清須からの誘い
「三郎(三郎)殿!『上総介には内密に』という密書が、清須の坂井大膳から届きましたぞ」
守山城主である叔父の孫三郎信光が、愉快そうに那古野へやってきたのは、開けて天文二十四年(1555年)、初夏の風が心地よい三月も末のことであった。
信長は天文二十四年が明けると早速、自らが烏帽子親となって今は亡き斯波義統の嫡男、岩龍丸を元服させ名を斯波 義銀と改めた。さらには京の朝廷と室町幕府に使いを出し義銀を新たな尾張守(守護)とする宣下を得た。これによって信長の那古野城が守護の居城となり、清須城は尾張の主城という名目を失うとともに、織田大和守信友の守護代という立場も危ういものとなりつつある。
「内密の話をすぐに当の本人に話すのは、流石に如何なものでしょう?」
信長も叔父の無邪気な笑顔につられて返す。
「いやいや、内緒が通るなど、大膳も端から思ってはおるまい。奴なりの計算があるのだろう」
信光は、大膳からの密書という封書を懐から取り出しながら目の前に座ると、信長に差し出した。
「では、御免」
信長はすぐさま受け取ると眼を通す。
「なるほど、これは。なんと言うか大膳のオヤジは一体何を考えておるやら、、、」
織田信友と坂井大膳らは、その時の思いつきで守護斯波義統を謀殺したものの、尾張国内の支持は得られず孤立した上、信長の派遣した柴田勝家との合戦にも敗れ窮地に陥っている。その坂井大膳から、信長の一番の支援者である信光への内密の誘いである。
「儂に清須城に入って、彦五郎(信友)殿と一緒に守護代になって欲しいと。なんと恥知らずな」
信光は密書に目を通し終えた信長に、心底呆れたという苦笑いを向ける。大膳の自らの立場を弁えない申し出に、信長も呆れた表情を浮かべた。
「私と叔父上との仲を裂いて、我らの勢力を削ごうというのはわかりますが、あまりにも自分勝手で、、、自分のしたことがわかっておるのでしょうか?」
そもそも守護代とは名ばかりで、それに見合った実力も胆力もない信友と、信秀のもとで硬軟とり混ぜて実務をこなしてきた信光が並び立つとは思えない。大膳は信光のことも信友のようにうまく操れるとでも思っているのだろうが。
なにしろ大膳からの密書は、起請文(神仏に誓いを立てる誓約書)を書いて貰えれば、喜んで清須城にお迎えする、とどちらが頼んでいるのか分からないような言葉で結ばれている。あまりに能天気な内容に信長は思わず笑ってしまった。
もし仮に、信光自身に信長の上に立とうという考えがあれば、誘いに乗る目もあるかもしれないが、、、そこまで考えたところで、信長はこれまで腹にしまって置いた疑問を叔父にぶつけてみたくなった。
「叔父上は、父の後を継いで尾張を手中に収めようと思われたことはないのですか?大膳がこのような申し出をしてくるぐらいですから、少なくとも今の私よりは上手く国内をまとめることが出来るように思われますが」
信長のあまりに正直な質問に、信光は一瞬呆気に取られてような顔をすると、腕組みをしながら顎ひげをしごいた。
「どう言ったモノかなぁ、、、」
どのように説明すべきが暫く考えている様子を、信長はじっと見つめて次の言葉を待つ。
「人の上に立つ者に必要なものが、自分には無いように思うのだよ」
「そんなことはないでしょう」
「いや、上手く説明できるか分からんが、我慢して最後までお聞きを」
叔父に制されて信長は口を閉じた。
「まず第一に人の上に立つことに皆が納得する正当性。一番わかりやすいのが血筋かな。とにかく付き従うものが、この人ならと納得出来るか否かが最も大事」
「はあ。たしかに公方様も斯波様もそうですね」
「これは兄上が存命中から三郎殿を後継とされていたことからも、揺らぐものであってはならん、少なくとも儂の中ではそう決まっておるんだな」
「それはありがたく思っております」
信長にとってはこの叔父が無条件に自分の味方になってくれていることが、心底ありがたかった。
「次に本人のやる気も含めた実力でしょうな。特に我ら弾正忠家のように兄上までの先代が築いた勢力を、これからもきちんと守っていくには何より本人のやる気が大事かと」
信光が真面目な顔で信長を見つめる。
「そのような条件であれば、父の弟であり実力もある叔父上に納得しないものはおらんでしょう?」
信長も真面目な顔で信光に返す。
「先日、舅殿のところで面白い男と話をしまして。その者は、国が大きくなるのも滅びるのも領主の器量次第、と申します。私もその通りと思います。そして、私にはまだ自分の器量を見極めるに時間が足りません。私は叔父上の後でも構わぬとも思っておるぐらいで」
現在の自分よりも叔父の信光の方が器量で優っているというのは、信長の正直な気持ちである。
「そうなると今度は儂の倅と三郎殿が跡目争いせねばならなくなりますぞ。いやいや、そういうことではない。一番大事なことを申し上げねば」
そう言うと信光は少し居住まいを正した。
「私自身にその気持ちがないのです」
信光は居住まいと共に言葉遣いも正して、すっきりと言い切るとニコリと笑う。
「兄上の苦労を見てきたというのもありますが、私はあのように自分自身の全てを、領国経営のために使い切るということが出来る気がしません。いや、する気がありませんと言った方が正しいかな。ちょいと気楽な立場でいたいのです。そしてその方が役に立つ人間であると自分でわかっておるのです」
「はぁ」
信長は分かったような分からないような、煙に巻かれたような気分である。
「私だって、そのような自信はありません。家督を継いでからのゴタゴタも私の器量が足りていない証拠です」
「誰だって自信はありませんよ。ただ自信がないのとやる気や器量が足りないのは大きく違いまする。三郎殿にはやる気も御器量も十分に備わっていると私は見ております。この二年間の苦労を乗り切っていらっしゃるのが何よりの証拠。ですから私も老骨に鞭打ってお仕えしようと決めております。ただ、周りはまだ三郎殿の器量を計りかねているところはあるでしょうが」
この叔父の存在は自分にとって何よりの宝だと信長は改め思った。
「そのように言って頂けて、有難き幸せに存じます」
信長の言葉に、信光は満足そうに頷いた。
「ところで如何いたしましょうか?この際誘いに乗って清須に乗り込むのも一興かと思いますが」
信光の提案に信長は顔を引き締める。
「乗り込んだ後で如何なさいます?」
「隙を見て信友と大膳を殺ってしまいましょう。あのような馬鹿者どもにこれ以上関わりあうのは、なんの意味もござらん。いなくなったところで尾張にとってなんの損失もありませんし」
「起請文を出せ、とありますが?」
多くの不都合な事象や不幸は、神仏への信心を欠いた結果、天道に背いた結果であると信じられていたこの当時の人間にとって、神仏に誓いを立てるということは、その誓いに背いた場合には、命を失うことも覚悟するという意味であった。
だから起請文に誓った内容に違えることはもちろん、初めから守るつもりのない約束に起請文を書くことなどは、神仏をも恐れぬ行為であり必ずその報いを受けると考えられていた。
「三郎殿は、そういうこと気にする方ですか?」
信光は至極真面目な表情で信長の顔を見た。
「まぁ、人並みには」
「父親の位牌に抹香投げつけたくせに?」
信光が悪戯っぽい笑顔を向けてきて、信長もつられて笑う。
信長は人間が本来なすべき努力を放棄して、何かと言えば『神仏』という言葉に頼るのは嫌いであった。一方で人間がいくら努力しても報われるとは限らない、その運命であるとか、神仏の差配というようなものは、確かにあると感じていた。
だから正直に言えば、端から守るつもりのない起請文を書くという行為には抵抗感があった。
「私ももういい歳ですから。今更神仏を恐れて行いを改めても大した違いはありますまい」
信光は信長の複雑そうな表情を眺めてニヤニヤしている。




