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凡人信長記  作者: 梵天丸


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決戦!桶狭間③ 『読み』はハズレ

「既に丸根砦と鷲津砦はおとされた模様です。丸根の大学殿(佐久間盛重)は討ち死に。玄蕃げんば殿(織田秀敏)に代わって鷲津を守っていた飯尾(定宗)殿も同じく討ち死にされたとのこと」

「左様か」

 丹下砦を経てまずは善照寺砦に入った信長に、この砦を任されている佐久間信盛が報告した。信盛にとって佐久間家の親戚である大学助盛重が討たれたことは口惜しかったが、彼の言葉に、信長が両砦に援軍を送らず結果的に見殺しにしたことを責めるような響きはなかった。

 今川勢が尾張に攻め込んできた場合の方策について、これまで信長と入念に打ち合わせをしていたのは筆頭家老の信盛と、加藤弥三郎や岩室重休などの近習の者たちだけであった。

支度したくは?」

「出陣の支度には今しばらくかかりますな。それより、支度が整ったにしても、騎馬はニ百騎ほど。徒士かち勢を含めても二千足らずにございます」

 味方の数は少ないが、この中には信長が家督を継ぐ前から、家中の次男坊や三男坊を集めて自ら育ててきた、いわゆる親衛隊とも呼べる軍勢およそ八百も含まれている。

「祝着。それだけ集まれば何とか、、、ならんかもしれんが、何とかするしかないわな」

 信長は砦のやぐらに登った。善照寺砦は、旧鎌倉街道が西に鳴海城へ向かいそこから熱田へ向けて北上する辺り、街道のすぐ北側の小高い丘にある。その櫓からは、旧鎌倉街道の南側に広がる田畑とその先に伊勢湾に注ぐ黒末川、そしてその川を背にする中島砦まで見通すことができた。そしてその中島砦までの距離はおおよそ八百メートル弱である。

 さらにそこから沓掛に向かって東南東に伸びる鎌倉街道を、今川義元の本隊が進んで来る筈であるが、街道の北側に点在する丘陵や雑木林に遮られてその姿を確認することは出来なかった。


「中島砦にはどれほど詰めておる?」

「一昨日に今川治部の侵攻を聞いて補充をしましたが、雑兵を含めても二百ほどかと。佐々正次殿と千秋季忠せんしゅうすえただ殿が詰めております」

 信長は信盛の答えに無言で頷く。

「丸根と鷲津を陥した今川勢は?」

「中島砦からの報告はありません。まだ義元のいる本隊へ戻る様子はないようで」

「なに?」

「どうもおおかたが補給先の大高城へ戻ったのではないか、という話も、、、これは我らのあてが外れたかもしれませんな」

 信盛が信長に不安げな視線を返した。大高城へ補給に向かった別動隊が、丸根と鷲津の両砦を落としたら、義元のいる本隊へ戻るに違いないというのが信長と信盛の『読み』であったわけだが、これはやはり劣勢に立たされた者の希望的観測に過ぎなかった様である。

「奴らは充分な兵糧を持っておるということか、、、」

 劣勢な立場の者たちが行う想定にはありがちな事態ではあるが、信長にとっては手痛い読み違えである。しかしこのままではこちらの支度が整わないうちに、今川の本隊が目の前を通過して大高城の別動隊と合流してしまう。そうなれば、信長にはもう手も足も出ない状況となるのだ。


「なんとか今川治部を足止めできぬものか、、、」

 信長が歯噛みするように呟く。

「殿、それでは私が先に突っかけてみましょう」

 二人のやりとりを聞いていた岩室重休が進言する。

「これからすぐに中島砦へ行って、佐々殿、千秋殿とともに今川本隊の先陣の足止めをしてみましょう」

「それではみすみす討ち取られに行くようなものだぞ!」

 重休の無謀とも思える提案に信長はすぐには賛成できない。

「いや、ここは長門(重休)に一肌脱いでもらうほかないでしょう。長門、早速中島砦へ参れ!百騎ほど連れて行ってかまわん!」

 迷う信長を横目に信盛が筆頭家老らしく決断を下した。

 

 四半刻(約30分)もしないうちに、中島砦から遠く勇ましい掛け声が上がり、辺りが騒がしくなった。すると百騎ばかりの騎馬に率いられて、ニ、三百とも見える一団が勇ましく旗印を掲げて街道へ駆け出した。

 岩室重休が中島砦に入ると、前々日からの今川勢の侵攻を、最前線でなすすべなく観察せざるを得ない状況に、かなりの鬱憤を募らせていた佐々政次と千秋季忠の二名は、それこそ引き絞られた矢が弓から放たれるように先頭に立って駆け出した。重休から伝えられた役目は今川本隊の足止めではあるが、先頭に立って出陣するからには、一番槍の栄誉を掴もうと勇躍して飛び出したのであった。いくら相手が大軍とはいえ、その全てが一気に襲いかかってくるほど街道筋は開けてはいない。それに地の利は当然こちらにある。熱くなっている二人を見て、重休は集団の中段まで位置を下げる。状況を見て判断する役目は自分が負わねばならない、と重休は思った。

 二人が率いる織田勢の一団が街道沿いの雑木林の陰に見えなくなると、直ぐに街道方面の丘の向こうから大きな歓声が上がった。明らかに今川勢が上げているその歓声は、善照寺砦にいる信長たちの誰もが、これまで耳にしたことのないような大きな響きであった。

「いったい、どれほどの軍勢なのか?」

 傍の信盛が放心したように呟いた。

「佐々と千秋も大した度胸だが、、、」

 信長は改めて重休を送り出したことに後悔を感じている。

「うまく足止めできれば良いのですが」

「我らも急いで出陣の支度を整えねばならん。出羽介、急げよ!長門たちの働きを無駄にはできんぞ!」


「えい!えい!えい!」

 しばらくすると街道の方向から今川勢の勝ち鬨が上がった。中島砦からの先制攻撃は、簡単に退けられた様子である。その後ほどなくして、戦場から逃れた将兵が重休に率いられて、ゾロゾロと中島砦へ引き上げていくのが見えた。重休の無事な姿を見て安心したのも束の間、佐々政次、千秋季忠をはじめとして五十騎ほどが討ち死にしたとの報告が入った。

「今川勢はさらに押し寄せてくる様子か?」

 信長は不安を隠せずにきく。

「今川勢の前衛部隊は今のところそれ以上進んで来る様子はございません。佐々殿らを討ち取った前衛の将兵も一旦本隊へ戻っていくようです」

「しめた!」

 一旦は前進した今川の前衛が本隊へ戻って行くと聞いた信長は、何かが吹っ切れたように感じる。

「左様か!では我らも出るぞ!馬引け!」

 信長は階段を転げ落ちるような勢いで櫓から降りると

「皆のもの!好機だ!中島砦へ向かうぞ!」

 と叫んだ。

「お待ちくださいませ!ここから中島砦へは田んぼの畦道しかありませね!見晴らしも良くて敵方から丸見えですぞ!」

「畦道は一騎ずつしか通れません!」

 信盛以外の重臣たちが口々に叫ぶと、信長の馬のくつわに取り付いた。

「何を申すか!畦道は一本ではあるまい!通れるところを探してついて参れ!今を逃しては今川治部の思うがままだぞ!尾張が終わりになっても良いのか!」

 渾身の駄洒落は混乱にかき消される。

 信長は止める声を振り切って、馬を走らせた。水田を抜けて黒末川の浅瀬を渡り、中島砦にたどり着くと、そこから街道を埋め尽くす今川勢の姿が見える。中島砦から半里(約2km)の距離に多くの旗印を掲げているが、本隊に戻るためか先頭の兵たちがこちらに背を向けているように見える。


 この時、今川義元率いる本隊は沓掛城を出陣した後、田楽狭間の手前の地点から旧鎌倉街道を外れて、桶狭間山の中腹に陣をしいていた。桶狭間山と呼ばれる丘は、沓掛城下で尾張国に入り、そのまま西に進んで伊勢湾を望む鳴海城まで繋がる旧鎌倉街道が、田楽狭間と呼ばれる低地に差し掛かるところを見下ろすように街道の南側にある小高い丘である。

 先ほど幸先よく信長の放った先制攻撃を、まさに赤子の手をひねるかのように退けて義元は上機嫌である。少し予定よりは早いが軍勢を休めて優雅な昼食と洒落込んでいる。


 五月雨式に畦道をかき分けて、追い付いて来た兵たちが集まると信長は馬上から軍勢を見渡した。梶川高秀以下、中島砦に詰めいていた将兵は先ほど佐々政次と千秋季忠が討たれたことで意気消沈しており、善照寺砦からついてきた重臣たちと共に信長の出陣を必死に止めようとする。

「よいか、皆のもの!よく聞け!」

 ここで信長が叫ぶ。

「あれに見える今川の兵どもは宵に腹ごしらえをして夜通し行軍し、大高に兵糧を運び入れ、鷲巣と丸根に手を焼いて、疲れ切っている奴らだ!こちらは新手の兵である。『多勢に無勢だからと言って怖れるな!勝敗の運は天任せ』というではないか!敵が掛かって来たら引け!敵が引いたら追うのだ!何としても敵を追い出すのだ!街道の一本道だから容易いことだ。敵の武具などは分捕らず捨ておけ!この戦に勝ちさえすれば、ここにおる者は家の名誉、末代までの高名である!ひたすら励め!」

 敵が疲れているというのは大嘘である。

「おお!」

 それでも信長の号令に答えて、兵たちは手にした槍を天に突き上げる。

 織田信長一世一代の戦さの始まりであった。


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