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第1話 影のない部屋

今年も、始まった




一月の横浜は、空気が乾いている。




九条エンターテインメントのビルは、みなとみらいの一角に建っている。


ガラス張りの外壁が、冬の夕方には青みがかった光を返す。


夏のような橙色ではない。


温度のない、白に近い光だ。




このビルで働くスタッフたちは、その色を見るたびに思う。


今年も、始まった、と。




年が明けて、十二日目だった。




三階の会議室Bに、照明が灯っていた。


夕方五時四十分。




このビルには会議室が四つある。


Aは最上階——冴子の執務室に隣接した大部屋で、外部との打ち合わせに使う。


CとDは二階にあり、マネージャーたちの日常業務で埋まっている。


Bだけが、少し違う。




窓がない。




縦七メートル、横四メートル。天井は低く、蛍光灯が二列に並んでいる。


白い光が、部屋のすべてを均等に照らす。


影ができない。


陰影がない空間は、感情の逃げ場を作らない。




冴子がBを選ぶのは、そのためだった。




テーブルは長方形。


椅子が八脚、向かい合わせに四脚ずつ並んでいる。


上座にあたる短辺側の椅子は、今日は使わない。


冴子は、そこに立つ。




六時ちょうどに、呼ばれた。




ゆめいろシフォンの六人は、三階のスタジオから直接移動した。


レッスンの終わりを告げる振付師の声が聞こえて、五分以内に集合という指示が来た。


理由は書かれていなかった。




九条からの召集に、理由が添えられることはない。


それはこの一年で、全員が学んでいた。




五時を過ぎると、横浜の夜は速い。




スタジオの小さな窓から、六人は移動する前に一瞬だけ外を見た。


みなとみらいの夜景が、冬の乾いた空気の中に浮かんでいる。


観覧車の光が、静かに回っている。




ゆめいろシフォンが結成されて、一年が経っていた。




笑い方は、覚えた。


ステージでの笑顔の作り方。


カメラに向けるときの角度。


ファンの声援を受けたときの、目の細め方。




それを、全員が持っていた。




だが——会議室Bに向かう六人の誰も、今この瞬間は笑っていなかった。




それは当然のことだ。


笑顔は、ステージのためにある。


スタジオの廊下を歩くとき、笑う必要はない。




ただ——




この先、「笑うこと」の意味が変わる夜が来る。




それを、今夜の六人はまだ知らない。





入室




春日苺かすがいちごが先頭だった。




ボルドーのスウェットの上に、黒のパーカーを羽織っている。


レッスン後のままだ。


赤みがかったポニーテールが、廊下を歩くたびにわずかに揺れる。


前髪が額に張りついていた。


汗の証拠を気にする素振りはない。




リーダーの歩き方だった。




続いて、水瀬空みなせそら




腰まで届く青のストレートロングが、歩くたびにわずかに揺れる。


水色のロングスリーブに白のハーフパンツ。


レッスン中も首にかけていたタオルを、そのまま持ってきている。


廊下に出た瞬間、冬の空気を、空だけがわずかに吸い込んだ。




橘向日葵たちばなひまわりは、空の真後ろだった。




左右のお団子の片方がゆるんでいる。


直す気配がない。


イエローのTシャツに黒のショートパンツ、タイツはベージュ。


コートを持ってきていない。


スタジオから会議室までの廊下で、腕を一度だけさすった。


寒いと言わなかった。




霧島若葉きりしまわかばは、メモ帳を手に持って入ってきた。




セージグリーンのパーカー、カーキのスラックス。


緑がかったボブは整っている。


ペンを、すでに持っていた。


何かが始まると分かっていたわけではない。


ペンを持つことが、若葉の準備の形だった。




御堂杏みどうあんは、音を立てずに入ってきた。




テラコッタのキャミソール、ベージュのカーゴパンツ。


橙色のサイドポニーが、肩の上で止まっている。


会議室のドアをくぐった瞬間——


杏だけが、部屋の空気を一度、嗅いだ。




何も言わなかった。




白石莉恋しらいしりこは、後ろから二番目だった。




オフホワイトのニットワンピース。


袖口に、細いピンクのリブが入っている。


レッスン後にしては珍しい格好だが、莉恋は廊下でも「見られている」ことを意識する。


茶色のツインテールは、一年前と変わらない高さで結ばれていた。




変わらない。




全員が着席する前に、九条冴子が入ってきた。




九条冴子




濃紺のパンツスーツ。


インナーはシルバーグレーのブラウス、ボタンをひとつだけ開けている。


時計はシンプルなメタルバンド。指輪はしていない。


靴はポインテッドトゥのスチールグレー——スタジオの廊下でも、音がしない。




手ぶらだった。




書類も、タブレットも、ノートも、持っていない。


何も持たない冴子は、いつもより少し違う種類の圧力を持って見えた。




上座に立つ。




座らない。




六人が揃うのを待ちながら、一人ずつの顔を見た。


左から右へ。


止まらずに。




その視線を返せたのは、若葉だけだった。




全員が着席した。




冴子は、テーブルに一枚の紙を置いた。




音がした。


A4サイズの白い紙が、テーブルの表面に触れる音。


その音だけが、室内に響いた。




グラフ




グラフが三本、印刷されていた。




上から順に。




直近三ヶ月のストリーミング再生数。


ライブ動員の前売りチケット消化率。


グッズ売上の前年同月比。




いずれも、右肩下がりだった。




急落ではない。


崩落でもない。




なだらかに、確実に、下がっている。




紙は一枚しかない。


全員分の枚数は用意されていなかった。


冴子はそれを、上座からテーブルの中央に向けて滑らせた。




六人が、身を寄せて見た。




最初に意味を読み取ったのは、若葉だった。




眉が、ほんのわずかに動いた。


ペンを持つ手の力が、少しだけ増した。


声は、出なかった。




苺は、グラフを見ながら正面を向いたままだった。




視線だけを落とし、表情を変えない。


リーダーとしての訓練がそうさせているのか、


それとも今この瞬間に感情を出すべきではないと判断しているのか。


苺自身にも、どちらかは分からなかった。




向日葵は、グラフの右端を指でたどりかけて、止めた。




触れてはいけないものを触れそうになった、という感覚があった。


代わりに、隣の空を見た。


空は、グラフではなくテーブルの表面を見ていた。


何かを聞いているような目だった。




冴子が口を開いた。




説明




「下がっています」




前置きは、なかった。


謝罪も、慰めも、なかった。




「三ヶ月連続です。いずれも微減ですが、方向は一定です」




声は一定だった。


感情の揺れが、ない。


報告書を読み上げているのと、同じ声だった。




「……それは」




向日葵が口を開きかけた。




止まった。




続きが出てこなかった。


「それは」の先に何を置けばいいか、見つからなかった。




冴子は向日葵を一秒だけ見て、続けた。




「理由を説明します」




市場




「現在、国内で活動している女性アイドルグループは三百を超えます」




三百。




その数字が室内に落ちた瞬間、向日葵の口がわずかに開いた。


声は出ない。


数字の大きさだけが、顔に出た。




「毎月、新しいグループがデビューしています。大手レコード会社が資本を入れたグループ。


オーディション番組発のグループ。SNSのバズをきっかけに事務所が設立されたグループ。


形は違っても、全員が同じ市場で戦っている」




冴子はテーブルの向こうで、全員を視界に収めたまま話していた。


特定の誰かを見ていない。


全員を見ていた。




「その中で、ゆめいろシフォンはこの一年、上位を維持してきた」




苺の肩が、わずかに動いた。


誇りとも、安堵とも、違う。


「だが」という言葉が来ると、もう分かっていたから。




「理由は三つありました」




「一つ。カラーシステム」




莉恋の指が、テーブルの縁に触れた。




「六人それぞれが固有の色を持つ。ファンが自分の推しを持ちやすく、グッズ展開との親和性も高い。


ゆめいろシフォンを支持したファンの多くは、最初にこの仕組みに引きつけられた」




「二つ。技術水準」




「歌、ダンス、パフォーマンス全般において、ゆめいろシフォンは同規模のグループの中で上位に属する。


これは結成時からの方針であり、今も維持されている」




「三つ。希少性」




「露出を管理してきた。出すぎない。だから価値が下がらない。


ファンは常に"もっと見たい"という状態に置かれてきた」




若葉が、メモ帳に三つの言葉を書いた。




「カラー」「技術」「希少性」




書いて、ペンを止めた。




次に来る言葉が、もう分かっていたから。




消費




「それらが、機能しにくくなってきた」




冴子の声は変わらない。


一定のまま、続ける。




「カラーシステムは、今では模倣されています。六色のメンバーを持つグループは、現時点で国内に五組ある」




五組。




向日葵が、眉を寄せた。


テーブルの向こうの空を見る。


空は、前を向いていた。




「技術水準は維持されています。しかし技術は、差になりにくい時代になった」




「ダンスが揃っている。歌がうまい。それは今や、最低限の条件です。


かつては武器になったが、今は土台に過ぎない」




苺の背筋が、ほんのわずかに——変わった。




崩れたのではない。


何かに耐えるための変化だった。


それを、苺の隣に座る若葉だけが気づいた。




気づいて——何も言わなかった。




「希少性については」




冴子は少しだけ間を置いた。




その一秒が、室内の重さを変えた。




「あなたたちは一年で、完成されました」




沈黙。




誰も、その言葉を即座に処理できなかった。




「完成された」




それは、褒め言葉のように聞こえる。


一年間の努力が、ここに至った。


成長した、ということだ。




だが——冴子の声の質が、それを「褒め言葉」として機能させなかった。




「完成されたものは、話題になりません」




空が、息を吸った。


微かに。


タオルを握る指が、白くなる。




「ファンが人に伝えたいのは、変化の瞬間です。成長の途中を目撃した感覚。


あるいは、まだ誰も見たことのないものを最初に見た、という経験」




「完成されたグループにそれはない」




「安定している。クオリティが高い。だからこそ——驚きがない」




向日葵の口が、また開きかけた。




今度は、止まらなかった。




「でも」




声に、色があった。


感情の色。


ライブのステージで客席に向けるときの色と、同じ種類のもの。




「私たちは——頑張ってきました」




言葉が出た瞬間、向日葵は少し後悔した。


幼稚だと思った。


「頑張ってきた」は、事実だ。


だが今この部屋では、事実は反論にならない。




冴子は、向日葵を見た。




一秒。




「知っています」




それだけだった。




認めた。


否定しなかった。


だが——だからといって、グラフの方向が変わるわけではない。




その「だから何だ」という空白が、向日葵の胸に重く落ちた。




若葉が、メモ帳に一行書いた。




「消費された」




ペンを止める。




その言葉が正確かどうか、若葉には分からなかった。


だが今この部屋で語られていることを一言に圧縮するなら、


それ以外の言葉が見つからなかった。




問い




「模倣されたからですか」




若葉が言った。




感情のない声だった。


情報として聞いている声。


怒りでも悲しみでもなく、ただ確認している。




「模倣されたこと。そして——消費されたこと」




冴子は若葉を見て、答えた。




「一年経ちました。あなたたちの活動は、ファンに十分に届いた。届いたということは——見終わられた、ということでもある」




「見終わられた」




その言葉が、莉恋の胸の中で止まった。




莉恋は、ずっと黙っていた。


テーブルの縁に触れた指は、まだそこにある。


顔は正面に向けたまま、グラフの数字を見ていた。




その数字が見えているのか、見えていないのか。


外側からは、分からない。




(一年間)




(歌った。踊った。笑った)




(それが——見終わられた)




言語化された。


冴子の口から出た言葉によって、それが「事実」として形を持った。




莉恋は、指に力を込めた。


テーブルの縁を、押した。


その跡が、指先に残る程度に。




「……消費された、というのは」




莉恋が、初めて口を開いた。




声は静かだった。


揺れていない。


だが——揺れていないことが、かえって何かを示していた。




「私たちの努力が、ということですか」




冴子は、莉恋を見た。




少しだけ、間があった。




この一秒は、何を意味したのか。


冴子が答えを探していたのか。


それとも、莉恋の言葉の重さを測っていたのか。




「努力ではありません」




冴子は言った。




「消費されたのは——驚きです。ゆめいろシフォンが持っていた、"まだ見たことのない感覚"が、一年で出し尽くされた」




「努力は、消費されていない。技術も、消費されていない」




「あなたたちが積み上げてきたものは、ここにある」




冴子は、グラフを指さした。




「だからこそ——停滞で終わっている。崩落ではなく」




莉恋は、冴子を見ていた。




一秒。




二秒。




それから、視線をテーブルに戻した。




答えは出なかった。


納得もしなかった。


ただ——冴子が嘘をついていないことだけは、分かった。




この人は、いつも正確に切る。


慰めない。


代わりに、嘘もつかない。




それが——今は、余計に重かった。







沈黙が続いた。




蛍光灯の音だけが、微かにある。


窓がないこの部屋では、外の音が入ってこない。


六人と一人の呼吸だけが、空気を動かしていた。




空が、口を開いた。




「……今の話は」




声が、いつもより低かった。


感情を抑えているときの空の声だと、隣に座る苺は知っている。




「私たちには、どうにもできない話ですか」




冴子は、空を見た。




「どうにもできない話ではありません」




「だからここで話している」




その答えを聞いて、空は一度だけ頷いた。




小さく。確かに。




「何かが、変わるということですか」




「そうです」




全員が、その「そうです」を受け取った。




「変わる」という言葉の先に何があるのか。


全員が、その続きを待った。




中心




苺は、正面を向いたままだった。




リーダーとして、崩れない。


それが、今できることだと思っていた。




だが——内側は、動いていた。




(一年)




(他の五人と、毎日スタジオに来た)




(歌詞を覚えた。振りを体に入れた。ライブで何千人の前に立った)




(それが、足りなかったのか)




違う、と思った。




冴子は「足りない」とは言っていない。


「消費された」と言った。


「驚きがなくなった」と言った。




その二つは、同じではない。




だが——どう違うのか。


苺には、まだ整理できない。




リーダーとして、答えを持っていなければいけない気がした。


答えを持っていない自分が、今この部屋で椅子に座っている。




(何かが変わる、と冴子は言った)




(それが何かを——私は先に知っておくべきなのか)




(それとも、知らないまま受け取るのか)




答えが出る前に、冴子が続けた。




重さ




「これから話すことは、グループの方針に関わります」




冴子の声が、わずかに変わった。




質が、変わった。


音量でもない。速度でもない。


含まれている何かの密度が、上がった。




六人全員が、それを感じた。




向日葵が、タオルを握り直した。


若葉が、ペンを紙に置いた。書くのをやめた。


聞くための準備として。




杏は、ずっと動いていなかった。


この部屋に入ってから、一度もタオルに触れていない。


冴子を見ていた。


「見ている」というより——「嗅いでいる」に近い何かで。




「ゆめいろシフォンには、今、起爆剤が必要です」




起爆剤。




向日葵が、その言葉を胸の中で繰り返した。


(起爆剤)




爆発する、ということだ。


今のゆめいろシフォンが、爆発する。


その言葉の意味を、頭の中で広げようとして——止まった。


広げると怖いものが見えそうで、止めた。




冴子は全員を見た。




蛍光灯の光の中で、六人と一人。




影ができない部屋の中で。




「オーディションを行います」




それが、第一部の終わりだった。




「新しいメンバーを、募集します」




室内の空気が、変わった。




さっきとは違う、別の種類の変化だった。




グラフを見せられたときとも、違う。


「消費された」と言われたときとも、違う。




もっと、近い場所から来る変化だった。




苺は、正面を向いたまま、目だけを細めた。




リーダーとしての反応ではない。




一人の人間としての、反応だった。





つづく…




マンガ版はpixivで連載中


https://www.pixiv.net/artworks/143788065

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