第7話 届き先のない笑顔
四月十日(木) 夕方 四階・オフィス
二次審査の通過通知を送った日、田中が「何人通過したんですか」と聞いた。
「九十二名です」と麻衣は答えた。
「四百九十八人の中の、九十二人ですか」
「そうです」
「……厳しいですね」
「選考なので」
田中は少し考えた。
「二百七十三番は通過しましたか」
麻衣は、田中を見た。
「なぜ二百七十三番を知っているんですか」
「麻衣さんが、あの日帰りの電車でLINEに「少しあった」って言ってたじゃないですか。次の日職場で話してくれたときに、番号を聞きました」
麻衣は少し黙った。
「……通過しています」
田中は「そうですか」と言った。
その声に、感情の色があった。
安堵なのか、期待なのか、麻衣には判断できなかった。
「麻衣さんは、どう思いましたか。通過したこと」
「……私が通過させたわけではないので、どう思うかは関係ありません」
「そういう意味で聞いてないんですけど」
田中は言った。
「麻衣さんが感じたことを、聞いてるんです」
麻衣は少し考えた。
「……まだ、分かりません。何かがある子だと思っています。それだけです」
「それだけ、か」
田中は、モニターに目を戻した。
「……それだけ言える人、なかなかいないですよ。普通は「すごい子」とか「気になる子」って言いたくなる」
「……「何かがある」が、今の私の正確な言い方です」
「うん。それでいいと思います」
田中は、静かに言った。
四月十八日(金) 夜 四階・オフィス
三次審査の前日だった。
今日の服装は、ネイビーのジャケットに白のインナー、グレーのスラックス。
二次審査の前日と同じ格好になった。
意図したわけではない。
明日の準備をする日、という感覚が、同じ服を選ばせた。
藤原係長が分担を告げた。
「明日、浅井はモニター室のサポートに入れ。田中は会場の受付補助。中村は全体統括だ」
「分かりました」
モニター室。
二次審査のとき、中村先輩がいた場所だ。
審査員は最上階から審査するが、麻衣はモニター室でその映像を管理するサポートに入る。
「今日の動画、見ておいた方がいいよ」
帰り際、中村先輩が言った。
「動画、というのは」
「課題曲の振り付け動画。通過者に送った、あの動画。明日みんなが踊るやつ」
「見る必要がありますか。私は審査をするわけではないので」
「見ておくと、明日モニターを見たときに、何が起きているか分かる。知らないと、気づけないものがある」
麻衣は頷いた。
帰宅後、スマートフォンで動画を見た。
ゆめいろシフォンの課題曲のサビパート、三十秒。
振り付けは、テンポが速い。
右に三歩、ターン、左に重心を移して、腕を上げる。
麻衣は三回、繰り返して見た。
振り付けを覚える必要はない。
ただ——どんな動きが「できている」状態なのかを、頭に入れた。
四月十九日(土) 朝 東京・審査会場
会場は、東京の貸しスタジオだった。
広い。
ゆめいろシフォンの本部スタジオの三倍はある。
鏡が一面に張られた壁。
リノリウムの床。
天井が高い。
今日の服装は、グレーのトレンチコートの下に、白のシャツブラウス、チャコールのスラックス。
二次審査当日と同じ格好だった。
今度は意図した。
動きやすくて、目立たない格好。
現場で働く人間の服装だと思っていた。
集合は朝七時。
麻衣は六時五十分に着いた。
会場の前に、すでに数人のスタッフがいた。
制作部の担当者、音響の担当者、そして中村先輩。
準備が始まった。
モニター室の設置。
審査室のカメラ位置の確認。
音響チェック。
廊下の受験者誘導ルートの確認。
麻衣は、モニター室の設定を担当した。
画面が四つ。
審査室全体を映すカメラ、正面からのカメラ、横からのカメラ、そして廊下のカメラ。
全部の映像が、正常に映っていることを確認した。
十時。受付開始。
廊下の九十二人
受験者が来た。
九十二名が、同じ会場に集まった。
二次審査は全国十二会場に分散していた。
今日は一箇所に、全員が揃った。
廊下に、列ができた。
モニター室から廊下のカメラを見ると、列が映っていた。
全員が、頭の中で何かを反復している様子だった。
口が、かすかに動いている子がいた。
歌詞を確認しているのか、振り付けを確認しているのか。
あるいは、自己PRの言葉を繰り返しているのか。
足元が、小さく動いている子がいた。
課題曲のステップを、廊下で踏んでいた。
目を閉じている子がいた。
ひたすら、目を閉じていた。
知らない者同士なのに——誰かが口ずさんだ瞬間、隣の子がそれに合わせた。
自然に、揃った。
課題曲のメロディーが、廊下に小さく流れた。
誰が始めたかは分からない。
止まるタイミングも、誰かが決めたわけではなかった。
ただ、揃って、止まった。
麻衣は、モニターを見ながら思った。
(全員が、同じ音楽を頭の中で鳴らしている)
九十二人が、今この瞬間、同じ曲を持っている。
持ち方は違う。
緊張して持っている子、冷静に持っている子、興奮して持っている子。
だが——同じ曲だ。
友達同士の別れ
受付で気づいた。
二人組がいた。
二次審査のとき、神奈川会場で見た二人組とは別の、知らない二人組だ。
おそらく同じ地域の会場から来たのだろう、一緒に受付に来た。
審査室に入る前、廊下の端で手を繋いでいた。
二次のときの二人組と、同じ光景だった。
「一緒に通ろうね」と、片方が言った。
「うん」と、もう片方が返した。
審査は、個別だ。
一人ずつ、入る。
結果は、別々に出る。
麻衣は、モニターに目を戻した。
午後、廊下のカメラに再び二人が映った。
審査が終わって、廊下で合流した場面だった。
どちらも、何も言わなかった。
顔を見合わせた。
それだけだった。
結果は、まだ分からない。
通知は一週間後だ。
今この瞬間、どちらも何も知らない。
審査がどうだったか——聞けない沈黙だった。
聞いて、相手の答えが自分と違ったら。
その可能性が、言葉を出させなかった。
麻衣は視線を別のモニターに移した。
モニターの中の、二百七十三番
審査室のモニターを、麻衣はずっと見ていた。
一人ずつ、入室する。
自己PRをする。
課題曲を踊る。
退室する。
それを繰り返す。
技術の差は、画面越しでも分かった。
振り付けを体に入れてきた子と、映像を見て覚えてきた子では、動きの質が違う。
音楽に乗っている子と、音楽を数えながら動いている子では、見え方が違う。
審査員は最上階から、リアルタイムで見ている。
麻衣はモニターを通して見ている。
同じ映像を、違う場所で見ている。
午後の中盤。
受験番号が読み上げられた。
モニターに、一人が入室した。
足音が——しなかった。
音響スタッフが、隣で気づいた様子はなかった。
中村先輩も、何も言わなかった。
麻衣だけが、気づいた。
二次審査のとき、廊下で感じたことと同じだった。
足音がしない。
それだけだ。
だが——それだけで、他と違った。
「中村さん」
麻衣は、小声で言った。
「なに?」
「この子、足音がしません」
中村先輩が、モニターに目を向けた。
一秒、見た。
「……確かに」
「二次審査のときも、そうでした。受付で気づいていました」
「それ、言えてるじゃない」
中村先輩が、麻衣を見た。
「前回、言えなかったこと——今回は言えてる」
麻衣は少し黙った。
「……今回は、言語化できたので」
「足音がしないって。それで十分よ」
モニターの中で、桃霞が自己PRを始めた。
「櫻井桃霞です。よろしくお願いします」
それだけだった。
他の受験者のPRは、三十秒から六十秒あった。
この子は、十秒かかっていなかった。
審査員が何か言った。
モニターには音声も来ている。
「もう少し、自己PRを」
桃霞は少し考えた。
三秒ほど。
「……特に、ありません」
審査員席から、小さな笑い声が聞こえた。
困惑の笑い声だった。
「では、踊ってください」
音楽が流れた。
桃霞が動いた。
麻衣は、モニターを見た。
完璧だった。
振り付けが、正確に体に入っている。
音楽に合っている。
重心の移動が、なめらかだ。
ターンの軸が、ぶれない。
技術だけで見れば——今日の中で、最も高い水準だった。
だが——
麻衣は、モニターを見続けた。
何かが、引っかかった。
笑顔が、出た。
振り付けの指定がある箇所で、正確に出た。
完璧な笑顔だった。
だが——
その笑顔が、どこかに向いていなかった。
一月三十一日の夜、田中のスマートフォンで見たライブ映像を思い出した。
あのとき感じた「引っかかり」と——同じ種類のものだった。
笑顔の届き先が、ない。
技術として出ている。
指定通りに出ている。
だが——誰かに向けられていない。
「中村さん」
麻衣は言った。
「なに?」
「……笑顔が、どこかに向いていない気がします」
中村先輩が、モニターを見た。
しばらく見ていた。
「……言語化するとどういうこと?」
「笑顔の届き先がない、という感じです。技術として出ているが、誰かに向けていない」
中村先輩は少し考えた。
「……面白い言い方ね」
「正確かどうか、分からないですが」
「言ってくれてよかった。記録しておく」
中村先輩が、手元のメモに書いた。
モニターの中で、音楽が止まった。
桃霞が、静止した。
審査員が何かを言っている。
「……もう一度、踊ってもらえますか」
もう一度、という指示は——今日、初めてだった。
麻衣は息を止めた。
気づいたとき、もう止めていた。
もう一度、音楽が流れた。
桃霞が、動いた。
一回目と、同じだった。
同じ精度で。
同じ笑顔で。
同じ場所に向かない笑顔で。
音楽が止まった。
長い沈黙があった。
審査員席から、何も聞こえなかった。
「……ありがとうございました」
審査員が言った。
桃霞が一礼した。
退室した。
足音は、しなかった。
中村先輩の言葉
桃霞が退室した後、中村先輩が言った。
「あの子、九条さんが気に入る言葉だよ」
「何がですか」
「「笑顔の届き先がない」それ、九条さんが気に入る表現」
麻衣は少し黙った。
「……気に入るというのは、どういう意味ですか」
「九条さんは——「完成していない笑顔」を探している、という話があって」
「完成していない笑顔」
「届き先のない笑顔は、まだ完成していない笑顔でしょ。どこに向ければいいか、本人がまだ知らない」
麻衣は、モニターを見た。
すでに次の受験者が入室していた。
(まだ知らない)
「知りたいことがあります」という言葉が、浮かんだ。
書類に書いてあった一文。
面談メモにも、同じ言葉があった。
笑顔の届き先を、知らない。
知りたいことがある、と書いた子が——
笑顔の意味を、まだ知らないまま、ステージに立つことになるのか。
それとも——知ることになるのか。
麻衣には、分からなかった。
審査員でも、プロデューサーでもないから。
ただ——
「続きを見たい」という気持ちが、あった。
麻衣は、その感覚に気づいた。
気づいて——今度は、処理しなかった。
四月十九日(土) 夕方 審査終了
一日目の審査が終わったのは、午後六時過ぎだった。
九十二名のうち、四十七名が一日目に審査を受けた。
残りの四十五名は、翌日だった。
会場の外に出た。
四月の夜は、温かかった。
コートを脱いでも、寒くない季節になっていた。
電車に乗った。
窓に、東京の夜景が映る。
横浜とは違う密度の光が、流れていく。
麻衣は、今日見たことを順番に思い出した。
廊下で頭の中の音楽に合わせて揺れていた子たち。
知らない者同士が自然に合わせたメロディー。
「一緒に通ろうね」と手を繋いだ二人組の、沈黙の再会。
そして——モニターの中の、足音のしない子。
笑顔が出た。
完璧に出た。
だが——どこにも向かなかった。
(届き先がない)
その言葉は、中村先輩に言ってから、自分の中にも残った。
言語化することで、より明確になった感覚だった。
「笑顔の届き先がない」
「まだ知らない」
「続きを見たい」
三つが、順番に並んでいた。
黄金町の駅で降りた。
夜道を歩いた。
アパートに帰り着いて、コートをハンガーにかけて、電気をつけた。
いつもの順番で。
いつもの部屋で。
だが——台帳を開いた。
「三次審査一日目。二百七十三番:足音なし(二次と同様)。自己PR「特にありません」。技術水準:高。笑顔:完璧だが届き先なし。もう一度の指示あり。言語化不能な何かあり。」
書いた。
「続きを見たい」とは書かなかった。
それは業務記録ではなかったから。
それは——感情の記録だったから。
台帳を閉じた。
電気を消した。
二百七十三番は、今日審査を受けた。
明日は来ない。
だが——麻衣は明日も、モニターを見る。
他の四十五名を見る。
それが仕事だから。
そして——今日の「続きを見たい」という気持ちを、持ったまま、見る。
それが麻衣の、今日決まったことだった。
つづく…
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