家督は継いだものの
「誰もおらんのか?」
時は大きく遡って、天文二十一年(1552年)四月四日の朝である。
信長が那古野城の広間に顔を出すと、評定に集まっているはずの重臣たちは誰も来ていない。広間の上座に置かれた信長用の座布団と脇息の傍に、こじんまりと手持ち無沙汰な感じで控えている小姓たちに声をかけた。
「皆様お揃いで末盛城においでとのことです」
小姓頭の丹羽五郎左衞門長秀が答えた。加藤弥三郎と岩室長門守重休が何か言いたげに顔を見合わせたが、長秀に目顔で制される。丹羽長秀はこの時まだ十八歳であるが、主君で一つ年上の信長よりもずっと落ち着いた佇まいを持っている。
「左様か」
信長は特に機に留める様子もなく、行儀悪くドッカと腰を下ろすと、脇息を引き寄せて頬杖をついた。開け放った広間に春の日差しが差し込んでいる。
父信秀が亡くなってわずか一ヶ月で鳴海城の山口 教継が今川に寝返り、伊勢湾に面した鳴海城、大高城、そして三河との国境に位置する沓掛城が、一挙に今川方の手に落ちたことは既に述べた。信秀が亡くなったことで家中の力関係が崩れ、統率が乱れつつある尾張国にとっての一大事である。信長はこの日も、朝から山口教継と今川勢への対応策について、重臣たちと話し合う予定であったのだが。
信長が那古野を居城としたまま家督を継いだことで、少なくとも織田弾正忠家にとっての主城はこの那古野となったはずである。筋目としてはその通りと家中の誰もが認めるところであったが、父信秀が亡くなる寸前まで政務を執っていたのは末盛城である。そしてその末盛城が、現在は信長の弟である勘十郎信勝と、信秀の正室で兄弟の生母である土田御前の居城となっている。
そしてそこには政務上の重要な書類や記録がそのまま残っているだけでなく、信秀晩年の政務を支えた佐久間大学盛重、佐久間出羽介信盛そして柴田権六勝家などの重臣がそのままの役職で信勝の配下となっている。さらに今回の山口教継謀反の根拠地である鳴海城には末盛城の方が近かった。そんなこんなで、山口謀反の対策本部としての実務を行う上では末盛城が好都合である、というのがそれら重臣たちの言い分ではあったが、何のことはないこれこそが、この頃の信長が家中でも軽く見られていたという証拠に他ならない。
信長が父信秀から那古野城を譲られたのは十三歳で元服した時である。その時に信長の配下として、当時の弾正忠家の筆頭家老である林新五郎 秀貞と、信長の幼少期から傅役を務めていた平手五郎左衛門 政秀の二人が家老としてつけられた。このニ名は当時の弾正忠家を代表する重臣であり、次代の織田弾正忠家を支える中核として配置されたのである。しかし、二人からすれば信秀とともに実際に政務を取り仕切ってきた末森城こそがまさに本店であり、信秀の遺言とはいえ代替わりに伴って末盛城を離れてみると、那古野城はまさに支店と言う他なく、本流から外れたという思いに駆られずにはいられなかった。
そして二人の左遷(と本人たちは感じている)直後に、今川の介入で山口教継の謀反という大事が起こると、末盛城では当然自分達が本店をいう意識でいち早くその対策の検討を始めた。那古野城の二人が一応「いや、それは家督である三郎(信長)様の御指図のもとで」と主張しても、信勝配下の現役感たっぷりの家老たちに「急を要す話だから」と言われてしまえば、結局は自分達が末盛城に足を運ばざるを得なかった。しかし、だからと言ってそこに信長も同行してしまえば、流石に信長と信勝でどちらが家督なのかわからなくなってしまう。もちろん家督としての威厳を表すように信長が堂々と末盛城に入城すれば良いだけの話なのだが、そういう演出には準備に金も時間も必要なのだ。結局そういった大人の都合のような話を『大うつけ』に理解させるのも面倒であり、そもそもが弟の信勝の方が話の理解が早いというのもあって、那古野の二人の家老は、主君である信長にも告げずイソイソと末盛城へ向かうのであった。
「雁首揃えて話しおうたところで、今川を追い出せるわけでもあるまいに。謀反は評定の場で起こっておるのではないのだぞ」
信長はボソリと呟いた。
「皆様、お集まりになってご相談申し上げないと、お互いに不安なのでございましょう」
返事をする声に、ふと振り返るといつの間にか帰蝶が側に控えていた。
「何が不安なのだ?盗られた城は取り返せば良いだけの話だ」
「それは殿様(信長)のように、人を従える立場の方の考えでございましょう。仕える立場の者は常に自分の行く末が不安なものですよ。寝返る者が出た時に、まず皆が不安がるのは『他に誰か?』ということでございましょう?自分はその流れを止める側につくべきか、流れに乗るべきか、敵を追い出す算段をしながら頭の片隅ではそんなことを考えているようです。だから、みんなの集まりには必ず顔を出して、みんなの様子を探らねばなりません。また、欠席でもすれば周りから余計な疑いをかけられます」
「なるほど。流石はマムシ殿の娘じゃ」
信長は何となく嬉しくなって、帰蝶のクリクリとした瞳を見つめた。
「それもこれも俺に皆をまとめる力が足りぬからだな」
「左様でございますね」
帰蝶は目を細めてにっこりと頷いた。
「そう考えると親父殿は大したもんだったな。若い頃から身分の上下を問わず、ことの大小を問わず、萬の相談を受けておった。皆が持ち込む支離滅裂な話を噛み砕いて整理して、最後に親父殿が『大丈夫』と言えば、皆安心して帰っていったわ。話をしただけで問題そのものは解決してもおらんのに。皆が親父殿に『大丈夫』と言ってもらいたいようだった。俺は気短だからとてもそんな真似はできん」
信長はそう言って、何か言ってもらいたそうにもう一度帰蝶の表情を覗き込んだが、帰蝶は満足そうに目を細めてもう一度頷いただけである。
信長は単純にもう少し時間が欲しかった。自分が弾正忠家の家督であり父信秀の後継であることを名実ともに皆にわからせる時間が。父や祖父が実質的な尾張国の支配者となっていった過程を振り返って見ても、彼らがある日突然そういう立場になったのではない。信長が家督を継いだその日から偉そうに振る舞えば、それで万事上手く行くような単純なものでは無いことは信長にもわかっていた。そしてそのことについては、先日すでに信長は痛い目を見ている。
家督を継いですぐの頃、信長は平手政秀の息子で近習の一人である平手五郎右衛門が手塩にかけてきた駿馬を、軽い気持ちで自分に譲るように命じた。しかしそれに対する五郎右衛門の態度は冷淡で、端正な顔立ちの頬をこわばらせながら「馬は武士には必要なものなので」と即座に断られた。それに対して信長はついカッとなって「主君の頼みが聞けぬのか!」と怒鳴りつけてしまった。
今になって冷静に考えれば、五郎右衛門の答えはもっともであるし、自分も家督を継いだことで何かフワフワした気分で、無性に偉そうに振る舞ってみたいという気持ちがなかったとは言えなかった。別にその駿馬が欲しかったわけでもなく、刀でも何でもいいから家臣から献上させて、自分の立場を確かめたかっただけなのかも知れない。この件は自分でもしくじったと思っているが、五郎右衛門がこれまた強情者で信長に対してすっかり心を閉ざしてしまった。
五郎右衛門は信長より一回りも年上だが、傅役の息子ということでそれまでは昵懇の付き合いであったし、信長からしてみれば何でも甘えられる兄貴のような存在であった。その様な関係からつい五郎右衛門への甘えが出たとも言えるのだが、一方で元来生真面目で実直な五郎右衛門は、信長の『大うつけ」と後ろ指を刺されるような言動をすることが、内心はかなり不快であったようだ。信長の言動そのものもそうであるし、その言動から傅役である父政秀や、学友という立場である自分やその弟たちへの批判が起こっていることも不本意であった。信長は信長で五郎右衛門がそのように思っていることもわかるのだが、『大うつけ』も自分ではそれなりに考えがあってやっているつもりであったし、そういった若さも手伝って、素直に五郎右衛門との関係を修復するという気持ちにもなれなかった。
また「君主たるもの」ということは幼いの頃から教えられてきたが、それは書物にある過去の偉人たちの英雄譚のように、単純なものではないのでは?というのが漠然とした信長の考えであった。
自分が偉人たちのように振る舞っても上手くいかないだろうことは容易に想像できたし、だから舅の斎藤道三が美濃を奪ったやり方が尾張で通用するとは思えない。そして逆に父信秀のやり方で美濃が治まるとも思えない。さらに、自分が父のやり方を真似したところで尾張が治まるわけではないだろう、じゃあ、どうするか?
君主が取るべき態度というものは、その時の状況や支配される人々の意識や習慣にも大きく左右されるものだろうということは判るが、実際にどう振る舞うかとなるとそれがサッパリ分からない。それがこの時十九歳の信長の実感であった。
とりあえず一年か二年を大過なく治めて、自分自身が弾正忠家の当主であり政治の中心であると皆が納得するようにしたかった。しかし、今回の山口教継の謀反は、信長にその時間を与えることを許さなかった。
逆に言えば、今川義元の尾張への介入による山口教継の謀反は、まさに絶妙のタイミングで行われたということだった。さすがに『海道一の弓取り』と名高い今川義元のやることである。
夕刻、林秀貞以下の重臣たちが末盛城での評定を終えて戻ってきた。一様に皆暗い表情である。
「何か良い算段はまとまったか?」
信長は自分が除け者にされていることへの憤りは、なるべく表に出さないように迎えた。
「山口親子以外に今川への内通者はいないようです」
秀貞が疲れた声で答えた。報告の第一声からすると、帰蝶の憶測通り皆がお互いの腹を探り合うだけの評定だったようだ。
「敵の主力は鳴海城か?兵力は?今川の動きは?」
信長は矢継ぎ早に問いただす。
「お、おそらくは。山口配下と今川勢で千、いや二千程かと」
秀貞たちの答えは要領を得ない。やはり敵方の情勢やその対策などを話し合う余裕もなかったのであろう。
「それは気苦労の多い評定であったな」
特に家老たちを労うふうでもなく信長は言った。




