名前を覚えて
少女のその仕草や笑顔が、さして意味のないものだったと理解できたのは、それからしばらくしてのことだ。
少女は何も喋れなかったのだ。何かを言おうとしても「あ~」だの「う~」だの、意味のない言葉だけを発した。やがてヴァルカンは、少女がまだ言葉を知らないことに気づく。それこそ赤ん坊のようにだ。
「……」
顔を歪めて眉間を揉む。
なぜかその様子を見て、少女もまたヴァルカンの真似をした。眉間を揉んだのだ。ただし、こちらは少し楽しそうに。
纏うローブや顔立ちからは、先ほどの赤ん坊を彷彿とさせる。特徴的な金銀色のヘテロクロミアなど、そうそういるものではない。自身に対する警戒心のなさも不可解だ。まるで知己のように懐いている。
向かい合って座っていても、いつの間にか隣に移動してきて、ぺたりと身を寄せてくる。かわいい。
「……おまえ、やっぱりあいつ……?」
「おまえ、やっぱりあいつ」
ただのオウム返しだ。意味のないもの。
だが。
「言葉覚えんの早えな……」
「ことばおぼえんのはえーな」
すごい。いや、十歳前後だったら普通かそれ以下だが。
ニィィと歯を見せて笑った。
かわいい。不覚にもそんなことを考えて、頭を抱える。
そもそも、あまりの事態に考えようともしてこなかったが、あの赤ん坊からして存在が不可解だったのだ。戦場でひとりローブを引き摺り、馬や騎士に蹴られることもなく無傷で彷徨っていたのだから。
なぜそこにいたのか。親が社会見学に激戦地に連れてきた……わけがない。
なぜ無事だったのか。あの騎馬の数だ。誰も足下など見ていなかった。
なぜ己に手を伸ばしたのか。周囲には山ほど人がいたのに。
何より。
なぜ一晩で成長した。伝説の天使族か、あるいは魔族か、はたまた未知の竜人族か。
「ふ~……」
いつの間にか少女はヴァルカンの身体を這い上がり、肩の上から頭をこねくり回して遊んでいる。
「やめてください」
「やめてください? やめてくーださーい!」
「んもう……」
仕方なく両手で挟むように抱えて、地面に戻した。
この有様では名前など聞くだけ無駄だろう。ここに置き去りにするという選択肢はないが、連れ帰って何か問題を起こさないだろうか。このペースで成長されては、数日で寿命が尽きそうだが。
騎士団に報告して里親を募集する、というのも難しい。馬鹿正直に報告しては、実験動物として魔導研究所送りだ。そうなれば何をされるかわからない。最悪、解剖という可能性もある。
当の本人は、猫がお気に入りの人間に匂いをつけるように、頭を頬にこすりつけてくる。ゴリゴリして痛い。やめてください。
両手でがしっと挟んで押し返すと、不思議そうな顔を見せてきた。
「……まあ、生還できてから考えるか」
元来、気楽な性分である。
幸いにも、昨夜以降どういうわけかガリアナリスの帝国騎士団に追跡の気配はない。
ヴァルカン・アンダーウッドと言えば爵位こそ下級貴族でありながら、数々の武勲をあげてきた騎士ゆえに、ガリアナリス帝国でもそれなりに有名なのだが。それゆえに追っ手らしき影が一切見えないのも不可解だ。
この少女のもたらす幸運のおかげか。
「ん~」
なぜか至近距離から顔を近づけてきた少女の頬を両手で挟み込み、少し押し下げて気がついた。
ローブに刺繍がある。何やら竜を模したような小さな紋様だ。
「竜?」
「リウ?」
竜。リウ。
頭を掻いて考える。
そうしておもむろに、彼女の鼻先を指さして言った。
「呼び名がないのは不便だ。いいか、いまからおまえはリウだ。わかるか、リウ? 名前が、リウ」
「リウ。おまえは、リウだ」
リウがヴァルカンを指さしてそう言った。その指先をヴァルカンは自身の手でねじ曲げて、少女へと向け言い直す。
「違う違う。――わたしは、リウ」
言葉の後半だけ声を高くして言った。裏声だ。
その意図を理解できたらしい。
「わたしは、リウ」
「そう、リウ」
「わたしは、リウ!」
ヴァルカンがうなずくと、リウが嬉しそうにぴょんと跳ねた。
次にヴァルカンは自身を指さす。
「ヴァルカン」
少女がヴァルカンを指さして言った。
「あるかん?」
「ん、ん~。ヴァルカン」
「ばりかん!」
さっきまで正確に言葉をトレースしていたのに、なぜ己の名前だけ間違うのか。
齢四十の中年男は不条理を感じた。そう言えば自身の小隊で副官を務めている女性から聞かされたことがある。
中年男性の多くはかわいいもののことが好きなようですが、かわいいものは往々にして中年男性を嫌っています、と。
切ない。
頭を振って心底どうでもいい思い出を振り払った。この笑顔に邪気はない。
「惜しい。もうちょいだ。――ヴァルカン」
「ヴァルカン」
ヴァルカンがうなずく。再び少女が嬉しそうに跳ねた。
自身を指さして「リウ」と言い、ヴァルカンを指さして「ヴァルカン」と言う。
ヴァルカンがうなずきながら少女の宝石のような髪を撫でた。
「そうだ。頭はいいな。何でもすぐに覚える。……俺の名前以外は」
ヴァルカンは軽く根に持っていた。
そんなことにはまったく気づかず、リウは何度も自身とヴァルカンを指さし、名前を言い続ける。
「リウ! ヴァルカン!」
嬉しそうだ。かわいい。
まともに報告などしようものなら、研究所行きは避けられないだろうが。そこは年齢のことだけ伏せておけばいい。そうすれば孤児院くらいには入れるだろう。
そんなことを考えたとき、リウの腹が鳴った。
「?」
「腹が減ったのか。糧食は鎧と一緒に投げ捨ててしまったから何もないぞ」
いまはとにかく生きて帰還することだ。
指笛を鳴らす。
しばらく待っていると、上流の方角から愛馬がやってきた。水を飲み、草をたらふく食べて眠り、活力を取り戻したようだ。顔つきがいい。
その首を撫でる。
「無事で何よりだ」
外しておいた鞍をつけてツヴァイヘンダーを装着し、鐙に足をかけてから振り返った。
「来るだろ?」
そうして手を伸ばすと、リウは迷うことなくヴァルカンの手を握った。少女を先に馬上へと押し上げて、自身は彼女を背後から抱え込むように手綱を握る。
「落ちないように気をつけろ」
「うう」
こうしてヴァルカン・アンダーウッドは謎の少女リウを連れて、ヴァシス北方に位置する城塞都市まで無事に帰還したのだった。
自身がとんでもない偉業を果たしてしまっていたことに、まるで気づかないままに。
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