内乱の始まり
「孫三郎(信光)様の軍勢です」
常に信長の側近くに仕える小姓、岩室長門守が馬を寄せて報告する。
天文二十一年(1552年)八月十六日の払暁、信長は手勢を率いて那古野城を出立すると真西に向かい、庄内川の手前、稲庭地(現在の名古屋市中村区稲葉地)に陣を敷いた。しばらくすると、手はず通り守山城から出立した叔父信光の軍勢も、こちらへ向かって来るのが見えた。
庄内川は濃尾平野の中心、現在の名古屋市と清須市の両市を南北に別けるように流れている。
清須城は信長の居城である那古野城から見て、北西に進んで庄内川を渡った先に位置し、その距離は約六十五町(7㎞余り)である。一方、松葉と深田の両城は那古野城から庄内川を渡って、さらに真西に進んだ所に並んでおり、那古野城からの距離は約八十五町(9㎞余り)である。信長と信光が陣を構えた庄内川沿いの稲庭地からだと、清須城は真北へ約五十町(5㎞余り)、松葉と深田の両城は真西に約三十町(3㎞余り)となる。
「さて、いかがなさりますか?」
信光はまず信長の心づもりを問うた。自分の方が戦さ場の経験はあるが、あくまで臣下として控えめの態度をとっている。しかし、その表情からは信光自身の腹案があることが見てとれた。
「敵の主力は清須城、しかし松葉と深谷もそれぞれ兵を入れておるから、我々は挟み撃ちに遭うことは避けねばなりませんな」
信長が答えた。
「左様ですな」
信光が短く応える。
「叔父上の手勢と合わせて我らは約千二百。中条(左近将監家忠)と柴田(権六勝家)も参陣しておりますから、二人に軍勢を預けて二手に分けて戦うことも出来ます。我が主力と叔父上の手勢を合わせた千ほどで清須方面に向かい、出てきた敵を迎え討つ。残り二百ほどの部隊を中条と柴田に率いさせて、松葉と深田への抑えにすべきかと」
信長は考えは敵方の本拠地である清須を攻撃の主目標とし、主力を差し向けるというものである。
「なるほど。清須の兵力はいかほどと聞いておられる?」
「千を少々超えるかと」
信光の質問に中条が答えた。信長が頷く。
「城におる千の兵力に千で向かっても相手は出て来んでしょうな」
信光は顎髭を撫でながら難色を示した。
「清須から敵が出て来なければ、千ほどの兵力では清須を陥すことも囲むことも出来ませねな。また、残りの二百で松葉と深田を取るのも、ちと、骨が折れまするなぁ」
「なるほど」
「そもそも今日の目的は、松葉と深田の奪還と囚われた二人の救出でございましょう」
信光は信長の顔を覗き込みながら微笑んだ。
確かに信長は単純に清須勢が攻めかかってくるものと考えていた。それは前回の赤塚での敵方の印象が強かったせいもある。
「ここは一旦、三手に分かれるのは如何でしょう。数の上では等分、ただしあくまで主力は清須方面で、中条殿と柴田殿に率いてもらう。こちらの人数が少ないと見れば、清須勢も出てくるかもしれません。そうなればやはり主戦場は清須方面になります」
信光は噛んで含めるように説明する。
「流石は孫三郎様!清須の敵を誘い出すというわけですな。となれば、松葉と深田へ向かう部隊は、清須勢が出てきたならば、、すぐに後詰めに入れるよう準備せねばなりませんな」
隣で聞いていた勝家が口を挟んだ。自分が主力に加わると聞いて、俄然やる気を発揮しているのだが、総大将である信長を無視しているような態度である。
その態度に信光はやれやれといった表情を浮かべる。信長はまだ信光の進言を採用したわけではないのだ。
「まずは、上総介殿(信長)のご意向を伺うべきであろう」
信光の言葉に、勝家はかしこまる。
「失礼を仕りました」
「良いわ。叔父上の仰る通りだ。しかし流石に等分では主力が心許ない。清須方面に六百、松葉と深田方面に三百ずつでは如何ですか?」
「仰せのままに」
信光が改めて信長に慇懃な態度を示すと、勝家もそれに従った。
稲庭地を出発した信長勢約千二百が庄内川を渡ると、松葉と深田の両城へはすぐである。信長らが率いる本体六百はそこから清須城のある北へ向かう。残りの六百は松葉城への入り口となる真島(現在の海部郡大治町馬島)と深田城への入り口である三本木口(同じく海部郡大治町三本木)に三百ずつが陣取った。
信長と信光が稲庭地の陣で合流した頃、清須城でもこの動きをすでに察知し出陣の準備が進められている。
「弾正忠信秀の跡継、三郎信長と申したか?奴は本当に『大うつけ』なのか?先日の赤塚の戦さではなかなか勇猛であったと聞いておるぞ」
清須城主で守護代の織田彦五郎信友を面前に、苛立った調子でに問い質しているのが、尾張守護 斯波義統でこの年三十九歳である。そもそも斯波氏は尾張だけでなく遠江も治める名門御家人である。斯波氏宗家の当主は代々左兵衛督もしくは左兵衛佐に任ぜられるのが習わしで、斯波家はそのため兵衛府の唐名である武衛家と称され、今の当主である義統も形式上は『武衛』と尊称で呼ばれている。
義統の父斯波義達は、既に守護代たちに奪われつつあった守護としての実権を取り戻すべく、果敢にも『海道一の弓取り』と称された今川義元に挑んでいった。しかし結局は大敗を喫し、その後も義元の勢いに押され、足利将軍から与えられていた遠江の支配権をも奪われてしまった。
そしてその敗戦で求心力を失った義達は、守護代以下の重臣たちによって隠居させられ、後継としてたった三歳であった義統が、名実ともにただの『お飾り』として尾張守護となった。これで斯波氏の尾張守護としての実権は完全に失われたのである。この守護交代劇を主導したのが尾張の下四郡を支配する守護代、織田大和守 逹勝であり、義統は当然のように大和守家の庇護下に置かれ、清須城にて籠の鳥として暮らすことになった。
大和守逹勝は守護義統をその手中に治めることで、尾張国内における自らの支配力を強めたはずであったが、上四郡を支配する伊勢守家が黙ってはいない。伊勢守家と大和守家が互いに反目し合い、国内情勢が不安定化する中で、伊勢湾という交易の要衝をその手中に収めようとする駿河の今川義元、そして美濃の斎藤利政が何かと尾張に牽制を仕掛けてくる。そのような内政と外交の混乱の中で、大和守家の家老である弾正忠信秀が、伊勢守家とのバランスにも配慮しながら、実質的に尾張国内全体を経営するようになっていったことは既に述べた通りである。
そしてその間に大和守家も代替わりして、現在の当主が守護代彦五郎信友である。彼は父逹勝のような野心もなく、清須城内の差配はおろか所領の経営までも家宰である坂井大膳に任せきりにしている。名家の後継としての品格は備えているが、政治やそれに必要な権力については興味がなかった。
守護代信友のそのような態度を身近に見て、常に心許なく感じていた守護義統はいつしか弾正忠信秀を頼りにするようになる。この義統からの信頼も信秀が尾張一国を掌握するまでになった要因の一つである。
「武衛、ご心配には及びません」
守護代信友を差し置いて坂井大膳が口を開いた。
「赤塚で敢闘したと言われておりますが、大したことは御座いません。あの軍勢も『大うつけ』殿が世継ぎとしての役目もそっちのけで育てたと評判でしたが、蓋を開けてみれば山口と今川の寄せ集めを破ることも出来ず。結局は大勢の死人怪我人を出して陣を引いたそうで。評判倒れもいい所でございます。それにこちらには奥の手も御座います」
「お主が奥の手と言うと、我らも首元がスースーするの」
信友はいつも通り呑気な声をあげているが、義統は気が気でなはない。大膳は奥の手などと言って気取っているが、いざとなったら今川に内通でもしよう、とでも言い出すことは容易に想像できる。しかしそうなったら義統の身分はどうなるのか。
「もとは彦五郎(信友)の配下であった信光が、信長についたと言うではないか。奴は弾正忠(信秀)の右腕で、勇猛で知恵も働く男だ。油断出来んのではないか?」
坂井大膳が抜け目のない男であることは、十分承知している義統ではあるが、実際に戦さとなればどっちに転ぶかわからない。義統の不安はそう簡単に収まるものではなかった。




