すでに負けそうな男
その日以降、リウもエイメリアも、ヴァルカンのアンダーウッド子爵邸で暮らしている。一般貴族ならばさておき、極めて特殊な〝剣聖〟という地位をいただき、さらには国王一族に隠し子の存在を知られた以上、もはや三者は家族を偽装するしかなくなったからだ。
そうでもしなければ、ヴァシスの〝剣聖〟は不逞の輩であると、他国に認知されてしまう。それは国家の恥となる。ゆえにヴァルカンは、本来何の責任もないのに責任を取る羽目となってしまった。
それからおよそ一年後。
そこには切ない中年男の背中があった。いや、背中こそ哀愁を醸し出しながらも、その顔には隠しきれない幸福があった。
そう、幸せだったのである――……。
戦いのない世界において貴族以上の地位を持ち、偽装とはいえ、美しき女性とともに子を育てるという経験は、ヴァルカン・アンダーウッドにとって、とても。
ああ、毎日が楽しい!
振り返ればこの一年、エイメリアとともに、本当の父母のようにリウを育てた。
リウは初対面時に戦場で抱いた印象の通り聡明で、数ヶ月が経過する頃にはほとんど大人と変わらぬほどの言語能力を発揮し始めていた。さらに次の数ヶ月で年齢相応の学力まで身につけ、あらためて教えずとも他者への思いやりをも持っていた。
それでもヴァルカンは、どこかリウと自身の間に線を引いて見ていた。リウが何者かは知らないが、いつかは本当の両親が現れるだろうと考えていたからだ。
そんなヴァルカンの父性が湧き始めたきっかけは、リウが木剣を握り、ヴァルカンのまねごとを始めた頃からだった。
ヴァルカンは毎朝、必ず剣を握る。
アンダーウッド家の小さな庭園にある大きな木の下で、一通りの型を行うのだ。汗を掻き、水を浴び、それから朝食を取る。
これは〝剣聖〟だからではない。剣を習い始めた小さな頃からの習慣だ。
ところがある日、いつもはまだ眠っているはずのリウが目を擦りながらやってきた。
「おとうさん、なにしてるのー?」
その呼ばれ方は未だ慣れない。
慣れないが、悪い気分じゃない。むずがゆい。いや、むしろ。
ニヤけかけた頬を指で挟んで揉み、それからキリとした顔で振り返る。
「リウか。剣の稽古だ。俺はヴァシスの〝剣聖〟だからな。常日頃からこの国の誰よりも強くあらねばならんのだ。だから、いまは遊んでやれんぞ。母さんのお手伝いをしながら待っていなさい」
「ここでみてていい?」
「む。ああ、まあ……つまらんぞ?」
リウはツヴァイヘンダーを振るうヴァルカンの姿を、大きな眼でじっと見つめていた。
その翌日には、リウは木の枝を持ってきた。
そうして拙いながらもヴァルカンの隣で、その動きをぎこちなく真似始めたのだ。
「こう? こう?」
その姿たるや。
中年男の胸がキュンとした。
「怪我をするぞ」
「だいじょーぶ」
だが数日も経過する頃にはその拙さは抜け、言語能力の習得時同様に、みるみるうちに吸収していく。
やがて木の枝が木剣に変わった。どうやらエイメリアに与えられたらしい。
何日かが経過する頃、ヴァルカンはその姿に興味を持った。
ずいぶんと様になっている。ろくに教えてもいないのに、真似るだけで。
「本来なら剣など貴族の子女が覚えるものではないが……本物の剣を持ってみるか?」
「いーの!? やったっ!」
そうして剣を与えた。むろん、刃は挽き潰している。模造の剣だ。だが重さは木枝や木剣とは比べものにならない。
「おもいぃ~……」
リウは数日、よたよたしながら剣を振った。だが週が明ける頃には徐々に刃の揺れが減っていく。またしてもみるみるうちに様になった。
一ヶ月も経たずに、リウは木剣同様に真剣をも振るえるようになった。さらにはこの頃、ヴァルカンが修めていた型のすべてを覚えた。
信じられない。己ですら、十年以上も要したというのに。
「すごいな、リウは! 将来は〝剣聖〟にだってなれそうだ!」
「ほんと!? えへへ……」
はにかみ、照れたように笑う。
かわいい。
天才だと思った。抑えつけていた愛情が蓋を押し上げた。他人の子から、我が子になった瞬間だった。
リウはヴァルカンやエイメリアをよく真似た。それがたまらなく愛しいのだ。
ヴァルカンは重いツヴァイヘンダーを置き、刃を潰したショートソードを構えた。そうしてリウに、本格的に剣を教え始めた。
今度は対面でだ。
「いいか? こうきたら、こう流せ」
「うん。受けるだけよりも、相手の体勢も崩せるよね」
「お? おう、そうだ。よくわかったな。賢いぞ」
打ち合い、打ち合い、打ち合う。
上段に反応しして受け流し、中段を引いて躱して、下段への追撃は、かわいらしく跳んで躱す。ひらり、ひらり。スカートが揺れる。
ああもうバカ可愛い。
ヴァルカンの目尻が垂れる。鼻の下が伸びる。伸びる。
ふわり、ブーツで着地し、リウが体勢を低くした。
チリと、首筋の毛が逆立った――のを意識した次の瞬間、地面を超低空で這うように飛んできたリウの刃が、ヴァルカンの足を鋭く払う。
ギィィン!
火花が散って鋭い音が響いた。
すんでのところで刃は止まっていた。ヴァルカンの反応がコンマ以下でも遅れていたら、足首から下はなかったかもしれない。
もちろん刃は潰しているけれど。それでも。
――は? いやいやいやいや、は?
にじみ出た汗が伝った。
焦った。無意識に油断していたのだろうか。驚愕した。戦場ですら、そうあることではない。
足を刈られれば否応なく転び、あとは死を待つだけとなる。
「あ~、防がれちゃったぁ……。昨日から一生懸命お父さんに勝つ方法を考えてたのに。悔しいぃぃ……」
「……そんな付け焼き刃で……?」
全身が総毛立つ。
いや、気のせいだ。油断だ。俺は油断をしていた。たぶん。そうだとも。いまのは油断だった。
咳払いで自身と自信を取り戻す。
「はっはっは、まだまだだな。だが、いまの奇襲は悪くはなかったぞ、リウ。おまえはやはり剣士としての才能がある。天賦の才だ。俺が保証するよ」
「ほんとに!? お父さんってヴァシスで一番強い〝剣聖〟様なんだよね!? わたし、お父さんみたいになれる!?」
お父さんみたいになりたい……お父さんみたいになりたい……お父さんみたいになりたい……。
甘やかな言葉が脳内でリフレインする、この心地よさよ。
先ほどまでの焦りはどこへやら、ヴァルカンの表情がとろけた。
うちの子、かわいい。
「なれるとも」
「お父さん、大好き!」
「ごほ、ごほん……。んふ、むふふ」
とか思っていたのに……。
その日以降、リウの剣の鋭さはみるみるうちに増していった。
教え初めて半年が経過する頃には、ショートソード同士ではほとんどヴァルカンと遜色のない動きをしていた。加えて小柄であることで、見失ってしまう。
鋭く、素早く、そして力強い。十歳とは思えぬほどにだ。
否。この頃にはもう十一歳となっていたか。
リウはいつものようににっこりと微笑んで、愛用のショートソードを構えた。
「お父さん、今日も修行よろしくねっ」
「お、あ、ああ……」
ヴァルカンは思った。
まずい……。そろそろ負けそう……。
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