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凡人信長記  作者: 梵天丸


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決戦!桶狭間 前夜

「桶狭間か、、、」

 やはりその話か、という思いを漂わすかのように両腕を懐手ふところでにして、しばらく勿体をつけるように黙り込んだ。そのあと襟元から片手だけ覗かせるとさらに考え込むように顎の撫でる。その表情には、自分の武勇伝を誇るといったものではなく、むしろ若干の懐疑や困惑を含んでいるように、光秀には見えた。

「一言で言うと、まぁ、運が良かったとしか言いようがないのだが、、、」

 やっと意を決した様に信長は語り始める。


 時は永禄三年(1560年)五月十七日にさかのぼる。 


「今川 治部大輔じぶたいふ(義元)の率いる本隊、およそ2万5千。沓掛城周辺に陣を構えたとのことです!」

 清須城の信長の元へ、転げ込むように物見の使者が駆けつけてきた。

 沓掛城は三河国と尾張国の国境近くに位置し、ここから西に伊勢湾へ向かい東へは遠く鎌倉へと続く旧鎌倉街道(のちの東海道)に接する要衝ようしょうである。ここに今川義元が自ら大軍を率いて陣を張ったということは、今川勢による本格的な尾張への侵攻が始まったことを意味している。この当時『海道一の弓取り』と名高い今川義元、その支配地域は駿河湾に面した本拠地駿河の国から、遠江とおとうみそして三河と広範囲に及んでいる。

 義元は本来は駿河・遠江の守護大名であるが、時流に乗って戦国大名へ転身していった。永正十六年(1519年)の生まれであるから当時数えで四十二歳。二年前の永禄元年(1558年)に既に嫡子の氏真に家督を譲り、本国の駿河・遠江の経営を任せている。その一方で、自身は新領土である三河の経営を確立した上で、さらに尾張へその勢力圏を広げようとしていた。複数の国にまたがる領土の領主としても武将としても、まさに脂の乗り切った時期であり、義元自身さらに広範な領土を支配しうるだけの器量を持ち合わせてもいた。そしてそれは尾張国が今川の支配下に入る日が刻一刻と近づいていることも示していた。


 一方で織田家の支配する尾張は小さな国であった。

 現在の愛知県は尾張とその東に接する三河を合わせた範囲であるから、当時の尾張は現代の愛知県の約半分にも満たない。その尾張国の南西、伊勢湾に面した知多半島の付け根に、半里余り(約2・5キロメートル)離れて大高城と鳴海城がある。この二城に加えて鳴海城の北西半里余りに位置する笠寺、さらに尾張国と三河国との国境に位置する沓掛城を含めた四つの城が今川の手中に落ちたのが既に八年も前、天文二十一年(1552年)に信長の父である織田弾正忠信秀が病没してすぐのことである。その信秀の跡を追って家督を引き継いだのが信長であるが、十九歳になったばかりの信長の力は、父信秀に及ぶべくもなく、その死をきっかけに尾張国内の各勢力が分立し政情は一気に不安定となった。

 そして『海道一の弓取り』と言われた男が、信秀の死という好機を見逃すはずもなかった。義元はすかさず、信秀から鳴海城を任されていた山口 教継のりつぐを自陣に引き込み、自らの重臣で駿河衆である岡部元信らを送り込むと、鳴海城のすぐ北東に位置する笠寺に砦を築いて笠寺城とし知多半島の付け根を押えた。さらに教継の手配で大高城と沓掛城も今川方の勢力下に引き入れさせた。この四つの城が今川の支配下に入ったことで、知多半島はほぼ尾張国から分断される形となった。元々小さい尾張国が、さらにその南に突き出した知多半島の殆どを、今川勢に実効支配される事態となったのである。


 若き信長もこの状況になんとか一矢報いるべく、は天文二十三年(1554年)には今川方の村木砦を攻め落とし笠寺城も奪還したが、鳴海城、大高城以南の知多半島の大部分が今川に支配される状況は変わっていない。

 そんな状態が約五年ほど続く間、信長はなんとか国内の敵対勢力を鎮圧して尾張の再統一を進めてきた。そして、前年の永禄二年(1559年)には尾張国内で最後まで信長に敵対してきた守護代伊勢守信賢らが、伊勢湾に近い海西郡の河内から今川勢を尾張へ引き入れようとする計画が発覚した。そこで、信長は今川方に奪われた地域を牽制するため、鳴海城を取り囲むようにその北に丹下砦、東には善照寺砦、さらに伊勢湾へ注ぐ黒末川くろずえがわ(天白川の支流で現在の扇川)を隔てて南には中嶋砦を築いた。そして大高城の周りにもその北に鷲津砦、東に丸根砦とを築き、鳴海城と大高城相互の連絡を絶とうとしていたのである。

 ちなみに今川義元が尾張国南半分へ侵攻する足掛りを築いた山口教継と教吉のりよしの親子であるが、その後義元から駿河に呼び寄せられ、褒美を与えられることもなく切腹を命じられている。その理由については多くの言い伝えがあるが確たることは判っていない。

 翌五月十八日の夕刻。 

「今川方の別働隊が十八日のうちに大高城へ兵糧を運び入れ、続いて丸根と鷲津の両砦を攻撃しようとしている」

 との報告が入った。

 尾張国の中にあって既に今川方の支配下に置かれている大高城。その大高城を牽制すべく築いてある丸根砦の佐久間大学盛重、鷲津砦の織田 玄蕃允げんばのじょう 秀敏(信長の父信秀の叔父にあたる)からの使者である。この別働隊は今川義元の率いる本隊が進む鎌倉街道から、田楽狭間と呼ばれる低地を南に逸れて大高城へ向かう間道を進んでいた。

 丸根砦と鷲津砦からの報告を受けて、清須城の広間に重臣が詰めかけている。

「殿、ご家老衆が広間にてお待ちでございます」

 小姓の加藤弥三郎と岩室重休いわむろしげやすが催促する。

「わかっておる。弥三郎、おぬしは城下へ行って町衆の長兵衛と甚八につなぎをつけて参れ。明朝辰の刻(午前八時)、熱田神宮の上知我麻かみちかま神社へ参るよう」

 町衆の世話役として清須城下に顔が広い二人は、信長が家督を継ぐ以前に『大うつけ』と呼ばれて城下を闊歩していた時代からの顔馴染みである。二人とも家業の海産物問屋と酒問屋を継ぐまでは、いっぱしの遊び人気取りで城下を遊び歩いていた間柄で、これも奇抜な格好で街を練り歩く信長とは意気投合し、渡世人の親分と子分のような関係になっていた。

 信長が家督を継ぎ、他方で二人が家業を継いだ今でも、紅蓮隊のように城下で徒党を組んでいたころとはまた違った形ではあるものの、お互いに助け合う関係が続いていた。特に二人がもたらす、仕事の取引などで得た情報や城下の人心にまつわる話は、信長が領国経営をする上で欠かせないものであった。

 また加藤弥三郎は、熱田を本拠に商いを行いながら、織田弾正忠家との主従関係を結んでいる旧家の加藤家の次男坊である。当時の加藤家の当主である図書助ずしょのすけ順盛よりもりは長男の順政よりまさを自らの跡取りとし、次男の弥三郎を小姓として信長に仕えさせていた。こんなところにも弾正忠家が商業を重視して領国経営に生かしていたことが見て取れる。

 岩室重休は幼少の頃から小姓として信長の側近くに仕えてきた。生来頭脳明晰で武芸にも優れる。前年の永禄二年からは信長の親衛隊とも言える赤母衣衆あかほろしゅうに抜擢されており、それを機に信長から『長門守ながとのかみ』との通称を受けている。これはあくまで織田家中における愛称のようなものであり、朝廷から正式の与えられる官職名とは異なる。

「それと長門ながとは善照寺砦の出羽介(佐久間信盛)に使いを出せ。明朝善照寺へ向かい軍勢を整えるつもりじゃ、そのつもりで準備を整えるよう」

 信長からの指示を受けて二人は信長の居室から飛び出していく。

 今川勢による尾張侵攻の橋頭堡きょうとうほとなっている鳴海城の動きを封じるべく築いた善照寺砦は、同時期に築いた5つの砦の中でも特に重要な位置にある。そのため、父の代からの筆頭家老である佐久間家の信盛と弟の信直に差配を任せて警戒に当たっている。


「待たせたの」

 信長いつもの着流姿で広間へ入ると、重臣たちは既に甲冑を身につけて、主君信長からの出陣の号令を待つばかりといった風情であった。

「皆の者出陣の準備ができておるようだな。重畳ちょうじょう、重畳」

 信長のとぼけた言葉に一同は一瞬呆気に取られた表情を浮かべたが、すぐに気を取り直し滝川一益が口を開いた。

「殿、今川勢は日が落ちても大高城へ向けての進軍を続けており、今夜中にも丸根と鷲津の砦へ攻めかかる勢いとのことに御座ります。今すぐにでも援軍を差し向ける必要があろうかと思われます」

「ああ、そうか」

 信長は気のない調子で応えると、広間の上座にいつものようにドッカと腰を降ろした。

「皆も左近(一益)と同じ意見か?」

「はは」

 一同が畏まると、信長は田植えは順調であるか、川の堤防に緩みはないか、などを重臣たちに確認すると、その後も今川勢の侵攻などないもののように世間話をしばらく続けながら、重臣たちの顔色を観察した。当然、一益などは信長のそのような態度に焦れて、顔を赤くしながらイライラしている。その他の者も一様に信長の呑気な表情に呆れているものの、今川方と通じている様子の者はいないように見えた。

「では、ご苦労であった。今宵は夜も更けたゆえ帰宅して良いぞ」

 信長はそう言うと立ち上がり、呆れ顔の重臣たちを尻目に広間から寝所へ下がってしまった。

 残された重臣たちは

「運が尽きるときは知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時ということか」

「我らも先の身の振りを考えねばならんな」

「やはり『大うつけ』は頼りにならん」

 などと口々に言い合いながらそれぞれの屋敷へ下がっていった。


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