再び森へ
アーレンドラスの森に入った。深く息を吸い――ゆっくりと吐き出す。
苔むした岩に、湿った空気。大地を覆う緑の匂いに、息づく生命のぬくもり。何百何千年と経た樹木のざわめき。
入り口はまだ木々がまばらだ。足下の植物も、草原のそれとほとんど変わらない。
蔦を払うまでもなく歩ける。
苔むした斜面を下りて沢を越え、再び上がる。大した起伏ではない。
以前も越えた道だ。
だが沢を越えたと同時に、徐々に樹木や蔓延る植物が変化していく。足下にはシダ植物が蔓延り、ひしめき合う樹木は少しでも太陽を浴びようと枝葉を伸ばす。結果として森は人間の侵入を拒むように、暗く淀んでいく。
アーレンドラスの森はある一定の距離を踏み越えたとき、その世界の様相をがらりと変化させる。牙を剥くのだ。突然に。
森の比較的浅いところの捕食者であったレヴニーが被食者へと変わるとき、ヒトもまたそう変異する。
そこにすら、まだ至っていない。至っていないのに、これほどとは。
「勘弁してくれぇ……」
足音を雷轟のように轟かせ、眼前に迫ってくる群れ。
最初はレヴニーだった。やつらの群れが大挙して、一切速度を緩めることなく押し寄せてきたのだ。多い。五十、いや、三桁近くはいる。おそらくひとつの群れではない。複数の群れが重なり合って移動している。
まずい、この数とこの勢いは――!
こんなもの、雪崩や崩落と同じだ。剣をいくら振るったところで、どれだけ腕の立つ達人だったとしても、ひとりふたりの人間に防げる程度の流れではない。
踏み砕かれて終わりだ。
とっさに大岩の裏側へと飛び込む。直後、ヴァルカンは群れに呑まれた。
「~~ッ」
大気が震え、大地が激しく鳴動する。
ぎゃあぎゃあと耳障りな鳴き声がそこかしこから聞こえた。
頭を抱えて目を閉じることしかできない。
だが。
「……?」
恐る恐る、瞼を上げる。
岩陰に身を隠したヴァルカンを視認しても、彼らの流れは止まらなかった。
振り向いて牙を見せつけ威嚇をする個体はいたけれど、しかし襲いかかってくることはなく。再びくるりと進行方向へと向き直り、両足を揃えて跳ねるように走り去っていく。
それどころかまるで急流が大岩を避けるかのような流れができている。まるで嵐の日の荒れ狂った濁流だ。
「おい、おい……っ、なんだ、それ……っ」
それだけだ。どういうわけかそれだけで、彼らは最後の一体までヴァルカンを襲うことなく、ただ通り過ぎていった。
すさまじい足音を打ち鳴らしながら、一目散に。
安堵の息を吐いて、ヴァルカンは無意識に抜いていた剣を納めた。
「素通り……?」
違う。
トルキア村を目指しているのか!
まずい。あれほどの流れ、木柵や落とし穴程度の防衛策ではどうしようもない。騎士の数も到底足りない。
踵を返して追いかけようとして、けれども踏みとどまる。
己が駆けつけたとて、何ができようか。
そのときだ。
「――っ」
自身の右手側を、別の群れが流れていく。気づけば左手側でもだ。
みなトルキアを目指して濁流のように押し寄せていく。どれもこれも数が異様に多い。まるで森中のレヴニーすべてを合わせたかのようだ。
「……まずいぞ……。……あれは……?」
レヴニーだけではない。
八つ目の魔犬の群れ十数頭がレヴニー以上の速さで後から駆けている。レヴニーを捕食する魔獣だが、彼らは追いついても喰いつかない。むしろ、最初から追いつこうとはしていないように見える。
「追い立てているのか……?」
八つ目の魔犬。トルキア村の落とし穴にもいた魔獣だ。
肩高はおよそ成人男性の半分程度ながら、異様に盛り上がる筋肉と、毛皮ではなく強固な鱗を持つこと、そしてその凶暴性から、動物ではなく魔獣に指定されている。
本来は狼のように群れで行動する野生の魔獣でありながら、幼体の頃から育てれば比較的懐きやすいため、軍用に特化された飼育をされることもある。むろん、その禍々しい見た目と凶暴な性質から、一般用の愛玩動物になることはない。
ガリアナリス帝国との戦場でも、一時期は猛威を振るった軍用犬だ。
おそらくいまは牧羊犬のように使われているのだろう。
レヴニーを追い立て、ある一方向へと向かわせるために。
だとするならば、魔猿グラズヘイガ同様、十中八九はロサーダに操られている。
トルキア村の受難を食い止めるには、押し寄せる魔獣の群れから村を守りつつ、その元凶を断たなければならない。
村の方はきっとファーガスがなんとかする。
自身がいますべきことは、一秒でも早く元凶たるロサーダを討つことだ。
木漏れ日すら射さない森の奥――……。
先ほどまでとは打って変わって、森全体がひとつの生命であるかのように、何やら蠢いているように思える。魔獣の声だけが響き、鳥や動物は身を潜める。
薄闇を見つめて、ヴァルカンはつぶやいた。
「……いくか」
トルキアはきっと大丈夫だ。全幅の信頼を置いている親友がいる。
……きっとセビアのときのような悲劇にはならない。いいや、させない。自身もまたあの未熟だった頃とは違う。今回はまだ間に合う。
研ぎ澄ませ――……。
わずかに揺れていたヴァルカンの瞳が、まるで何かを見据えるかのように一点に向けられる。
そうして、しばらく。
彼は確信を得たかのように、迷うことなくただ一方向へと向けて歩き出していた。その背後から、足音を消して蔓延る植物に紛れながら魔獣が迫る。
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