通過通知を送った。
九十二名の中から、三十一名に絞られた。
「三十一名ですか」と田中が言った。
「そうです」と麻衣が答えた。
「さらに減りましたね」
「段階的に絞るので。当然です」
「二百七十三番は」
田中は毎回、同じことを聞いた。
麻衣は毎回、答えた。
「通過しています」
「……そうですか」
田中の声の質が、少しずつ変わってきていた。
最初は興奮していた。
次第に——静かになってきた。
応援しているのか、観察しているのか。
麻衣には判断がつかなかった。
「面談は、麻衣さんが担当するんですか」
「面談は専任のスタッフです。私は廊下の待機係です」
「……惜しいですね」
「何がですか」
「直接話せたら、何か分かるかもしれないじゃないですか」
麻衣は少し考えた。
「直接話さなくても——分かることがあるかもしれません」
田中は、麻衣を見た。
何か言いかけた。
止めた。
「……そうですね」
それだけ言って、モニターに目を戻した。
五月三日(土) 昼 四階・オフィス
四次審査の前日。
今日の服装は、ベージュのカーディガンに白のブラウス、ダークブラウンのスラックス。
面談担当スタッフが来た。
島田さんという、四十代の女性だった。
九条エンターテインメントに長く勤めている。
面談の専任担当として、過去のオーディションも担当してきた。
声が柔らかく、動きが穏やかだった。
面談担当として、相手を緊張させないための身のこなしが染み付いているように見えた。
麻衣は島田さんから、明日の段取りを聞いた。
「一人十五分。三十一名を二日間で終わらせます。私が担当するのが二十名、もう一人の担当が十一名」
「廊下の待機は私が担当します」
「はい。受験者がストレスなく待てるよう、声かけのタイミングを工夫してもらえると助かります」
「分かりました」
「一点だけ確認させてください」
麻衣は聞いた。
「面談で、何を見ているんですか」
島田さんは少し考えた。
「人柄です。一言で言うと」
「人柄……具体的には」
「この子と長く仕事ができるか、という感覚です。技術は三次までで見ています。四次で見るのは、その子の内側」
「内側を、十五分で見られますか」
島田さんは少し笑った。
「全部は見えません。でも——何かは、見える。それを信じてやっています」
麻衣は頷いた。
「感じることで、見える」という中村先輩の言葉と、同じ種類の話だと思った。
五月四日(日) 朝 横浜・本部ビル
四次審査の一日目だった。
今日の服装は、ダークネイビーのジャケット、白のシャツ、グレーのスラックス。
少し整えた。
面談担当ではないが、今日は受験者と直接やり取りする場面が多い。
それが、服装の選択に影響した。
会場は、四階の会議室Dだった。
二つの小部屋に仕切られていた。
それぞれに机と椅子が二脚。
窓はない。
蛍光灯の白い光。
廊下に、椅子が並べられた。
受験者が順番を待つための椅子だ。
六脚。
麻衣は、廊下の端に立った。
今日の仕事は、受験者の誘導と待機サポートだ。
「次の方をご案内します」と言う。
「お待ちください」と言う。
それだけだった。
待つ人たち
受験者が、一人ずつ来た。
全員が、緊張していた。
形は違ったが、全員が緊張していた。
廊下の椅子に座って、用意してきた言葉を口の中で繰り返している子がいた。
唇が、かすかに動いていた。
天井を見上げたまま、ぴくりとも動かない子がいた。
目を閉じているのか、開けているのか、遠すぎて見えなかった。
一人だけ、静かに笑っている子がいた。
何かおかしいわけではなかった。
ただ——笑っていた。
緊張が笑いに変わる種類の人間がいる。
その子は、そういう子だった。
麻衣は、それぞれを見ながら、廊下に立っていた。
声をかけない。
ただ、そこにいる。
「待っている間、一人ではない」という空気を作ることが、島田さんに言われた役割だった。
面談室から出てくる受験者の顔を、麻衣は見た。
すっきりした顔の子がいた。
うつむいたまま出てくる子がいた。
笑顔で出てくる子がいた。
無表情で出てくる子がいた。
面談の中で何が起きたかは、麻衣には分からない。
十五分の中身を、麻衣は知らない。
出てきた顔だけが、手がかりだった。
二百七十三番、入室
桃霞の面談は、午後だった。
廊下の椅子に座って待つ桃霞を、麻衣は少し離れた場所から見た。
今日の桃霞の服装は、白のシャツブラウスに黒のスラックスだった。
きれいに整えられていた。
だが——過剰ではなかった。
「面接用に気合いを入れた」という格好ではなく、「きちんとした日常の延長」という格好だった。
椅子に座って、正面を向いていた。
背筋が、垂直だった。
足が、揃っていた。
膝の上に、手を置いていた。
他の受験者と同じように、緊張していた。
他の受験者と違うのは——緊張の出方だった。
唇は動いていない。
指は組んでいない。
視線は、動いていない。
ただ、正面に向いたまま、固定されていた。
外側から見ると、完全に落ち着いている。
だが——麻衣には、分かった。
落ち着いているのではなく、固まっている。
その違いが、どこから来るのかは言語化できなかった。
ただ——固まっている、という感覚があった。
「次の方、どうぞ」
面談室の扉が開いた。
麻衣は桃霞に声をかけた。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
桃霞は立ち上がった。
一秒もかからなかった。
迷いがなかった。
「ありがとうございます」
短く言って、扉に向かった。
足音は、しなかった。
扉が閉まった。
麻衣は、廊下に立ったまま、次の受験者を待った。
十五分
十五分は、長かった。
他の受験者の面談は、十五分が経つ前に終わることが多かった。
島田さんが「終わりました」と扉を開けて、受験者を見送る。
そのタイミングは、十二、三分のことが多かった。
桃霞の番は、きっかり十五分だった。
麻衣は廊下で、時計を何度か確認した。
確認する必要はなかった。
だが、確認した。
十五分が経った。
扉が開いた。
桃霞が出てきた。
表情は——入室前と、変わっていなかった。
すっきりした顔でも、うつむいた顔でも、笑顔でも、無表情でもない。
入室前と、同じ顔だった。
「お疲れ様でした」
麻衣は言った。
桃霞は、麻衣を見た。
一秒。
「ありがとうございます」
一礼。
帰路についた。
足音は、しなかった。
廊下の角を曲がる前に——一度だけ、振り返った。
麻衣は、それを見た。
目が合った。
桃霞は、すぐに前を向いた。
角を曲がった。
見えなくなった。
麻衣は、廊下に立っていた。
(振り返った)
今まで、振り返ったことはなかった。
二次審査のとき。三次審査のとき。
桃霞は、一度も振り返らなかった。
今日は、振り返った。
何のために振り返ったのか。
麻衣には分からなかった。
ただ——何かが、変わりかけている気がした。
面談メモの処理
翌日、麻衣は面談の日報を入力した。
島田さんが書いた面談メモを、データとして入力する作業だった。
三十一名分。
一人ずつ、読みながら入力した。
「明るく前向き。即戦力になりそう」
「緊張が強かったが、ほぐれてからは話が弾んだ」
「志望動機が明確。グループへの愛着を感じる」
「技術への自信がある。それが強みでも弱みでもあるかもしれない」
それぞれが、十五分の面談から島田さんが切り取ったものだった。
桃霞のメモを、麻衣は最後に処理した。
読んだ。
島田さんの文字で、こう書いてあった。
「「なぜアイドルになりたいのか」と聞いたところ、しばらく沈黙した後、「知りたいことがあります」と答えた。何を知りたいのかを聞くと、「あの笑顔が何なのかを」と言った。それ以上は説明しなかった。説明を求めたが、「うまく言えません」と言った。嘘をついている様子はなかった。感情を隠している様子もなかった。本当に、それだけしか言葉を持っていないように見えた。要確認。→通過」
麻衣は、入力を止めた。
「あの笑顔が何なのかを」
書類に「知りたいことがあります」と書いた子が——
面談で聞かれて、その「知りたいこと」を、初めて言葉にした。
あの笑顔が、何なのかを、知りたい。
(どの笑顔だろう)
麻衣には、分からなかった。
だが——「どの笑顔」かは分からなくても、この子が何かを探していることは、分かった。
書類の段階から、ずっとそうだった。
二次審査のときも。三次審査のときも。
今日も——振り返った。
何かを探している子が、何かを探しながら歩いている。
麻衣は、入力を続けた。
「「なぜアイドルになりたいのか」と聞いたところ——」
文字を打ちながら、麻衣は思った。
この子は——答えを持っていないのではなく、まだ答えを見つけていない。
その違いが、何かを意味している気がした。
何を意味するのかは、まだ分からなかった。
五月四日(日) 夜 黄金町のアパート
帰宅したのは、八時を過ぎていた。
コートをハンガーにかけた。
電気をつけた。
冷蔵庫を開けた。
昨日買ったおにぎりが一つ、残っていた。
食べた。
ソファに座って、台帳を開いた。
「四次審査一日目。二百七十三番:入室前・固まっている(落ち着いているとは違う)。面談後・入室前と同じ表情。退室時、廊下の角で一度振り返った。目が合った。面談メモ:「あの笑顔が何なのかを知りたい」。→通過」
書いた。
一つ、付け加えた。
「今日の振り返りの意味:不明」
台帳を閉じた。
スマートフォンを開いた。
田中にLINEを送った。
「今日、二百七十三番が振り返りました」
三十秒後に返信が来た。
「振り返った? 誰かを見たんですか」
「私を見ました」
「……それ、すごいことじゃないですか」
「分かりません」
「分からないんですか」
「振り返った理由が、まだ分からないので」
しばらく間があった。
「麻衣さんが気になったんじゃないですか」
「受験者が運営スタッフを気にする理由がありません」
「そういう理由じゃなくて——」
田中は、続きを打たなかった。
しばらくして、「おやすみなさい」とだけ来た。
麻衣は「おやすみなさい」と返した。
スマートフォンを置いた。
天井を見た。
「あの笑顔が何なのかを知りたい」
その言葉が、頭の中にあった。
笑顔の意味を、知りたい子が、アイドルを目指している。
笑顔の意味を知らないまま——ステージに立つことになるのかもしれない。
「笑い方を知らない、アイドル」
その言葉が、不意に浮かんだ。
麻衣自身が作った言葉ではない。
どこかで見たのか、聞いたのか——出所が分からなかった。
だが——正確だ、と思った。
笑い方を知らないまま、ステージに立つ。
その矛盾が——何かを生むかもしれない。
あるいは、何も生まないかもしれない。
まだ、分からない。
電気を消した。
目を閉じた。
次は——最終審査だ。
三十一名の中から、合格者が決まる。
何名になるかは、まだ誰も知らない。
一名かもしれない。複数かもしれない。ゼロかもしれない。
麻衣は、目を閉じたまま思った。
(ゼロには、ならないと思う)
根拠はなかった。
感覚だけがあった。
今度は——処理しなかった。
つづく…
▼登場キャラクターのビジュアルは
https://www.pixiv.net/artworks/143788065 漫画版 pixiv
https://x.com/tohka_fire X




