織田弾正忠家
このあと物語は一気に時代を遡ることになる。その前に、信長が生まれた織田 弾正忠家について述べておく、、、
信長が父信秀から弾正忠家の家督を継いでから、実際に尾張一国を己の支配下とするまでは決して平坦な道のりでは無かった。信長が十九歳で家督を継いでから本能寺で斃れるまでの約三十年間、その前半はほぼ尾張国内での織田家同族との支配権争いに費やされたと言って良いだろう。その背景には、父の後を継いで尾張を支配するのが己の使命と捉えている信長と、代替わりを機に自分の勢力を取り戻したいと考える同族たちの考えの相違がある。
元々尾張国には、正統な守護として斯波義統が清須城におり、その下に守護代として岩倉織田氏(伊勢守家)と清須織田氏(大和守家)が、それぞれが尾張国の上四郡と下四郡を支配していた。そして信長の父 信秀は清須織田氏に仕える三人の奉行のうちの一人、織田家の庶流である弾正忠家の当主であった。
つまり家格の面で言えば、弾正忠家は尾張国全体を支配する正当性はかなり微妙な位置、というか本来であれば尾張全体を支配することはあり得ない立場である。ところが信秀の祖父織田 良信がまずなかなかに世渡りに長けた人物であったようである。良信は伊勢湾に面した津島の港を自らの支配下に置き、そこでの交易で蓄えた財力と持ち前の政治力で尾張国内での勢力を強めた。そして次の信定から信秀へと三代を経る頃には、いつの間にやら守護斯波氏や守護代である両織田家を差し置いて、尾張国内全体を実質的に支配する立場についている。
信秀の時代、財政面では対馬に加えて熱田の港もその支配下に置き、尾張国内では伊勢湾での交易による利益をほぼ独占する状態であった。では、弾正忠家の当主が代々得意とした政治力とは一体どのようなものだったのだろうか?その辺りの詳しい資料は残されていない。しかし想像するに、奉行という領内の実務を取り仕切る立場から、日々接することになる領国内の揉め事や面倒事、相談事などを、手際よく調停し解決する能力に長けていたものと思われる。
守護斯波氏や守護代の両織田家が「ああ、そんな面倒くさい事、些細な揉め事はほっとけ」と言って関わろうとしないような事件や事故にも、親切に対応する。時には個人的な資産で損害を補填してやる。そんなことをしているうちに、守護や守護代は「あ、そういった面倒な問題なら弾正忠に任せておけ」と丸投げするようになり、家中の者たちからは「困ったことがあったら、弾正殿に相談してみよう」という流れになり、揉め事や相談事が事の大小を問わず、直接信秀のもとに持ち込まれるようになる。さらに最終的には守護家や守護代家の資産問題など、極めて私的な問題にも手を貸すようになり、気がつくと織田家中は弾正忠家の舵取りなしでは物事が進まなくなっていった。
そもそも領国経営に限らず組織運営の肝は何かと言えば、揉め事の仲裁・解決と不正の公正な処罰である。人間が集まれば必ずそこには、些細なものから大きなものまで様々な揉め事と不正が発生する。そして、武家政権成立以前、帝と朝廷による直接王権国家であった古代から、藤原氏の摂関政治、平氏による擬似貴族政治、源氏の鎌倉幕府、足利氏の室町幕府、いずれもその統治機能のうち、最も重要なものの一つが現代で言うところの司法、つまり「揉め事の仲裁と解決、不正の処罰」であった。
どの時代においても政治機構がきちんと機能している間は、地方で発生する揉め事は、その土地の国司、時代が変われば守護・地頭といった、中央政権の権威を背景にした地方権力者が仲裁や裁定を行った。そして地方権力では収拾できないより大きな揉め事は、中央政権がその権威と武力を背景に直接介入することで国内の秩序が保たれて来た。
例えば、農民同士の農地の境界や用水の揉め事や、漁師の漁場の争いだろうが、はたまた武士同士の所領の境界や喧嘩沙汰や、大名同士の国境の争いだろうが、訴えを受けた公権力が、建前上は公平な立場で裁定を下すことができていれば、そして様々発生する不正や犯罪を適切に処罰できていれば、国全体として行政が機能していると言えるのである。ポイントは揉め事や不正を、当事者同士の口論や殴り合い、時には武力抗争や仕返しに訴えたりするのではなく、公権力という第三者による仲裁と処罰で解決されるか否かである。これがいわゆる『他力救済』である。
しかし応仁の乱以降、中央政権である室町幕府の権威が失墜して既に百年、大名同士による揉め事を仲裁する公権力は既に機能せず、当然幕府の権威を背景にした守護・地頭による地方の裁定も期待できない。つまり戦国時代の本質とは、揉め事や不正があっても、それを公権力に解決してもらうことが期待できない時代だった。繰り返しになるが、それは、揉め事の当事者同士がそれぞれの知恵や経済力、もしくは軍事力によって解決する、『自力救済』が必要とされた時代だったということだ。
仲裁してくれる頼れる立場の者がおらず、自力で解決しなければならないとなれば、殴り合いや殺し合いという選択肢が身近になる。その様な環境は、押し出しが強くて腕っぷしに自信がある、いわゆるヤクザな連中にとっては面白いに違いない。しかし、そういう連中は簡単に自分と似たタイプの奴と暴力沙汰を起こすから、命がいくらあっても足りない。
そしてどんな時代でも暴力に訴える行動を、自ら進んでできる奴は実はそんなに多くないのである。大抵の人間たちはたやすく揉め事は起こすが、自分で解決する腕力も能力も持たないものだ。そんな彼らは時にはヤクザな連中の力を借りることもあるだろうが、それがさらに大きな揉め事の火種になることもある。いずれにせよ、公権力が機能しない社会というのが、いかに不安定で不安なものかは容易に想像できる。だからこそそんな環境では、上手いこと揉め事を治める能力と財力のある、織田弾正忠信秀のような人間が重宝がられることになる。
また、弾正忠家の当主は代々伊勢湾の交易で財を成したことから分かるように商才に長けていた。商才に長けているとはつまり、商売相手との利害調整が得意ということである。目先の利益だけでなく、時には長期的な利益のために一時的な損害を受け入れる判断なども出来るから、自分のところに相談事が持ち込まれれば、双方の話を聞き、時には自ら身銭を切って金を握らせるなどして穏便に解決するのが得意であった。
それでいつしか、尾張国内の揉め事は「では弾正殿に」という形になったのは先ほど述べた通りである。皆が面倒くさがって手を出さない問題を引き受けることで自然と人望も高まる。さらには、揉め事の多くは他人に知られたくない、特に共に守護代である岩倉織田氏や清須織田氏のような、家格の高い立場では絶対に他人に知られたくない家中の恥、というような案件が結構あるものだ。当事者と弾正信秀だけが知っている秘密が増えるに従って、よりその存在感は重いものとなった。
さらに当時、尾張守護である斯波 義達は隣国美濃の土岐氏との争いや、今川氏との遠江をめぐる領土争いなどに果敢に取り組み、軍事行動も盛んに行っていたが、実はそれらの行動は、決して家中からの賛同を得られていた訳ではいなかった。最終的には永正十二年(1515年)の遠江遠征で決定的な敗北を喫し、その権威を失墜させることになってしまったのである。
そのような家中の権力バランスが不安定になる中で、信秀は守護代の両織田氏をうまく宥めながら斯波一族の立場を擁護するなどして、気がつくと守護代を飛び越えて自らが尾張国を実効支配するという状況を作り上げてしまった。本来弾正忠家よりも家格が上の両守護代にとってみれば、いろいろ面倒事を片付けてくれる部下を、便利に使っているうちに実権を握られてしまったわけである。
彼らにしてみれば若干口惜しい思いもあったが、既に色々と弱味も握られており高圧的な態度を取るわけにもいかない。また、そこは老獪な信秀、自分に実権が集中するにつれて、守護と守護代に対しては今まで以上に、家臣という立場を弁えた振る舞いに徹していた。それも全て自分の存在が新たな揉め事(彼にとっては余計な仕事)を生じさせることがないようとする気配りである。
このように弾正忠家が尾張の実質的な領主という立場に登り詰めて行けたのは、あくまで信秀に連なる代々当主個々人の資質(財力と政治的調整能力、そしてもちろん武力)によるものであった。つまりその支配力は、家格や血筋という誰の目にも明らかな正当性を持っていないのだった。そもそも家格や血筋の面では信長の上にその主家である守護代の清須織田氏(大和守家)があり、それとほぼ同格の岩倉織田氏(伊勢守家)もいる。さらにはその上には今では実権を失い、お飾り同然の存在とは言え守護斯波氏も清須城に健在であった。
政治家として優れた資質を備えた信秀が四十二歳という若さで亡くなり、若干十九歳で『大うつけ』と評判の信長が家督を継いだわけである。信秀の政治力によって微妙なバランスが保たれていた尾張国内が一気にドタバタしだしたのは、ある意味当然と言えるだろう。しかも名目上は家督を継いだとはいえ、信長の居城は元服後に父から預けられた那古野城のままだった。一方で、信秀が居城とし存命中は尾張の政治の中心として機能していた末盛城は、弟の信勝が引き継いで城主となっていた。こうなると実務の面でも見栄えの面でも、どちらが家督を継いだのかハッキリしない。
加えて言えば『大うつけ』として世間に悪名高い信長である。信秀が亡くなれば、家格の正統性(本来の守護や守護代としての立場)や家督の正当性(うつけの兄より聡明な弟)を盾に、信長の実力を軽んじて取って代わろうとするものが現れるのも至極当然のことと言えた。そんな中では信長自身が、信秀の跡を継いで尾張を支配するに足る実力を示さなければならない。しかし、取って代わろうとする者たちにとっては、信長に本当にその実力があるのかないのか、それが分からないうちが潰すチャンスである。信長の方から特に何もしなくても、色々と不穏な動きがあちこちで生じて来るのは道理であった。
次回からはその様々な不穏な動きを見ながら、信長の尾張統一の道を見ていく。




