当主のお仕事
「このまま山口親子を放っておいては世間に示しがつかん。鳴海城へ討って出るぞ。支度を致せ」
数日後、初めて那古野城で信長の元での評定が行われた。しばらくの間、重臣たちの議論に黙って耳を傾けた後、信長は一方的に宣言した。
信長が那古野城に置いてきぼりにされてからというもの、その後も重臣たちは信長そっちのけで、末盛城の信勝の元に集まっての評定を繰り返していた。しかしその席で確認できたのは、現状では今川だけでなく、美濃の斎藤からの調略を受けている者はいないということだけだった。ただし、それもお互いにほぼ毎日顔を合わせること牽制し合って、仮に誰か何かを企んでいても、実際の行動には移せない状態となっていたに過ぎないのかも知れなかった。重臣たちはとりあえずは互いにホッとした様子であったが、一方で寝返った山口 教継と息子である教吉への対応策はまとまるどころか、状況分析の域を出ない話し合いに終始していた。
そしてそれでは埒が開かないということで、山口親子の教継の寝返りから既に十日経った四月十六日、この日初めて末盛城から信勝配下の佐久間盛重、信盛そして柴田勝家も、那古野城の信長の元に出仕して評定が行われた。これで織田弾正忠家がやっと一致して対策に当たるかに思われたが、実際のところ弟信勝は鳴海城の押さえという名目で末盛城からは出て来ず、家中の分断が改めて目に見える形となっていた。
「鳴海城は息子の九郎二郎(教吉)が守っておるそうです。張本人の教継は中村砦におるとのこと。狙うは息子ということで?」
佐久間盛重が怪訝そうに問いかけた。
「いや、敵が一番多く詰めておるのが鳴海であろう?ならばそこを討つまで」
信長の答えは簡潔であった。
「はは」
このように断言されては、盛重もそれ以上は問えなかった。
「準備にはどれほどかかる?」
「それはどの程度の軍勢を整えるかに拠りますな」
戦慣れしている勝家の言葉には、戦さの経験の少ない信長を軽く見る雰囲気が感じられる。
信長は、フーッと一息吐くと一段声を大きくした。
「お主らがそれぞれ所領に抱えておる手勢を引き連れて、鳴海を囲むには何日かかるのか聞いておる!山口が寝返って既に十日じゃ!その程度の準備はしておろうな!」
重臣たちは弾かれたように顔を上げると、これまで『うつけ殿』と陰口を叩いてきた新主君の顔を見た。それぞれが困惑した表情を浮かべているが、いつ出陣できるか直ぐに答える者はいなかった。
「わかった。俺の手勢だけで出る。明日の早暁だ。佐渡守(林秀貞)、陣触れをせよ」
「はは」
「その他のものはそれぞれの城と所領の守りを固めよ」
「はは」
「盛重!勘十郎(信勝)に俺に代わって那古野の留守居をするように申し伝えよ」
「は!」
明けて四月十七日早朝、信長は鳴海城の十五町(約1.6キロメートル)ほど北に位置する小鳴海(現在の名古屋市緑区古鳴海)の三の山という高台に、自らが家中の次男坊や三男坊を集めて育てた、親衛隊とも言える精鋭約八百で陣取った。脇を固めるのは加藤弥三郎、岩室長門守、そして荒川与十郎といったよりぬきの小姓の面々である。
信長にとっては、弾正忠家の当主として自らが指揮をとる戦さはこれが初戦である。それどころか、実際に弓矢を交えての殺し合いという戦さ自体、ほぼ初めてと言って良かった。六年前に十三歳で元服をし、その翌年に三河国の吉良、大浜へ出陣して初陣を飾ったが、その時は諸所に火を放って那古野に帰陣している。その後も父信秀に従って幾度が出陣はしたが、いずれも自らの命に危険を感じるような場面ではなかった。
信長はまず鳴海城の山口教吉へ向けて使者を差し向け、降伏し城を明け渡すよう伝える書状を渡した。今川方に寝返ったのは山口親子であるから、問答無用に攻めかかっても道理を踏み外すことはなかったが、ここはまず新領主としての自分の度量を示しておく重要だと思ったのだ。しかし本音を言えば、実際に兵を動かして攻めかかるまでには、自分の心の準備として、踏むべき手順は踏んだという事実が必要との思いもあった。簡単に言えば、まだ若干ビビっているというのが正直なところだった。
書状を受け取って半刻(約一時間)ほどして、山口教吉が兵を率いて城を出てくるのが見えた。その数はざっと見たところ千五百ほどであろうか。山口の配下である尾張勢だけでなく、三河からやってきた今川からの与力(加勢)も多く含まれているようだ。法螺貝を吹き鳴らし掛け声を上げながら、平地が開けている三の山から東に降りた赤塚へ向かって行く。戦さ慣れした今川勢のお陰であろうか、なかなか勇壮な構えである。
「こりゃ、どう見ても戦さ支度だな。格好をつけおって!まぁ、今川の手前もあろう。そうやすやすと降伏は出来んわな」
信長は精一杯の強がりを口にする。戦さと言っても所詮は身内同士の小競り合いである。はじめから気圧されるようでは勝ち目はない。
「そのようで」
側に仕える小姓たちも、信長の強がりに合わせるように、不敵に笑みを浮かべてはいるが、緊張に大きく目を見開いている者がほとんどである。中には側から聞こえるぐらいに奥歯を鳴らして、恐怖を堪えている者もいた。
なにしろ、敵の数はざっと見ても自分たちの倍ほどもいるようだ。
「良いか皆の者!敵方にはついこの間まで顔見知りであったものも多くいるであろう!しかし、今日ばかりは手加減してはならぬ!ここで甘い顔を見せれば、我らは皆から侮られる!さすればこのような謀反が続くことになるのだ!家中にはまだ我らの力を測りかねておる奴も多い!そいつらに我らの力を見せつけてやるのだ!行くぞ!」
信長は兵たちを鼓舞すると自ら先頭に立って、赤塚へ向かった。
この時の信長には、今日のこの場で山口九郎二郎教吉を討つことが、今川からの介入という事態の全面的な解決につながるという見通しがあった訳ではない。むしろ単純に、山口親子が寝返り今川勢を尾張国に引き込んだという事実に対して、この尾張を治める者の後継者として、何の行動も起こさないということはあり得ないと本能的に考えただけであった。
家督を継いだばかりの信長にとって、これからどのように尾張国を治めていくのか、この時点で明確なプランがあった訳ではない。しかし、このような国衆の寝返りや他国からの侵略という事態に、領主たるものが何もせずにいれば、途端に他の国衆や領民からみくびられる、言うなれば世間からの面目を失う事態になることだけは肝に銘じていた。
また、信長は『大うつけ』と呼ばれるような言動で城下を徘徊しながらも、弓馬の稽古は欠かしたことがなかった。それは自らの近習、小姓衆に対しても同様である。また戦に勝つためにはどうするか?という工夫を考えたり、実際に試して見たりすることが好きであった。足軽衆の槍を、これまでの物よりもかなり長大(約6メートル)な拵えとし、突くのではなく叩くことに主眼を置いて、敵の前進を遮ろうというのもその一つである。このような鍛錬を日々実践できたのは父信秀の元を離れ那古野城にいたことで、父の政務の手伝いなど文官的な事務仕事から自由でいられたことも大きい。城下を徘徊して世情に親しみ、配下の者たちと弓馬の腕を磨くことが若い信長の日課であった。いつしか信長の元には数は少ないが精鋭と呼べる兵たちが組織されていた。もちろん家督を継いでたったの一ヶ月でこれまでの自分達の鍛錬を世に示す機会が巡ってこようとは思ってもいなかったが。




