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第10話 櫻井桃霞 様

審査の翌日、九条から連絡が来た。




「合格者を確定しました。一名。通知の準備をしてください」




それだけだった。


何名かは、言わなかった。


いや——一名と言った。




一名。




麻衣は、その数字を受け取った。




藤原係長に報告した。


「九条さんから連絡が来ました。合格者一名。通知の準備をします」


「よし。速達で出せ。明日の朝一で届くように」


「分かりました」




麻衣は、引き出しを開けた。


封筒が入っていた。


白い、角形の封筒。


九条エンターテインメントの社名が、左上に印刷されている。




一枚、取り出した。




机に置いた。




合格通知の書類を、プリンターから取り出した。


一枚だけ出力されていた。




折って、封筒に入れた。


封をした。




宛名を書く。




ペンを取った。




封筒の表に、住所を書いた。


神奈川県内の住所だった。


横浜から、そう遠くない場所だった。




名前を書いた。




「櫻井桃霞 様」




ペンを置いた。




封筒を、手に持った。




三秒。




ただ、持っていた。




(あの子に届く)




明日の朝、この封筒がポストに届く。


「知りたいことがあります」と書いた子の家のポストに。


足音がしなかった子の家のポストに。


笑顔の届き先を、まだ知らない子の家のポストに。




届く。




速達の受け取りを業者に頼む前に——


麻衣は、封筒をもう一度だけ見た。




白い封筒。


社名が印刷された、普通の封筒。


宛名だけが、手書きだった。




「櫻井桃霞 様」




それだけが、手書きだった。




麻衣は、封筒を業者に渡した。




中村先輩との帰り道




退社したのは、七時過ぎだった。




中村先輩と、エレベーターで一緒になった。




「お疲れ様でした」と麻衣が言った。


「お疲れ様」と先輩が返した。




一階に降りた。


外に出た。


五月の夜風が来た。




しばらく、二人並んで歩いた。




「通知、出したね」と先輩が言った。


「はい。速達で」


「手書きで宛名書いたの?」


「……そうしました」




先輩は少し笑った。




「浅井さんらしいね」




「……普通ではないですか」




「普通じゃないよ。印字でよかったのに」




麻衣は少し考えた。




「……なぜ手書きにしたのか、説明できません。ただ、そうしました」




「それでいいよ」




先輩は言った。




「……合格者、一名でしたね」




「そうね」




「九条さんが一名に決めたのか、一名しか適性がなかったのか——どちらだと思いますか」




先輩は少し考えた。




「……どちらでもあると思う」




「どちらでも」




「九条さんが一名に決めた。でもその一名が、他の誰でもなく、あの子だった。その二つは同時に成立している」




麻衣は、その答えを処理した。




「……あの子が、何かを持っていたということですか」




「そう。他の九名が持っていなかった何かを」




「それが何か、先輩には分かりますか」




先輩は少し間を置いた。




「まだ言語化できてない笑顔——でしょ」




麻衣は止まった。


先輩も止まった。




「……三次審査のとき、私が言った言葉ですね」




「覚えてたよ。メモしてたから」




「そのメモは、どうしました」




「九条さんに渡した」




麻衣は、少し黙った。




「……渡したんですか」




「当然でしょ。浅井さんが言ったこと、正確だったから」




「……私の言葉が、九条さんに届いていたということですか」




「そう。あなたが黙っていたら、届かなかった」




先輩は、歩き出した。




「お疲れ様でした。また来週」




麻衣は、先輩の背中を見ていた。




しばらく、そこに立っていた。




五月の夜風が、また来た。




麻衣の言葉が——九条に届いていた。


そして九条が——一名を選んだ。




その連鎖の、最初の一点が、麻衣が「中村さん」と声をかけた瞬間だった。




三次審査のモニター室。


「笑顔の届き先がない気がします」と言った、あの一言。




(言ってよかった)




その言葉が、静かに来た。




悔しさではなかった。


誇らしさでも、なかった。




ただ——正確だ、と思った。


言ってよかった、が正確だった。




麻衣は、歩き出した。




自宅。


台帳を開いた。




「五月二十五日。合格通知送付。速達。宛名手書き。一名。理由:言語化できなかった。」




書いた。


台帳を閉じた。




電気を消した。




今夜は、すぐに眠れた。




——桃霞——





五月二十六日(月) 朝 神奈川県・自室




合格通知は、翌日に届いた。




朝七時過ぎ。


桃霞は、もう起きていた。




ポストに何かが入る音がした。


音を、聞いた。


いつもより重い音だった。


郵便物が複数あるときの音と、速達が入るときの音は、少し違う。




靴を履いて、外に出た。


朝の空気が来た。


五月の末。


もう夏の手前だった。




ポストを開けた。




白い封筒が一通、入っていた。




左上に、社名が印刷されていた。




「九条エンターテインメント」




宛名が、手書きだった。




「櫻井桃霞 様」




桃霞は、封筒を取り出した。




重さを確かめた。


それほど厚くはない。


一枚か、二枚か。




自室に戻った。


机の前に座った。


封筒を、机に置いた。




三秒、見た。




開けた。




一枚の書類が入っていた。




読んだ。




「ゆめいろシフォン新メンバーオーディション 合格のご通知」




最終審査通過者、十人。




合格者——一名。




桃霞は、紙を持ったまま、動かなかった。




感情の揺れが、来なかった。


喜びでも、安堵でも、驚きでもない。




来た、という事実だけがあった。




(来た)




それだけだった。




窓の外に、朝の光があった。


曇っていた。


だが、明るかった。




桃霞は、書類を机に置いた。


立ち上がった。


いつも通りの朝の動作を始めた。




だが——




台所で水を飲みながら、もう一度考えた。




(あの笑顔が、何なのかを、知りたい)




それが、オーディションに応募した理由だった。


面談で言った言葉だった。


書類に書いた言葉だった。




その答えが——あの場所にある。




ステージに立てば、分かるかもしれない。


分からないかもしれない。




だが、立てる。




それだけが、確かだった。




九条冴子への返答




書類に記載されていた連絡先に、電話をした。




午前九時。


指定された時間だった。




電話に出たのは、冴子だった。




「合格通知、受け取りましたか」




「はい」




「承諾の意思を確認します。正式にお受けしますか」




桃霞は、一秒だけ考えた。




一秒で十分だった。




「はい」




「今週中に来てください。契約内容を説明します」


「分かりました」




「一つ聞かせてください」




冴子が続けた。




「審査中、乱入者を制圧しましたね」




「はい」




「あの瞬間、何を考えていましたか」




桃霞は少し考えた。




「……考えていませんでした」




「処理した、ということですか」




「そうです。考える前に、動いていました」




冴子は、少し間を置いた。




「そうですか」




それだけだった。


良い、とも悪い、とも言わなかった。


ただ「そうですか」と言った。




電話が終わった。




桃霞は、スマートフォンを置いた。




考える前に動いていた。




それは——格闘の訓練で身についたことだ。


考えるより先に体が動く。


それが、長年鍛えてきたことだった。




アイドルのオーディションで、それが出た。




(あの場所で、それが出た)




感情はない。


ただ——処理した。


その「処理」の結果が、合格だった。




正確な因果関係かどうか、桃霞には判断できなかった。


ただ——そうなった。


それだけだった。




五月二十九日(木) 午後 九条エンターテインメント・最上階執務室




木曜日の午後、桃霞はビルに来た。




みなとみらいのビル。


オーディションの会場と同じビルだった。


だが——最上階は、初めてだった。




エレベーターを降りると、廊下があった。


窓の外に、横浜の海が見えた。


みなとみらいの観覧車が、昼の光の中でゆっくりと回っていた。




受付スタッフに案内された。


執務室の前で、一度止まった。




扉を、ノックした。




「どうぞ」




入った。




広い部屋だった。


重いガラステーブル。革張りのソファ。


間接照明の橙色の光。


窓際に、白い花が一本だけ活けてあった。




九条冴子が、デスクの前に立っていた。




「座って」




桃霞は座った。


姿勢は、崩れない。




「契約内容を説明します」




書類が差し出された。




桃霞は目を通した。




常時バイタル送信イヤリングの着用。


笑顔の維持。


そして——刺客との「共演」義務。




「承知しました」




即答だった。




冴子の眉が、わずかに動いた。




「……確認しないの?」




静かに問う。




「「刺客との共演」の意味を」




「理解しています」




桃霞は答えた。




「戦闘データの収集が目的です」




一拍。




「問題はありません」




冴子は、桃霞を見た。




十八歳。


白磁の肌。ローズピンクの瞳。揺れのない表情。




作られた笑顔ではない。


何もない状態のまま、固定されている顔。




「もう一つ、伝えることがあるわ」




冴子はソファに体を預けた。




「ゆめいろシフォンには、すでにピンク担当がいる」




間。




「白石莉恋。結成からのメンバーよ」




桃霞は、黙って聞いていた。




「あなたはピーチピンクになる」




続けて言う。




「そして彼女には、ラベンダーパープルに変わってもらう」




わずかに——間が空いた。




「……承諾は、得ているのですか」




「これからよ」




即答。




「あなたには関係ない」




視線が、わずかに鋭くなる。




「ただし」




「最初から敵意を向けられる可能性は高い」




「承知しました」




感情の揺れは、ない。




冴子は、少しだけ観察するように沈黙した。




それから。




「一つ、聞かせて」




視線を合わせる。




「あなたは、アイドルになりたいの?」




桃霞は——答えなかった。




答えが、存在しなかった。


"なりたい"という感情が、自分の中にあるかどうか。


確認する手段が、なかった。




だが——浮かぶ。




テレビの中の少女たち。


不揃いな笑顔。


あのとき感じた、あの感覚。


まだ、消えていない。




「……知りたいことがあります」




冴子の目が、わずかに細まる。




「何を?」




「小さい頃にテレビで見た、あの笑顔が、何なのかを」




沈黙。




一秒。


二秒。


三秒。




そして——




冴子は、初めて笑った。




小さく。


しかし、明確に。




「そう」




背を預ける。




「面白いわ、あなた」




窓の外で、観覧車がゆっくりと回っていた。




止まらずに。





五月二十九日(木) 午後 四階・廊下




麻衣は、四階のオフィスから廊下に出たところだった。




田中と一緒だった。


打ち合わせの為、2階のC会議室に行く途中だった。




エレベーターが開いた。




桃霞が出てきた。




白のシャツブラウスに黒のスラックス。


最終審査のときと、同じ格好だった。


髪は、きれいにまとめられていた。


表情は——


いつもと同じ、固定された顔だった。




麻衣は、一歩、止まった。




桃霞が、麻衣を見た。




一秒。




桃霞の目が——動いた。


認識した。


確かに、認識した。




桃霞が、麻衣の方へ歩いてきた。




止まった。




一礼した。




「オーディションスタッフの浅井さんですね」




麻衣は、止まった。




「……えっ? なぜ、私の名前を」




「名札、付けていましたよね」




麻衣は、少し黙った。




確かに付けていた。


受付業務のときは、全員が名札を付ける決まりだった。


「浅井」と書かれた、小さな名札を。




「……はい」




桃霞は、もう一度、正確な角度で頭を下げた。




「お陰様で、ゆめいろシフォンの新メンバーとなることができました。ありがとうございます」




麻衣は、返す言葉を探した。




「いえ、私は何も——」




何もしていない。


処理しただけだ。


書類を受け取って、確認して、保留に入れただけだ。


合否を決めたのは九条冴子で、麻衣ではない。




そう思った。




だが——言葉が出なかった。




桃霞は、麻衣を見ていた。


表情は、変わっていない。


感情の色が、読めない。


だが——まっすぐだった。


視線が、まっすぐだった。




「これからも、よろしくお願いいたします」




もう一度、一礼した。


それだけだった。




桃霞は歩き出した。


廊下を進んだ。


総務部の方向へ。


足音は、しなかった。




曲がり角を、消えた。




麻衣は、廊下に立っていた。




隣で、田中が動いた。




「……うわっ」




田中が言った。




声に、感情が詰まっていた。




「桃霞ちゃん——めちゃめちゃかわいいーーー!」




廊下に響いた。


少し大きすぎた。


向こうに聞こえたかもしれない。




「田中くん」




「す、すみません。でも——俺、桃霞ちゃんのファンに、なっちゃいます」




麻衣は、田中を見た。




「……そういうファンが、急増するでしょうね」




「はい! めちゃくちゃ人気出ますよ、桃霞ちゃん。絶対」




田中は、桃霞が消えた方向をまだ見ていた。


目が、輝いていた。


ファンの目だった。


スタッフの目ではなかった。




麻衣は、少し考えた。




「田中くん。これまで誰のファンでしたか」




「え?」




「ゆめいろシフォンで。誰が推しでしたか」




「そりゃ、莉恋ちゃんですよ。莉恋ちゃんのピンク、最高じゃないですか。苺ちゃんもいいけど」




田中は言った。


少し照れていた。




「莉恋ちゃんのピンク」




麻衣は、その言葉を聞いた。




チェリーピンク。


白石莉恋。


結成からのメンバー。




桃霞は——ピーチピンクを担当することになる。




(それを、田中はまだ知らない)




「……C会議室、行きましょう」




それだけ言って、歩き出した。




田中が、後を追いかけてきた。




「麻衣さん、今の——すごくなかったですか。桃霞ちゃん、名前を覚えてて」




「……そうですね」




「名札って、ちゃんと見てるんですね。普通、気にしないじゃないですか、受付の名札なんて」




「……そういう子なんだと思います」




「どういう子ですか」




麻衣は少し考えた。




歩きながら、考えた。




「……見ている子です。周囲を」




「受付スタッフの名前まで?」




「たぶん——全部、見ています。処理しています。私が書類を処理するみたいに」




田中は少し黙った。




「……麻衣さんと、似ているんですかね」




麻衣は、答えなかった。




エレベーターのボタンを押した。




扉が開いた。




二人で乗った。




扉が閉まった。




「似ていないと思います」




麻衣は言った。




「なぜですか」




「あの子は——何かを知りたくて、動いています。私は——何かを感じながら、処理しています」




「……それって、どう違うんですか」




エレベーターが二階に着いた。


扉が開いた。




麻衣は、外に出ながら答えた。




「……まだ、分かりません」




田中は、少し笑った。




「麻衣さんらしい答えですね」




五月の昼の光が、エントランスから差し込んでいた。


温かかった。





つづく…

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