不幸な事件
「末盛城より勘十郎(信勝)様がお見えです」
「来たか」
昼間の暑さも和らぎ、夏の終わりの高い空に蜩の声が響いている。天文二十四年(1555年)の六月二十七日の夕刻であった。
「失礼仕る!」
頭脳明晰で振る舞いも折目正しいと評判の弟信勝が、苛立った大きな足音を響かせながら、鼻息も荒く清須城北櫓の信長の居室へやって来た。
「すごい剣幕だな。勘十郎らしくもない。少しは落ち着け」
父信秀の死後の混乱で兄弟関係がギクシャクしたことで、実際に顔を合わす機会も減った弟信勝を、信長が自らの居城に呼び出したのは昨日起こった事件の処理についてである。
昨日のある事件が発端となって、既に尾張国内は騒然としつつある。今川義元が尾張への侵略を画策している中で、尾張守護が年若い斯波義銀となったばかりである。そんな中で国内の余計な混乱は避けるべきだし、仮に一度起こってしまった混乱もできるだけ早急に沈静化させる必要があった。
昨日、信勝が兄の信長に無断で兵を動かしたことについては、信長としてはこの生真面目な弟を怒鳴りつけてやりたい気持ちで一杯である。だがその怒りに自分が飲み込まれないよう、敢えて弟の興奮を宥めるように呑気な声で語りかけた信長である。
しかし、弟を宥める効果はなかった。
「腹を立てぬ方がどうかしておりますぞ!兄上らしくもない!」
呑気な態度はむしろ信勝には逆効果であったようだ。そう言えば、こいつは頭が良くて真面目だが、冗談は通じないやつだったな、と信長は思い返した。信勝は目を釣り上げたまま信長の面前にドッカと腰を下ろした。勘十郎信勝は天文五年(1536年)の生まれで二歳年下、母も同じ土田御前である。
「我らの可愛い弟、喜六郎(秀孝)が討たれたのですぞ!」
「わかっておる。しかし、城下を焼き討ちにするのはやり過ぎではないか?」
信長は居室の外に目をやりながら、信勝の行いを問うた。
事件は前日、六月二十六日の昼下がりに起こった。
信長、信勝兄弟の実弟である喜六郎秀孝は、年明けの守護斯波義銀の元服に続いて、この年の三月に元服したばかりであった。兄である信勝と共に末盛城で母土田御前とともに暮らしている。
その日、秀孝は供回りの者を誰も連れず、単騎で末盛城から遠駆けをしていた。すっきりと晴れた夏空の向こう、美濃との国境の山並みには入道雲が雄々しい姿を見せている。その入道雲の姿は颯爽と馬を駆けさせる若者の漲る生命力と呼応するかのようであった。一人きりの気儘さのせいか、不用心にも秀孝は所領である末盛の北側の境、矢田川を一気に越えて守山城下に入り、そのまま守山城の北東、庄内川の河岸に近い龍泉寺のそばを通りかかった。
ちなみに龍泉寺は、弘法大師空海が熱田神宮の八剣のうち、三剣をこの龍泉寺に埋納したともいわれ、熱田神宮の奥の院ともされてきた。
おりしも、那古野城に入った信光に代わって守山城主となった、信光の弟である孫十郎 信次が、避暑もかねて若い小姓たちを引き連れて、庄内川に注ぐ松川の渡しで川漁をしているところであった。
龍泉寺方面から早駆けに近づいてくる高らかな蹄の音に気がついて、信次たちは腰を伸ばした。すると遠目にもそれなりの家格の者と見える若侍が、勢い良く馬に鞭をくれている姿が目に入る。その出立からも然るべき作法を身につけているはずと見える若侍が、その土地の城主である信次に気づきもせずに、騎乗のまま近づいてくるのはあまりに無礼であると一同は感じた。
尾張国内ではいまだに織田家中のでの小競り合いが続いてはいるが、そこは世帯の小さい家中、主家筋や重臣たちは大体が顔見知りのはずである。ところがこの時十四歳で元服したばかりの秀孝は、家中では守護へのお目見えを済ませたばかり、身内の顔と名前がまだ一致していない。それでも、前方で川漁をしている一団がそれなりの身分の者たちであることは分かりそうなものであるし、年長の者たちからすれば、若輩から下馬して挨拶するのが当然という思いもある。
「殿の面前を騎乗で通るつもりか?」
小姓の一人が呆れたように呟いた。
「若輩者め!少し懲らしめてやらねばなりませんな」
洲賀才蔵という小姓が傍の弓を手にとり、矢をつがえながら信次の顔を覗き込んだ。懲らしめてやる、という才蔵の先ほどの言葉のせいか、一同を少し悪戯めいた気分が覆っている。
「脅かしてやれは十分だ」
信次も口元に笑みを浮かべながら、才蔵を促す。それを受けて才蔵が弓を引き絞ると、近づいてくる若侍に向けて矢を放つ。「シュッ」と鋭い音がしたとたん、若侍は馬から転げ落ちた。
「当たった!」
誰かが叫んだ声には、驚きと若干の後悔が含まれている。その声に、その場にいるものも我に帰った。どこの誰かはわからないが、百姓や軽輩を無礼討ちにしたのとは訳が違う。どこの家のものかは分からないがうやむやに出来るような話ではない。一団は急に青ざめる気持ちで落馬した若侍の元へ向かった。
見ると、才蔵の放った矢はある意味見事に若侍の眉間を撃ち抜いていた。
「このお方は?、、、はっ!、、、とっ!殿!」
先に駆けつけた小姓の声で、数歩遅れて駆けつけた信次が若侍の顔を覗き込んだ。まるで白粉を塗ったような滑らかな肌に朱色の唇、目元も涼しげで人に優れて見目麗しい若武者である。
「先日、元服なされたばかりの喜六郎様じゃ」
信次は、呆気に取られたように数歩後ずさった。既に騒ぎに気づいた近在の漁師や船頭、百姓たちが数名、遠巻きに様子を伺っている。
「しまった、、、、」
信次の狼狽した態度に、撃った才蔵は顔面蒼白で呆然としている。
「しかし、守山城下を独り駆けされていた喜六郎様にも落ち度がないわけではありませぬ。事情を説明すれば」
小姓の一人が訴えるが、信次は喜六郎から視線を外すことが出来ない。
「萱津の件では兄者(信光)と三郎様(信長)に救けて頂いた。その上、守山の城を頂いたばかりだぞ。御期待に添えると誓ったばかりであるのに。とても許されるはずはない」
信次は自分の言葉で状況を理解したかのように、喜六郎から目を逸らすとガックリと肩を落とした。
その後の信次の行動は早かった。起こってしまったことは仕方がないと諦めたのか、守山城には戻らずそのまま城下から出奔した。騒ぎを聞きつけた末盛城の信勝が、手勢を引き連れて松川の渡しに駆け着けたのだが既に信次らの姿はそこにはなく、近在の地侍の手によって龍泉寺に運び込まれた弟の変わり果てた姿と対面するしかなかった。
「喜六郎、、、」
愛する弟の無惨な姿を見た信勝は、信次への怒りを募らせる。
「信次を捕らえて、ここへ連れて参れ!我が弟を射殺すなど逆賊のすることだ!俺が自ら手討ちにしてくれる!」
信勝はすっかり頭に血が昇っている。信勝と秀孝は兄の信長と同じように、織田弾正忠家の嫡流である。一方で叔父信次は、父信秀の弟で織田弾正忠家では庶流ではあるが一族でことには違いない。このような場合、一族内の生殺与奪の権限は家督である兄信長にあるのだ。
ところが信勝は、父信秀の居城であった末盛城を引き継ぎ、実母の土田御前とともに日々暮らしている。さらには家督は兄信長が継いだものの、今川義元への対応なども重臣たちが自分を中心にして評定を行っていることで、気分的は自分が弾正忠家の最上位者であるように感じている。文武両道に精進し、普段は礼儀作法などにも細心の注意を払ってきた信勝であるから、庶流の者や家臣たちへの態度も穏当なものであるが、今日ばかりは愛する弟を失ったことで、すっかり冷静さを欠いている。
「信次殿は既に出奔されて、行方は掴めません。取り敢えず、国内の諸城に使いはだしておりますが、、、」
「守山城は?」
「残された家老衆が立て籠り城門を閉ざしております」
「籠城して一戦交えようというのか!小賢しい!」
「自ら閉門蟄居という体をとっているやも知れません」
「知れたことか!権六(柴田勝家)にすぐに軍勢を率いて参るよう伝えよ!守山城を攻め落としてくれる」
突然の凶事は、守山城内にいた家老たちにとっても降って湧いたような災難に違いなかったから、守山城から籠城戦を仕掛けてくる道理はなかった。そんな道理は信勝も重々承知のはずであるが、自分より身分が下だと思っていた叔父達の不注意で弟が殺された、その無念を何らかの形で晴らしたい気分が、彼の中で道理を上回っていた。
「殿!しかしながら、まずは清須の了解を得るのが必要かと!」
流石に一時の怒りで兵を動かすのは後々問題になることは明白である。小姓の一人が必死の覚悟で信勝に言上した。その言葉で信勝も少し冷静さを取り戻したようである。
「分かった。では俺自らが兄上に談判するとしよう。しかし、まずは守山城の逆賊どもを取り逃さぬことが大事だ。権六が到着次第城下に火を放て!守山城を裸にして包囲するのだ!兄上からの了解はその後でも良い!」




