帰還
「今川勢から降参するとの申し入れが来ております」
織田信光や柴田勝家が兵たちを叱咤して休みなく攻めた立てた甲斐もあって、多くの死傷者を出して少数となった今川勢は、既に砦内の館に立て籠って細々と抵抗を続ける状態となっていた。
辺りは陽も傾き既に薄暗い。旧暦の一月末は現在の三月の初めに当たる頃である。陽が傾けば空気も急に冷え込んでくる。そんな中で多くの死傷者を出しているのは織田勢も同様であった。特に先陣をきって砦内に攻め込んでいた信長側近の小姓たちの損害は大きかった。今川勢が館に逃げ込んだことで前線の混戦が落ち着き、双方が睨み合いの状況になった頃から、信長の元には誰それが討ち死にという報告が、矢継ぎ早に届けられるようになっている。そしてその度に信長は歯噛みする思いでその報告を聞いていた。
「降参など笑止!ここは一兵残らず攻め滅ぼすべきでしょう。討ち死にした者たちにも示しが付きませぬ。いっそのこと館に火を放っては?寒さも多少和らぐやも知れません」
勝家が信長に進言する。最後の寒さも和らぐというところでは勝家はニヤリを笑った。戦さ場に慣れて肝の据わった勝家なりの冗談らしいが、信長は全く笑えなかった。
「今川 治部大輔(義元)に、我らの恐ろしさを示しておけば、次からはこのようなちょっかいにも慎重になるでしょう。出羽介(勝家)殿の申す通り、拙者も館に火をかけるが重畳かと」
生真面目な性分の佐久間大学助盛重が、勝家とは違って今度はニコリともせず同じことを述べた。確かに自分が可愛がってきた小姓衆が幾人も死傷したという悔しさはある。しかし陽が翳って肌寒くなってきた所為なのか、信長には今川勢に対する憎しみよりも、戦さで仲間を失ったことの虚しさの方が募ってきたように思える。どうも、二人の重臣が勧めるような果断な措置を躊躇う気持ちがある。
「叔父上はどのように思われます?」
信長は助けを求めるように信光の顔色を伺う。
「殿のなさりたいようにされるが宜かろうと存じます」
信長の問いに対して信光は助け舟は出さない。あくまで自分で判断なさいという表情で、信長の目を強く見つめるのみである。
信長は信光から視線を逸らすと、しばらく敵が立て籠もる館を見つめた。
「では」
意を決したように信長が口を開いた。
「降伏を受け入れることと致しましょう。後の始末は水野殿にお任せする」
「畏まりました。しかと」
水野信元は軽く驚いたように一瞬目を丸くしたが、信長の決定に不服はなさそうである。その表情には安堵の色が浮かんでいるようだ。
実は村木砦に立てこもっているのは、三河から侵入してきた今川勢だけではない。もとは水野に与する立場でありながら、今川からの調略に応じて寝返った緒川周辺の国衆も相当数含まれている。今後の見せしめとして全滅させるのも一つの手ではあるが、水野の配下にはその寝返った国衆の縁者や、旧知の者達も多く含まれているのだ。その者達にこれ以上余計な不満や恨みを植え付ける必要もない、と信元も考えている。
もちろん配下のものたちのそのような想いには忖度せず、きっちりとけじめを付けるというのも間違いではない。むしろこの戦国の世では、裏切った者達やその身近にいた彼らが、二度とそのような気を起こさぬように、恐怖を覚えるほどの絶対的な力を示すことが得策かも知れなかった。しかし信元には自分の目の前にいるこの歳若い主君が、自分で悩んだ上で重臣たちの意見を退けたことが、何か好ましいことのように思えた。
「確かに、これ以上は撫で斬りにしても意味はないかも知れませんな」
信長の決定とそれを受けた信元の表情を見比べた上で、信光が笑顔を浮かべた。そして勝家と盛重に頷いて見せる。
「殿の御決断とあらば、我らに否も応もございません」
少し不服そうな表情の勝家を制して盛重が答えた。
「しかし、殿!流石に今川の連中を許す訳にはいかんのでは?」
勝家が食い下がる。
「それも水野殿にお任せできまいか?三河国境の事情については水野殿が詳しい。今川の連中を活かすも殺すもお任せしたいのだが?」
信長は勝家には目を向けずに信元の顔を覗きこむ。
「謹んで承りましょう。どうか御安心くだされ」
信元は胸を張って請け負うと、カチンと刀の鍔を鳴らした。
「さて、それでは我らも引き上げるとしよう!」
信光が明るく言うのを合図に信長たちは帰り支度に取り掛かった。
翌一月二十五日、信長らは知多半島を横断し、伊勢湾に面した寺本城を取り囲んだ。城主の花井氏が既に今川に通じていることが、村木砦に残った今川家家臣の証言で明らかになったからである。城下に火を放ち、降伏を迫ると花井氏は城を明け渡して落ち延びていった。
さらに翌二十六日、那古野へ戻った信長は、留守居役を引き受けた安藤守就の陣所を訪れた。二十一日朝に那古野を出陣してわずか五日、あまりに早い帰還に守就は目を丸くして信長を迎える。
「既に村木砦は陥されたと聞いておりましたが、あまりの早業に我が耳を疑っておりましたが、まことでしたか!流石は上総介様ですな」
守就が驚いていることは決してお世辞ではないようである。
「この度は美濃から遠路お運び頂き、衷心より御礼申し上げます。稲葉山の舅殿にもよろしくお伝えください」
信長は守就に対して最大限の謝辞を述べる。
「いかにしてこのような早業で敵を退けたのか、我が殿も根掘り葉掘り聞きたがるでしょう。是非詳しくお伺いしたい」
守就に問われるままに、信長は強風の中伊勢湾を渡ったことや、村木砦を攻め落とした様子などを話した。守就は身を乗り出すようにして信長の話に聞き入った。
「ほう、そうか、なかなかやりおるな!」
信長から預かった土産の品々と共に稲葉山に戻った守就の話は、守就の軍勢のための兵糧が、那古野に既に用意されていたところから始まった。道三は信長の気配りにまず愉快そうに笑う。
「この春先の強風の中を?船でか?」
守就が自分で見てきたように話す渡海の様子まで話が進むと、道三は思案顔で腕を組む。
「砦を半日で陥したのか!大したものだな、、、」
道三は明らかに不機嫌そうになる。その様子を見て、守就は付け足すように信長が重臣たちの進言を退けて、村木砦に立て籠もる今川勢を赦免した顛末を話した。
「甘いな!婿殿は甘いわ!」
道三が嬉しそうに大きな声を出す。彼が他人の弱点の話を好むことは、家中で知らぬ者はいない。
「仰る通りですな。上総介殿はどうも戦さ働きが得意ではないように思えます」
「そうだな。戦さ場で余計な情けは命取りになる。そのことがわからんようでは婿殿もまだまだ、、、」
そこまで言いかけて、道三の顔色がまた曇った。
「しかし、それ以外の手並みはなかなかのものだぞ。『うつけ』との評判であったから、上手く手懐けて尾張もいつか我が物に、と考えておったが。油断ならんな」
そう言うと土産の品々の中身も確かめず、道三は自室に戻ってしまった。




