評定
「というわけで公方様、実際はまだ公方様ではないのだが。いずれにせよ直々の御上洛の催促なのだ。その代わりと言ってはなんだが、一色との和議については幕臣方で労を取るとのことだ。和議によって我らが上洛の軍勢を率いて美濃を通過し、六角義賢(承禎)殿の手引きで近江の矢島という所におわす公方様と合流する、という手筈だそうだ。各々方の所存を聞かせてほしい」
信長は光秀との面談を終えて、早速おもだった重臣たちを小牧山城本丸の広間に集めた。足利義秋に供奉(高貴な位の人物のお供をすること)しての上洛を本当に行うか否か、織田家としての決意を定めるための評定である。いざ上洛となればそのために必要な人的負担や費用は相当なものになる。信長一人の一存で決められるものではなかった。
六年前の永禄三年(1560年)に桶狭間にて、東海道の駿河、遠江から三河、さらに尾張の一部までを支配下に置き、「海道一の弓取り」と謳われた稀代の英雄である今川義元討ち取って以来、その動向が世間から何かと注目されている織田家中の面々である。
信長が家督を継いでから何年もの間、尾張国内では主家、分家含めていくつかある織田家の尾張国内における主導権争いや、信長とその弟信勝との家督争いなどが続いてきた。その渦中においては、こうした評定も形ばかりで信長はあまり自分の考えを示すこともなかったし、重臣たちにも信長を軽んずる態度が目立った。
しかし、桶狭間の合戦以降は信長も自信が芽生え、重臣たちの意見を聞く余裕も出てきた。そして何より重臣たちの信長に対する信頼感、忠誠心が大幅に改善したことで評定でも皆が活発に意見を表明する様になった。普段はそれぞれの所領で政務に当たっている重臣たちであるが、今日は京から直々に室町将軍の使者が来るということで、普段から清須城で領内の統治に携わっている林佐渡守秀貞を除いて、その多くが事前に小牧山城に参集していた。
「公方様が和議を進めてくださるというのは喜ばしいことですが、果たして上手くいきますかな?相手はあの治部大輔(一色龍興)ですからな」
いつも通り評定の口火を切ったのは、織田家の筆頭家老の佐久間(出羽介)信盛である。享禄元年(1528年)の生まれであるからこの時三十八歳で明智十兵衛光秀とは同い年ということになる。まさに働き盛りの年齢である。しかしこの男、思慮深いといえば聞こえは良いが、とりあえず必要以上に慎重な態度を取るのが定石で、ともすれは何をするにも腰が重い。また先代の信秀の時代からの重臣ということもあって、主君である信長に対しても遠慮なく一言多いのである。
「佐久間殿の仰る事はもっともですが、ここは公方様の折角のお申し出であるから、お断りするという法は無かろうと存じます」
評定の場において常に常識的な発言をするのが、どのような仕事も嫌がらず無難にこなすと評判の丹羽(五郎左衛門)長秀である。天文四年(1535年)の生まれで信長の一つ歳下であり、小牧山に移るまでは小姓頭として信長に側近く使えてきた。見た目と物腰はよく言えば老成した、悪く言えばジジむさい男であるが、実は信長と最も遠慮なく意見を交わせる男でもある。
「ここ小牧山に本拠を構えて三年にもなりますぞ!一昨年来の家中のゴタゴタで領主の龍興は家中から総スカンだと言われております。梅雨入りして長良川の水量が増えては厄介。五郎左(長秀)!竹中と安藤への調略は進んでおるのだろう?ここは一日も早く稲葉山をスッキリ攻め落として堂々と上洛するのが上策だろうと思いますな!」
威勢の良さでは家中随一。重臣では最年長、大永二年(1522年)生まれ。齢四十四にして尚意気軒昂、柴田(権六)勝家である。織田家においては古くからの宿老ということもあり、こうして大きな顔をしているが、実は勝家がこのような重臣の評定に参加できるようになったのは、ここ一年程の間であった。後に述べることになるであろうが、信長の弟である勘十郎信勝の謀叛に関係した咎を受けて、自らの所領の経営に専念するよう申し付けられていた期間が長かったのである。
「おい、権六。調略のことを大声でしゃべっては調略に成らんだろう。稲葉山をそう簡単に攻め落とせぬからこうして三年を費やしているのは貴殿も分かっておるだろうに」
槍の名手で子沢山、愛妻家と評判は森(三左衛門)可成である。織田弾正忠家に使えるようになって約十二年と重臣の中で古参ではない。しかし大永三年(1523年)生まれと勝家と年も近いし、共に武芸に秀でていることで気が合うのか、勝家とは昵懇の間柄である。鬼柴田とも言われる勝家を権六と呼び捨てにするのは、主君である信長とこの人だけである。
「ここはひとまず公方様以下幕臣の皆様のお手並を拝見するということで」
可成が続けた。
「左様ですな。和議の仲裁はとりあえず謹んでお受けするということで」
こちらも宿老で種子島(鉄砲・火縄銃)の名手、滝川(左近)一益である。この人は大永五年(1525年)の生まれで四十一歳になるが、元々織田家に仕えていたわけではない。天文二十一年(1552年)に信長が家督を相続下のちに、その鉄砲の腕前を見込まれて召し抱えられた。
「私も異論は御座いませぬ」
短く同意を述べたのは蜂屋(兵庫助)頼隆。天文三年(1533年)の生まれで一族は美濃の出身である。頼隆自身は尾張生まれで幼少から信長に近く仕え、黒母衣衆に名を連ねる中で頭角を表してきた。
「勝三郎は?」
信長が重臣たちの末席に声をかける。
「御屋形様の仰せの通りに」
あまり抑揚のない声で答えたのは池田(勝三郎)恒興である。
信長の実弟勘十郎信勝と同い年の天文5年(1536年)の生まれである。信長の母土田御前が産後の肥立が悪かったため、恒興の母(のちの養徳院)が信長の乳母を務めた。その養徳院は恒興の父恒利が亡くなると、信長の父信秀に請われてその側室となるなど、若い頃から才色兼備を謳われた女性であった。
その母から美貌と優れた智力を受け継いで生まれた恒興は、信長の二つ年下の乳兄弟として、幼少の頃から小姓として信長の側近くに仕えている。武芸も達者で何かと信長も頼りにしているのだが、性格は控えめでこのような評定の場でも自然と末席が定位置となっていた。
「一通り意見は出たようだが、公方様からの仲裁はお受けするということで良いな」
「はは」
一同承知との態度を示し信長に一礼した。
「殿、ついては此方からの和議の条件でござるが」
すかさず信盛が口を挟む。
「治部大輔(龍興)の嫡男を人質に取るべきと存じます、でなければ信用なりませぬ」
一同、一瞬顔を見合わせる。
「え?公方様に対してこっちから条件出すのか?」
思わず一益が声を出す。
「当然でございましょう。美濃と敵対関係にある我らがその手を休めるのですから、人質の一人ぐらい取って当たり前と存じます」
信盛は筆頭家老との立場であるが、宿老の中では若年であり、何より理知的で慎重な性格を自認しているから、家臣団での評定でも高圧的な言い方はしないのが常である。
「いや、流石に今回は此方からの条件は要らんだろう。ある程度長期的な和議を結ぶという話でないのだからな。あくまで公方様上洛のために美濃を通過するのが目的だからの。治部が望んで受ける話ではないのだ。余計な条件をつけてはまとまる話もまとまらん」
信長が皆を見渡しながら、極力落ち着いた調子で言う。
一昨年、犬山城周辺の領地を支配していた義兄の織田信清との争いに決着をつけ、甲斐国に追い出したことで、やっと尾張全体を名実ともに掌握した信長であった。それからは、このように努めて皆の意見を聞きながら、評定の舵取りをするよう心がけているのである。
「殿がそのように仰るなら否とは申しませぬ。ただ此方から条件も出さぬような和議が治部大輔に通用するとは思えません」
自分が出した条件を、『余計』と言われたことで信盛は少々顔色を曇らせたが、不服ながら同意する。その信盛の態度に評定の場に白けた空気が流れるが、信盛は全く気にする様子もない。むしろ主君信長に対しても、言うべき事は言ってやったぞと満足げである。
「さて、では和議はお受けするということで御使者殿にお伝えして良いかな。お呼びしろ」
信長に命じられて小姓が控えの間に向かった。
「上洛の軍勢はどの程度が必要ですかな?」
光秀が広間にやってくるのを待つ間に、長秀が伺いを立てる。
「すべては和議が整ってからの話ではあるが、サッパリ見当がつかんわ。義輝様に御目見得したのは七年前であったか?あの時は八十人だったな、ワハハ」
例によって話があちこちに飛ぶ信長である。
「あの時は斎藤義龍が送った刺客と京でやり合ったと聞いて肝を冷やしましたぞ」
勝家が大きな声を出す。
「若い連中ばかり引き連れての強行軍であったからな。今回は公方様の行列として堂々と入京せねばならんからな。五郎左、これは金が掛かることだけは間違いないわ」
信長が長秀を見やると
「それは覚悟は致しております」
とすかざす受け取る長秀である。
「御使者殿が参りましてございまする」
小姓が声をかけて広間の入り口の脇に控えると、光秀が広間前面の廊下に平伏した。
「待たせたの、十兵衛殿。面を上げられよ」
「は」
「帰蝶には会うたか?」
「お気遣い頂きありがとうございます。昔話に花が咲きましてございます」
「それは良かったの」
信長は努めて明るい雰囲気で光秀を招き入れたつもりであった。しかし、重臣の多くは光秀が斎藤道三に仕えていた時代に多少の面識がある。それも今回光秀が足利義昭上洛の催促の使者に立った理由の一つである。しかし面識があることで逆になんとなくぎこちない空気が流れている。
「ゴホン」
誰かが咳払いをした。




