明智十兵衛光秀
「なんだ。知っておるのか。新五郎、おぬしが姉に告げ口したか?」
先程までの優しげな目つきから打って変わって、道三の厳しい視線が新五郎に向けられる。
「いえ、まさかそのようなことは!」
新五郎は慌てて否定する。
「分かっておるわ」
道三は拗ねた子供のように顔を背けると、吐き捨てるように言った。
「ようやく美濃全体を我が物にして、次は三河か?はたまた尾張か?と考えておったのだがな。あの連中、途端に領国経営だの、民の安寧だの、急に小さくまとまったようなことを言い出しおって。田舎者どもが!」
出自が明らかでないような生い立ちの道三、他人を田舎者呼ばわりできるような身分ではないのだが、やはり無理矢理に隠居させられたことをかなり恨みに思っているようだ。
「何のために大事な帰蝶を『うつけ』の嫁にやったと思っておるのだ!」
目の前に当の『うつけ』がいることを気にかける様子もない。
「父上、そういうところですよ」
帰蝶がため息混じりにたしなめる。
「舅殿、私は席を外した方がよろしいかな?」
信長は親娘の様子を見ながら笑いを堪えていたが、さすがに頃合いとみて口を挟んだ。
「おう、これは失礼した。夕餉の宴会の支度をさせねばならんな。それまで奥で休まれよ」
道三は気を取り直したように、客人を迎える態度に戻った。
「父上、私は久しぶりに鷺山の城下を見て廻りたいと思います。殿を案内したいですし」
「左様か、では共をつけよう。十兵衛!」
道三が大きな声で呼んだ。
「お呼びで御座いますか?」
すかさず広間の襖の向こうから声がした。道三親娘の面会の初めから隣で控えていたようである。
「おう、入れ。婿殿、最近の儂のお気に入りの知恵袋じゃ」
「明智十兵衛に御座りまする」
道三に促されて広間に入って来た明智十兵衛光秀はこの時二十七歳。享禄元年(1528年)の生まれと伝わる。信長はまず、目の前に平伏した光秀の、いかにも知恵者らしい広い額に強い印象を受けた。
「十兵衛、婿殿たちを案内してやれ。どうせ隠居の城下だ、包み隠さずどこでも見せてやったら良い」
やはり、どこまでも隠居にこだわる道三である。そのせいで広間には時折ピリッとした空気が漂う。
「よろしく頼みます」
信長が光秀に向かって気さくに声をかける。
「勿体なきお言葉と存じます。懸命に努めさせて頂きます」
光秀はかなり大袈裟に慇懃な口調で答えると、双眸を上げて信長の顔を見た。するとその視線には、慇懃な口調とは不釣り合いに、目の前の人物を見定めようとするかのような、いささか不躾な雰囲気を信長は感じとった。
こういう油断のならない雰囲気は、なるほど道三がいかにも好みそうなものだが、信長自身もこの明智十兵衛光秀という男に興味が湧いて来た。
「十兵衛殿は相変わらず、お堅いことですこと」
信長と光秀の間に生じた、微かな緊張感を察したように、帰蝶が割って入った。
「お久しぶりですね、十兵衛殿。殿、十兵衛殿と私は幼い時から顔見知りですのよ」
その言葉を受けて信長が帰蝶の方に顔を向けた間にも、光秀の視線が自分に向けられていることを信長は感じている。
「左様か、それは道案内には好都合。新五郎殿も御同行されてはいかがか?姉上と積もる話もあるでしょう」
信長は意識的に表情を緩めてから、光秀に顔を向けて会釈した。しかし光秀は今度は信長と視線を合わせぬように、さっと目を伏せながら頭を下げる。それで、信長は光秀の表情を読み取ることは出来なかった。
しかし、この男が初対面の自分に対してどのような印象を持ったのか、それが妙に気になる信長であった。
「舅殿のような方のもとで働くのはやり甲斐があるでしょうな?」
光秀の案内で鷺山城下を一通り見て回った後、信長の一行は城下を見下ろす小高い丘に、小じんまりと張り巡らせた陣幕の中で休息を取った。
「お陰様で気が休まる隙がございません」
城下を見て回る間に少しずつ気を許したようで、光秀は控えめな笑みを浮かべて答えた。
「なるほど!確かに。老いてなお意気軒昂。我が尾張を乗っ取る話なども、とてもその場の冗談とは思えん話ぶりでしたな。いや、おそらくは冗談ではないのか。実際にやるかやらんかは別にして、舅殿の頭の中では既に何度も尾張を攻め陥しているのかも知れんな」
信長も光秀に笑顔を返す。
「大殿は美濃を手に入れたぐらいで満足するようなお方ではありませぬ。自分の力でもっと多くの国を斬り従えられると本気で思っておられます。私はその大殿の大きな夢に魅入られているのかも知れませね」
光秀は鷺山の城下からさらに遠くへ視線を走らせながら半ば独り言のように話した。
「そのような夢物語を捨てきれないから、多くのご家来衆に見限られるのですよ」
帰蝶が呆れたように、父に向かって言ったことを同じ言葉を繰り返した。
「今の御屋形様(義龍)や、重臣の皆様が領国の安寧と言いながら、自分たちそれぞれの所領の経営をまず第一にお考えになるのは良く分かります。しかし、この乱世ではいくら領国内の経営がうまくできていても、力を蓄えた隣国が攻め込んで来たらすぐにそれが脅かされることになります。織田様はそれを良くご存じのはず」
光秀は現在の尾張と信長の状況も良く分かっている。信長は目顔で話の続きを促した。
「領主に器量があれば、それに応じて己の領国を大きく出来るのが、この戦国の世というものでございましょう。強い国が隣国を従え、より広い地域、少なくとも海や山で遮られていない範囲を治めて行くことが不可欠。美濃を一代で我が物とされた大殿の力を持ってすれば、少なくとも濃尾平野全体を治めることが出来ると思っておりましたが、隠居させられるとは口惜しい限りです」
光秀は美濃国内の安定のために、重臣や領内の国衆の懐柔を重視する義龍のやり方には不満があるようだった。その様子を見て信長も口を開く。
「今までの領分を踏み越えて、自分の器量に応じて国を大きくする。そのためには、隣国の隙をついて攻め込み我が物にする。理屈としてはその通りでしょうな。それは夢のある話だが、それをやるためにもまず、家臣や国衆を結束させ領国内の安定を図ることが不可欠ですぞ。俺も今、それで頭を悩ませている最中ですからな」
家督を継いですぐに今川義元からの介入を受け、今日また舅からは、尾張を乗っ取るような嘘とも本気ともつかな話を聞かされた信長には、自分の置かれた立場を省みるにつけ、光秀の話は古の英雄譚のような絵空事に聞こえなくもない。
「もちろん、御自身の領国内をまとめるのは大前提に御座いましょう。いや、忌憚なく申し上げれば、自国をまとめることのできないような領主にはご退場頂くのが、家臣たちや領民たちにとっても幸せなことと存じます。全ては領主の器量次第にございます」
「これは手厳しいな。しかし、十兵衛殿言う通りかもしれんな。既に今川や武田、それに上杉などはそれぞれの勢力を広げておるようだからな」
まだ尾張一国の混乱も収束できていない信長を目の前にして、実力のない者は去れという光秀の言い分は、他国の家臣とはいえあまりに無礼ではあるが、信長は不思議と嫌な気分はしなかった。




