戦国の世
「悪知恵ですか、、、」
蝮とあだ名された龍興の祖父、斎藤道三に仕えていた光秀は思わず苦笑いを漏らした。悪知恵は道三の専売特許であった。
その道三を自らの手で倒し、美濃の支配権を手にしたのが龍興の父の義龍である。義龍は実権を握ると、晩年の道三がそのあまりに野心的な振る舞いで、古くからの美濃の国衆からの反感を買っていたことを踏まえて、国衆や重臣たちの意見を取り入れて内政に専念する方針を採った。また父殺しの汚名を避けるべく、自分は道三の実子ではなくかつて美濃国守護であった土岐頼芸の落胤であるかのような噂を流した。さらには先の将軍足利義輝に謁見し、御相伴衆(幕府では慣例に次ぐ重職)に任じられ、一色というかつての主君土岐家より格上の家柄の家督も授けられた。
義龍がこのように武力ではなく政治力で国内を治める、内政重視のタイプであったため、彼が美濃を支配していた四年間、尾張の信長との間では大きないざこざは無く概ね平穏であった。そしてその間の尾張国内は、信長の支配を良しとしない家中の内乱が頻発しており、信長は美濃など近隣の他国に気を配る余裕もなかったので、義龍による統治は信長にとっても好都合ではあった。
そして義龍亡き後、現在の美濃の領主はその息子である龍興となっている。この代替わりに乗じて、尾張統一を概ね終えた信長から美濃への侵攻を試みたこともあったが、それは失敗に終わっている。
ともあれ現領主の龍興は永禄九年現在で十九歳と歳は若く、父義龍と違って重臣や国衆の意見は聞かないため、領内の評判も今ひとつと言われている。二年前には重臣の一人である安藤守就と、今孔明という異名を持つ名軍師竹中(半兵衛)重治によって居城である稲葉山城を奪われるという失態を演じてもいる。しかしその後は、半年ほどかけて安藤守就と竹中重治を家臣団の中で孤立させることで、稲葉山城を自らの手に取り戻している。
家臣団を自分のもとで一致団結させて領国を経営するのではなく、家臣それぞれに個別に何やら吹き込んではそれぞれに微妙に不信感を抱かせ、結果的に家臣同士が相互監視するような雰囲気を作ることで自らの地位を保っていた。それは龍興自身が猜疑心の強い性格であることもあるが、巧みに人心を操る術を扱えるほどの知恵を龍興が持っていることの証でもある。しかし、家臣たちが互いに不信感をつのらせるような領国経営は、不安定になりがちである。先代の義龍のように安定した統治を行っている相手なら、こちらが余計な領土的野心を抱かない限りはあまり危険な存在にはならないし、なんなら同盟関係を結ぶことも不可能ではない。
ところが龍興のようなやり方だと、不満を抱えた美濃の国衆が、地理的に顔見知りである尾張の国衆を通じて、信長に内通を申し出てきたりする。そうやって頼られれば無碍に断れないのが、義理と人情を大事にする武家の世界である。自分から先にちょっかいを出して失敗したという負い目もあって、信長としても美濃一色家中のいざこざに、間接的に関わらざるを得ない状況が何年も続いている。
まぁ、これも武家の頭領である足利将軍家の権威が各地に行き渡らなくなり、それぞれの大名が自力で問題を解決しなければならなくなった、戦国特有の問題である。
「なるほど、肝に銘じまする。」
信長からこれまでの美濃との関係を聞かされた光秀は、ある程度は想定していたものの、やはり織田と一色との和議が一筋縄ではいかないことを認めざるを得なかった。
若干、難しい表情となった光秀を見て信長は務めて明るい調子で続ける。
「仲裁といっても、こちらもこちらで俺の一存で、というわけにもいかんからな。まずは一色との和議を進めるかどうか重臣どもに諮らねばならん。」
「それは承知しております」
光秀は信長の若い頃の印象とその桶狭間での伝説的な勝利から、道三風のワンマン領主となっている姿を想像していたが、実際はそうではなかったようである。
ちなみに。
のちに戦国大名・戦国武将などと呼ばれている領主たちだが、その成り立ちは千差万別である。呼び名のイメージからその武力と強権でもって、何でもかんでも自分の一存で行動すると思われているが、それは一面に過ぎない。当時の領国の実態としては、もともとその地に土着した国侍や地侍などと言われる、小さな所領を持つ言うなれば地場の親分たちの寄合所帯という形態の方が多かった。そしてその寄り合い所帯のリーダーとして室町将軍に認められたり、京から新たに派遣された守護の血筋を持つ者が治める国もあれば、斎藤道三のような成り上がり者が治める国もある。だから当然、その寄合所帯の性格もリーダーシップの取り方、組織運営のやり方次第ということになる。
組織運営という面では、狩猟や集団戦闘という形態の中でリーダーに権限が集中する組織を作ってきた西欧と違い、日本における集団や組織というものは、農業に必要な協業を営むために発展してきたという違いがある。だから合議による集団での意志決定を経た上で、その後の行動も協力して行うのが自然であった。
だから『御屋形様』などと呼ばれる大名や領主たちも、あくまで集団の代表者であって、自分たちの支えなしでは歩くこともできない神輿であると家臣たちが思っている場合も多かった。そのような自らの立場を領主・大名が忘れ、独断に走った上で失敗などしたりすれば家臣の方が領主・大名を見限ることもあった。美濃の斎藤道三が息子義龍に討たれたのも、家臣たちからの不信を買ってほぼ強制的に隠居させられたのが発端である。
一方で、その統率力や人間的魅力、軍事的才能や実績といったものがずば抜けていることや、並外れた強運を持つことで、家臣たちの信頼や結束を勝ち得た者たちがいる。そしてそうした者たちだけが、「天下に号令する」とか「大義のために」とか、仮にハッタリだとしても大層な事を唱えて隣国を従え、そして遠国にも名を知られる梟雄となり得るのだった。例えば、戦国大名の中でも両雄と名高い武田信玄にしても上杉謙信にしても、その家臣たちの支持があってこそである。
信玄の場合は武田二十四将と呼ばれる二十四人の優れた家臣団を持っていたことで有名である。これも二十四名それぞれが優れていたという面もあるが、それ以上に信玄がその二十四名をまとめて自分の統率下に置いていたという事実こそが信玄の名君と言われる所以と言えるだろう。ちょっと想像して貰えばわかるが、世に優れたと言われる人物は大抵それぞれ癖があるし、自己主張も強いものだ。それが二十四名である。家中の意思統一を図るだけで大変な作業である。信玄が中々上洛に踏み切れなかった理由も意外とその辺りにあるのかもしれない。
謙信に関しても、あくまで自身のためではなく領民や助けを求める者たちのため「義」のために、としてその軍事的な才能を発揮した。そしてその一方で、彼自身は徹底して禁欲的な神がかり的な生活を送ることで、その独特なカリスマ性を周囲にアピールし家臣団の結束を得ていた。
いずれにしても、戦国時代における強国というのは、信玄や謙信のような突出した個人的資質を持つリーダーの、その個人的な能力に多くを依存した体制であったとも言える。何事も合議で決めるという日本特有の構造と矛盾しているようにも思えるが、実態としてその合議を円滑に進め国に有益な方向性を導くにも、優秀なリーダーの存在は不可欠である。しかしリーダーの個人的資質に依存し過ぎた体制は、そのリーダーの存命中しか上手く機能しないという限界を持っているのも事実である。
では公儀とも呼ばれる武家の幕府体制となるとどうだろうか?
「ちなみに公方様は征夷大将軍になられたら、俺を管領にでもなさるおつもりか?かつての大内(義興)殿や、六角(定頼)殿のように。とすれば俺では些か役不足ではないか?京では何もかも家柄であろう?」
何気ない調子で質問を投げる信長の表情に、光秀は先程までとは少し違った不安の色を看て取った。
「ご自身のご身分のことをもうされておるとすればそれは杞憂にござりましょう。何しろ織田様は今川治部大輔(義元)殿を見事に討ち取られ、その勇名は天下に鳴り響いております」
光秀はすかさず信長を励ますように言った。
「いやいや、俺がそういうことを言っておるのではないことは十兵衛殿なら分かっておるだろう?」
信長は光秀の言葉の満更でもなさそうに笑顔で答えたが、さらに何か言いたげな様子である。光秀は信長の問いには敢えて答えず、目配せで信長に次の言葉を促した。
「これはあくまで俺の見立てだが」
信長はそのように前置きして話し始める。
「応仁、文明の大乱(1467年)以降、いやそれ以前からかな?室町殿(足利将軍)は自らの力で天下を抑えることが出来ない、ただのお飾りと見られておる。しかしこの百年近くに渡って、京兆家(細川宗家)の管領やその後の大内や六角などの実力者も、室町殿を形の上では盛り立てておった。世の中を上手く回すには武力だけでなく、室町殿の権威が必要だということであろう?現時点では」
信長の分析を聞いて、光秀はその通りであると頷いた。




