第二話 新生
次回から話の流れが大きく変わります
息一つ、まともにできやしない。森を漂う空気は炎の塊のようで、吸い込むたびに肺の中が焼けてしまう。喉はもうすっかり焦げ付いて、助けを求めようとしてもヒュウヒュウと情けない音を出すばかり。眼も駄目になってしまって、モノトーンに紅が入り混じった異様な視界が広がっている。
エルガの森に捨てられて、どれほどの時が過ぎたのだろうか。時間の感覚すらも定かではない。飢えと渇きはすでに私の頭まで達しているようだった。どれほど私は物を食べていないだろうか。どれほど私は水を飲んでいないだろうか。
森を流れる川や湧水はすべて毒と化していて、僅かに舐めただけで全身の肉が裂けるような恐ろしい痛みが襲った。灰色の木々は果実などという気の利いたものは一切付けず、食べられる部分などない。苦し紛れにその幹や葉に食らいついたところ、蓄えこまれていた濃密な瘴気が私の心を汚し、意識が混濁して発狂寸前にまで陥ってしまった。
入ったら最後、生きては出られぬとされるエルガの森。この森がこうも恐れられる理由は何よりもここを支配する瘴気にある。人の命を縮め、森にある物をことごとく毒としてしまう濃密な紫の霧。これは地磁気や魔力の流れをも狂わせ、水晶機械すら破壊してしまう。そのため、水晶文明が全盛を極める中でもこの森は難攻不落の自然の迷宮であった。さらに瘴気は森に棲む魔獣や植物たちを歪な形で進化させ、人知の及ばぬ独自の生態系を築き上げている。
「キャラキャラキャラ……」
「ま……じう……!」
遠い遠いところから、空間を突き抜けて伝わってくる声。金管楽器の出来そこないのようなその音は、私の感覚を揺さぶった。頭蓋骨を取り去り、脳を鷲掴みにされたような不快で奇妙な感覚が全身を撫でる。ここにいてはいけない。死ぬ――!
「うあァッ!」
死にたくない。こんなところで死んでたまるか!
まだ私は生きるんだ、生きて幸せになるんだ。人間らしい扱いも受けないまま捨てられて、こんな場所で朽ち果てるなど御免だ! 小さな町でひっそりと暮らし、ひっそりと死ぬ。そんな地味でありふれた暮らしだっていい。それでいいから、せめて誰かに必要とされてから死ぬんだ――!
一歩一歩。震え、時折膝を屈しそうになる足は絶望的に遅かった。木のざわめきと殺気が急速に後ろから迫ってくる。
早く、早く早く早く――!
心ばかりが焦っていく。魂だけ肉体から抜けだし、そのままどこかへ飛び去ってしまいそうだ。しかし、肝心の身体は驚くほど鈍重にしか動かない。心は光をも追い越しそうなほどなのに、全く言うことを聞いてくれない。まるで反乱だ、肉体が心に反乱をおこしている!
殺気が髪を掴んだ。硬直した首の骨を軋ませながら、私は振り返る。顔があった。しかも一つや二つではない。黒く円を描く魔獣の体には、びっしりと喜怒哀楽それぞれの表情を浮かべた人間の顔があった。無数の瞳が一斉に私の方を睨みつけてくる。私を見つめるまなざし。どこまでもどこまでも虚無であり、一片の光もなく冷たい。
記憶が重なり、燃え上がる。アリスの勝ち誇った顔、メイドたちの蔑み、父からの拒絶――!
ああ、ああ!
心が崩れていく! 黒が私の内面を染め上げていく!
血が滾り、体が熱くなる。蛇に睨まれたカエルとはよく言ったものだが、私の場合逆だった。脳内麻薬か何かが分泌されたのか、不意に身体の重さが消えたのだ。ここぞとばかりに力を込め、わき目も振らずに走る、走る。森の奥めがけて、枯れ枝を踏み砕きながら私はひたすらに駆けていく。
はたして、どれほど走っただろうか。気がつくと足はまたもとの重さに戻り、靴もぼろぼろで底が取れかけてしまっていた。足が進むたびにかぽかぽと間の抜けた音がする。
恐る恐る振り返る。殺気は感じない。幸い、魔獣は追ってこなかったようだ。こんなぼろぼろの小娘など食ってもうまくないと判断したのだろうか。それとも、恐怖を与えて反応でも楽しむつもりだったのだろうか。どちらにしろ、今の私にとってはついていた。
そうして森の中を彷徨っていると、仄暗い洞窟が見えてきた。瘴気に侵された私の異様な死海の中でなお、その洞窟は真っ黒に見える。その濃い闇が、こちらに向かって手招きをしているように思えた。私はゆっくりと、足を引きずるように歩く。
「ひとが……ひと………が……!」
人がいる――!
洞窟の中を見た瞬間、驚きで体が石化した。人が、人がいる。たったそれだけのことなのに、こらえきれぬほどの感情があふれてきた。いま、私は孤独じゃない。たとえるなら、宗教者が信仰の果てに神と出会ったような心境だ。とにかく今は、自分一人ではない。
本――魔法関連の書籍だろうか、魔方陣が描かれている――を読んでいた銀髪の少女は、すぐに私の存在に気付いた。彼女は私の硬直した体を抱きとめると、恐ろしい顔をする。
「逃げなさい! 早く!」
口に何かが押し込まれた。苦みが広がると同時に、瘴気に侵されていたはずの体が軽くなりしなやかさを取り戻す。少女は少し柔らかくなった私の体を押すと、そのまま洞窟の外まで押し出してしまった。
「どうして……!」
「いいから! 気づかれないうちに!」
多少マシになったとはいえ、弱り果てていた私は少女に押されるがままになっていた。必死に抵抗するが、だんだんと洞窟が遠ざかっていく。
嫌だ、このまま森へ戻るのは嫌だ――!
足をまっすぐに伸ばし、どうにか踏ん張ろうとする。ちょうどいい塩梅に、足元がくぼんでいた。私はそこをとっかかりにして、かろうじて少女の力を支える。しかし少女もよほど私を追い出したいのか、細身の体に似合わぬ猛烈な力で押してくる。
そうして数分後、不意に背筋が凍った。何か、恐ろしいものが来る。先ほどの魔獣だろうか――私は後ろを見たが、そちらにはなにもいない。代わって、さきほどから私の顔を睨みつけていた少女が後ろへ振り向いた。
「ファースト、どこにいる?」
なんだこの声は――!
私は少女の手を振り払い、耳を押さえた。しかし、そんなもの全く役に立たない。声はズンズンと私の頭へ踏みこんでくる。地の底から響いてくるかのごとき声は、土足で私の心を蹂躙した。
「外です」
「外で何をしている?」
「用を足しに……」
「嘘だ。近くに人の気配がするぞ。何をしようとしている?」
「いえ、私は――!」
「よい、戻れ」
少女の足が地を離れた。彼女は洞窟の方へと宙を滑って行き、そのまま吸い込まれてしまう。まさに一瞬の出来事で、少女は悲鳴を上げる暇すらなかった。見えない力にとらえられた少女の体は、何もすることができずに洞窟の闇へと消えていってしまう。
ぞわりぞわり。気配が洞窟から這い出してくる。
それは薄っぺらな影だった。人間の影を切り取り、それをそのまま宙に浮かべたような異様で奇怪な物体だった。輪郭線を陽炎のごとく揺らしつつも、おおむね人型を保っているそれは、私の方へと滑ってくる。
足が動かない!
顔の怪物のときとは違って、私の体はすっかり硬直してしまった。地面に打ち込まれてしまったかのように、直立したまま一切動けない。金縛りというやつだろうか。いや、もしかするとあの異様な影が目に見えない力で私を抑え込んでいるのかもしれない。とにもかくにも、いま私は一切動けないのだ!
「ほう、捨て子か?」
「ッ……」
「余から逃げたいか? ならば逃げてもよいぞ、すぐに野たれ死ぬだろうがな」
体が動くようになった。不意のことだったので、バランスを崩してしまう。私は後ろに仰け反り、倒れそうになった。が、逃げない。異様で気味の悪い奴だが、確かにこいつの言うとおりだ。逃げたところで、私は森の中で野たれ死にするだけだろう。そう思うと、不思議と気分が楽になってきた。後がないが故の境地だろうか。
「見たところお前はいい心をしている。腐りそうで、なかなか完全には腐りきらない、とてもいい具合の心だ。どうだ、余の八人目の子供にならないか?」
「こど……も……?」
「そうだ、愛しきわが子供だ」
自然と首が縦に振られていた。そうしよう、という強い意志があったわけではない。なんとなくというと聞こえが悪いが、いつの間にか私は首を縦に振っていたのだ。そうなることが予定調和であったかのように。
「歓迎しよう。お前、名はなんという?」
「……リーナ。ただの……リーナ」
「なかなか良い名だ。だが、それをまずは捨ててもらおう」
そういった瞬間、影は伸びた。その先端が太くて黒い刺となり、私の胸を貫いていく。熱い何かが身体からほとばしり、急速に視界が暗くなっていいった。足から力が抜け落ちて、上半身が地面にたたきつけられる。そしてそのまま、冷たく冷たく――。
死、新生、生まれ変わり
その日、私の体は歪な進化を遂げた。




