諌め腹
天文二十二年(1553年)
「平手政秀殿がご自害されました!」
岩室長門守からの報告に、信長は呆気に取られて言葉が出なかった。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、傅役として長く信長に仕えてきた平手政秀が、六十二歳で突如として自刃した。信秀が急死したのが前年の三月で、すでに一年近くが経っているから殉死でないことは明らかである。
信秀の急死で家督を継いだ信長が、政秀の長男であり自分の近習でもある五郎右衛門の愛馬を所望したことで、主従の信頼関係がこじれ五郎右衛門が出奔したこと。そしてその事件に気を病んだと思われる政秀が、屋敷にこもって出仕して来なくなったことは既に述べた。
信長も五郎右衛門に愛馬を譲るようせがんだことは、子供じみた自分の失敗だと思い直し、その謝罪も含めて政秀に幾度か書状を送ったりもしたが、政秀からの返事はなかった。暇を見て屋敷を訪ね、誤解があるなら解いておかねばとも思っていたが、この間、赤塚での合戦や清須との争いなどもあり、政秀のことは後回しになっていた。何より、自分の浅慮とわがままに端を発した面倒事だけに、何となく政秀に向き合うのが億劫という思いもあった。
しかし、いくら若い頃から家中でも謹厳と評判であった政秀だとしても、まさか諌め腹を切るほど思い詰めているとは、信長は全く想像もしていなかった。だから余計に突然の政秀自害の報は大いに信長を驚かせたし、自分の不明を恥じる気持ちも大きかった。
「だから、うつけの真似をするのはいい加減おやめなさいと申したでしょう」
帰蝶に言われたのは、政秀の葬儀を終えて那古野城の居室に戻り、一息ついた時であった。
信長には返す言葉もない。政秀は自刃に際して何の言伝や書き置きも残していない。武士として潔いと言えばそれまでだが、自刃の理由が明らかにならない以上、口さがない連中の格好の噂のタネとなっている。そしてその噂はどうしても、信長の『大うつけ』と言われる言動を傅役として諌めたに違いない、という方向に収斂する。
そうなると家中の噂話は一気に飛躍して、傅役に見限られるような信長が家督の重責を担えるのか?弟の信勝の方が利口だぞ、といった方向になっていく。そしてその状況は信長にも容易に想像できた。信長としてはそのような噂話を一々気にするつもりはなかったが、政秀の真意が判らないだけに、流石に身の置き所がないような気分であった。
「皆が噂するように、帰蝶も爺が諫め腹を切ったと申すか?」
しばらく考えて信長は帰蝶の意見を求めた。父信秀と何かと小競り合いを起こしていた斎藤道三、美濃の蝮という異名を持つ難敵との同盟、そしてそれを担保する帰蝶との婚礼は、政秀がまとめたようなものである。
その斎藤道三への手前、信長の『大うつけ』との評判が内外に広がるのを政秀が不快に思っていたことは間違いないだろうが、そのことを信長に直接非難したり諭したことは一度もない政秀であった。それがいきなり腹を切るというのは合点がいかない。
「それだけではないでしょうけど。ただ政秀殿はゆくゆくは五郎右衛門を殿様の側近に、とは思っていたでしょうね。それがあんなくだらないことになって」
帰蝶は相変わらず信長が気にしているところを遠慮なく突いてくる。
「おぬしは相変わらず切れ味抜群だな」
美濃の蝮の娘には敵わない、と信長は改めて思った。
「でも、五郎右衛門は殿様の側近には向いていなかったと思いますよ。頭の良い人ではありましたけど面白味はありませんでしたから」
「そうハッキリ申すな。堅物だがそれだけに実直な男だぞ。今はどこにおるか知れんが」
帰蝶に言われて、五郎右衛門の件に関してはほんの少しだが肩の荷が下りる気がした。しかし、嫡男が出奔して当主が自刃した平手の家については配慮してやらねばならない。何しろ、信長が蒔いたタネであることは自他ともに認めるところである。
「堅物と言えば、五郎右衛門の弟は監物であったな。あれは名に似合わず小慣れた男だから、平手の家も上手く切り回すであろう。ただ近習として俺の近くに勤めるのは流石に気が重いだろうな。所領の差配に励むように伝えよう」
帰蝶は信長の意向に賛成するように頷いた。
「しかし、何も腹なんぞ切らんでも良いではないか」
信長は改めて寂しげに呟いた。
その年の四月下旬、舅の斎藤道三から信長と「対面したい」との申し入れがあった。ついては道三自ら尾張上四郡に属する中島郡の富田(現在の愛知県一宮市)にある聖徳寺まで出向くので、そこまで信長にも「お出で願いたい」とのことであった。聖徳寺は木曽川のほとりにある古刹である。
道三の居城である稲葉山からは、国境を越えて織田伊勢守家の勢力圏である葉栗郡を通って木曽川沿いを南下してくることになる。仮にも美濃の国主である道三が、自ら尾張国へ出向いて来るというのであるから、それなりの供を引き連れての行列となるわけで、事情を知らない者から見れば美濃からの軍事侵攻と違わない。
だから本来は道三の一存で決められるような話ではなく、事前に織田伊勢守信安や所領を通過される土地の国衆の許可を得る必要がある。しかし、この当時は岩倉城を本拠としている伊勢守信安の勢力は弱まっていた。さらには信長と帰蝶との婚礼以降、道三は信長の舅という立場の気安さからか、または尾張と美濃の勢力均衡に努力していた信秀がいなくなった機に乗じてか、稲葉山のある井口城下にほど近い葉栗郡へしばしば訪れ、あたかも自分の所領であるかのように振る舞っていた。
そのような道三の我が物顔な行為を、伊勢守信安は苦々しく思っていたが、戦国の梟雄と言われた斎藤道三に対して伊勢守家だけでは到底対抗できない。そして自分の所領で身勝手な振る舞いをされる悔しさから、『さては、そもそもその婚姻で尾張上四郡に道三を引き込んでいるのは、弾正忠家の悪巧みではないか?』と信長に対するお門違いな猜疑心を募らせている信安であった。
この時の舅斎藤道三と婿織田信長との会見は、『大うつけ』と周りから侮られていた信長が、会見において見違えるような堂々たる振る舞いを見せたことで、舅の道三だけでなく、そこに居並ぶ美濃の重臣たちや尾張の家臣たちからも大いに見直された、さらには、信長がお供の足軽衆に持たせた長槍を見た道三が、機嫌を大いに損ねたという逸話などが残っている。いずれものちに戦国の英雄となる信長の姿を彷彿とさせるエピソードである。
ただ実際のところは、道三が七百から八百の供を連れて稲葉山を出立したと聞いて、自分も会見に臨む礼儀として同様の供を率いただけのことで、長槍は既に信長配下では標準装備であった。つまり取り立てて舅の道三を驚かせよう、という意図があったわけではない。
また、聖徳寺に向かう途中の信長の行列を、道三が町外れの小屋に隠れて見た時は、まさに『大うつけ』の評判通りの茶筅髷に湯帷子、腰にジャラジャラと瓢箪などぶら下げた姿であったのが、会見の場に現れた時は見違えるようにきちんとした身支度で颯爽とした姿であったことも話題となった。これも信長にしてみれば、信安の所領とはいえ自国の領内での道中は、肩の凝らない普段着で過ごし、会見の場では舅殿に配慮して居住いを正しただけのことであった。
実はこの日の会見まで、美濃の斎藤道三の周りには、尾張国内以上に信長の資質を疑問視する声が大きかったのである。というか『大うつけ』つまり大馬鹿者と評判の男を、道三がわざわざ婿にした事に対して、無意味どころか愚策ではないかと批判である。隣国の当主が本当に馬鹿者であれば、将来的に攻略する上で好都合というような一般論は、この場合は当てはまらない。なぜならこれまでも述べたように、信長は家系だけで尾張の支配者となる立場ではない。つまり信長より上位の家系、織田大和守家や伊勢守家により実力のある者が出てくれば、あっさりと淘汰される立場である。そうなれば、斎藤道三にとって今回の婚礼は何の利益にもならない。
実際、婚礼に至るまでに弾正忠家の家老である平手政秀が、何度も稲葉山へ足を運び、信長が決して『大うつけ』などではないこと、婚礼によって美濃と尾張双方に大きな利益となることをあれやこれやと口説きまくったのである。そしてその政秀の熱意に心を動かされたからこそ、道三も婚礼を承認したのである。
しかし、その後も相変わらず信長の『大うつけ』エピソードが国境を越えて耳に入って来ていた。さらには、この年早々に婚礼の仕掛け人である平手政秀本人が、信長に対する抗議の諌め腹を切ったという知らせである。やはり信長はただの『大うつけ』に違いない、という意見が大勢を占めつつある中で、では実際に本人を呼び出して確かめよう、としなければ道三としても家中に示しがつかない状況であった。
よって、この日の会見に対して色々と先入観を持って臨んでいたのは、道三や美濃の重臣たちの方であった。その信長とはどういう人間なのか見極めてやろうという気負いが、これと言って作為のない信長の振る舞いを、より何かしら意味のあるものと見せていた嫌いは否定できない。




