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凡人信長記  作者: 梵天丸


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室町将軍

「戦国の世とは申しても決して無法状態ではありませぬ。人が人と暮らしていくには秩序が必要です。そしてその裏付けとなる権威と権力も」

 光秀が静かに答えた。

 

 室町幕府が衰え戦国の世となって発生した一番の問題といえば、有力者同士の間で頻繁に発生する、あらゆる権利問題の仲裁と解決が出来なくなったことであろう。

 それまでは将軍の権威を背景に、その配下である守護たちによって、相論(揉め事)の裁許(公式の裁定や許可)や土地の境界決定、そしてその土地の安堵などの実務が行われてきた。ところが戦国の世になったことで、遠く京の都にいる将軍の権威より、身近にいる有力国衆の支配力、それは往々にして暴力を伴うものだが、そちらが幅を利かすようになってしまった。

 そうなると、土地の境界侵犯、田畑の押領、水利権といった問題が発生する度に、ヤクザの縄張り争いよろしく、すぐさま暴力沙汰に発展することになる。何しろそれまでは「恐れながら」と届け出すれば、曲がりなりにも守護やその配下が仲裁してくれたし、秩序を乱す行いがあれば幕府という公権力によるお仕置きもあった訳だから、互いに自重することもできた。しかし今では無法者に対する幕府のお仕置きを待っていても解決がいつになるか分からない。そんな悠長に構えていても損こそすれ何の得にもならないのだ。


 一方で、じゃあそれで室町将軍を頂点とする裁許の権限が、全く不要になったかと言えばそうではないからややこしい。むしろこうした暴力沙汰が増えたことによって、表向きは将軍の仲裁を求めるケースが増えたのである。

 それは互いに暴力を行使するハードルが下がったことで、その場の勢いで紛争に発展するケースが増えたからであった。後先を考えずに勢いで始まったような争いは、お互いに引っ込みがつかなくなるものである。将軍を頂点に各地方の守護による統制が効いていた時代には、揉め事に対して暴力沙汰になる前に守護が介入できたし、仮に暴力沙汰にまで発展しても守護の力で仲裁でき、それなりの処罰もできた。

 ところが戦国の世ともなると、守護をはじめとした各地方の実力者が、自己中心的な境界侵犯、押領などを繰り返している。つまり紛争を調停する立場の人間が紛争の当事者なのだ。当然、周囲が納得するような裁定は期待できない。そこで、一旦始まった争いを有効な調停や休戦に持ち込むには、双方が形式上でも頭を下げる権威、つまり将軍の裁定が必要になってくるのだ。『公方様が止めろと仰るなら手打ちとしよう』と言えば、双方が面子を失わず、紛争を止める口実になる。そしてそれが戦国の世においても室町将軍が存続している理由の一つとなっていた。


 細川京兆家(管領職を継承する細川の嫡流)や大内氏、六角氏など、その時々の実力者がいかに政治力と経済力、そして兵力を持っていたとしても、常に身分や格式では同等な対抗勢力が存在する。それらがお互いに派閥を組んだり離反したりを繰り返せば、結局のところ応仁の乱の焼き直しになる。それを避けるには有力大名達から抜きん出た存在が、仲裁者として必要になる。

 地方で自立した戦国大名などは、室町幕府が定めた法度や守護の命令から自由になり、領国法などを制定して自国内の安定を目指したが、自国内が治れば次は隣国との利権争いが始まる。結局のところ、京都五畿内の覇権を争う名門大名にとっても、地方で生まれた新興の戦国大名にとっても、室町将軍はただのお飾りではなく、自分たちの立場を有利にし無駄な損失を免れるためには、必要不可欠な安全装置の役割を果たしていた。ただし、室町殿の仲裁にも弱点があった。それは将軍の御沙汰という権威はあるが、実効性をもたせる「力」がないことである。


「そもそも、公方様は自らの軍勢をお持ちではありません。というか本来は管領以下の宿老達が公方様直轄の軍勢のはずなのです。ですから公方様の御指図なしに軍勢が動くはずがなかったのです。軍勢だけではありません。御公儀(幕府)が行うことは全てその手順でございます。あくまで公方様の権威があってのこと。ところがいつの間にか、公方様の御指図がなくとも管領以下があらゆることを差配するようになりました。そのほうが公方様を煩わせなくて済むと称して」

 光秀が続けた。

「しかし、御先代(足利義輝)はそのような権威だけ、いわばお飾りの役割に満足されるようなお方ではなかった。自らの手で将軍親政を行おうとされた。そのために公儀内での権力争いに明け暮れる畿内の大名達を退けて、地方の有力大名たちの武力を自分の傘下に収めようとされたのではなかったか?」

 信長は事実関係を確認するように、光秀の目を覗き込みながら言った。

「左様でございます。和田(惟政これまさ)殿、そして今私がお仕えしている細川(藤孝)殿も、御先代(義輝)のその思いを実現すべく勤めて参りました」

 光秀が答える。

「しかしそれには畿内の大名達は不満でありました。その結果が昨年起こった事件(永禄の変=三好三人衆と松永久秀による将軍義輝の弑虐)にございます」

 光秀は悔しげに唇を噛む。

「聞くところによると、義秋様は兄である御先代を大変に慕っていらしたとのこと。さすれば非業の死を遂げた兄君の遺業を、継ごうとの思いが強いのではないか?」

 信長が畿内の状況を、概ね正確に把握していることに光秀は感心した。

「ご明察の通りかと存じます。義秋様には兄君のやり残された仕事を引き継ぐという強い思いがございます」

「左様か?では御上洛後の段取りもそれなりに?」

「いや、それはまだ、、、」

「まぁ良い。全ては御上洛を果たしてからの話だしな」

 信長はどこか他人事のようにカラリとした調子で言った。


「では上総介様が仰られた『役不足』とはどの様な意味でございましょう?」

 光秀は先程信長が口にした言葉の意味を聞いた。

「文字通りに受け取ってもらって構わん。儂はまだ尾張一国をやっとまとめたばかりだ。家督を継いで十四年もかかって。あ、上総介様も硬いな」

 信長は自嘲気味に笑った。

「父のお陰で金回りは良いが、それほど多くの兵を動かせるわけでもない。さらに言えば、かつての細川、大内や六角のように畿内に自分の勢力を抱えておるわけでもない。役不足とはそういう意味よ」

 光秀は信長の虚勢を張らない素直さが、十年前と変わっていないことに驚いた。

「正直申しまして」

 光秀は改めて居住まいを正す。

「義秋様からの幕府再興の呼びかけに、まともにお応え下さったの三郎(信長)様だけにございます」

 上総介も硬いと言われた光秀は、十年前の呼び方に戻した。

「いや、待て。上杉や武田、そのほかの大名たちも嫌とは言わんだろう?」

「もちろん、表向きは賛意を示されますが、何かと理由をつけては、今は実際に行動を起こすことは困難との返事ばかりにて」

「ふむ。それはわかる気がするな。俺も一色との状況をなんとかしなければ動けん」

 信長は腕組みして考え込む様子だが、義秋上洛に供奉ぐぶすると決めたことを悔やんでいる様子はなかった。

「さらに言えば役不足はこちらも同様でございます。我らが従う義秋様も御先代の実弟ではございますが、武家の棟梁としての能力は未知数でございます。そればかりか、我々幕臣も寄せ集めの所帯。まさに役不足の主従でございます。本気で上洛の手助けをしようとする方が多くないのも道理かと」

 光秀の言葉に嘘偽りはなさそうだと信長は思った。

「それは、俺が馬鹿正直に貧乏くじを引いたということか、、、」

 信長は少し愉快そうである。

「しかし、諸国の大名たちの畿内への関心が薄らいでいる今は、ある意味好機かと」

「どういうことだ?」

 信長は興味深そうに光秀を見る。

「細川京兆家は晴元殿が三年前(永禄六年)に亡くなられまして以前のような権勢はございません。さらに一時は細川殿を退けた三好の長慶ながよし殿もその翌年にお亡くなりに。これで義輝様の親政が進むやに思われました矢先に、長慶殿を継いだ義継よしつぐらの謀反で義輝様がお亡くなりに」

 義輝弑虐のことになると光秀の表情は曇る。

「あのような非道を許しておいては、世の中に道理も何もなくなってしまう」

 信長は改めて苦々しい思いを口にした。


「義継らは義輝様をこれまでの室町殿同様の、つまり自分らの都合の良い神輿の立場にすべく、御所巻ごしょまきに訴えたようですが」

「幕政は家臣に任せて将軍はお飾りで黙っていろ、ということか」

 御所巻とは室町幕府において、諸大名の軍勢が将軍の御所を取り囲み、幕府に対して要求を伝えたり政策への異議申し立てなどを行う行為である。永禄の変以前にも何度が記録があるが、交渉のもつれから将軍の弑虐に至ったのはこの時だけである。

「義輝様を討ち取ったものの後継の当てもないままで、いまだに室町殿(将軍)は不在で禁中をお守りする者とてありませぬ。このような状況を主上しゅじょう様(正親町帝)も憂いていらっしゃる始末にて」

「主上様もお嘆きとは、由々しき事態であるな。しかしそれが好機なのか?」

 信長の怪訝そうな表情で光秀に尋ねた。

「つまり、今の京は空き家も同然でございます。主上様も新たな京の守護者が現れることを心待ちにしておられます」

 光秀は熱く信長を見る。

「なるほど。結局のところ、役不足同士が手を組んでやるしかないということか?」

 信長は腕組みすると懐手に顎をさすった。城下の町人のような仕草である。

「左様でございます。見たところ諸国の実力者たちは、武田は言うに及ばず、北条にしても、毛利にしても、己の実力の及ぶ範囲で己の王国を築くことに夢中になっております。天下のことなど思考の埒外」

「上杉殿はどうか?」

「あの方は根っからの坂東武者。鎌倉には興味があるでしょうが」

「なるほど!確かにそうだ」

 信長は光秀を見て快活に笑った。


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