ごゆっくり
ずいぶんと濃い一日を過ごした翌日、身体が疲労で動かない。
目覚めたときはもう翌日の日暮れどころか夜となっていた。当然、遠足から帰還したリウも、なんだかんだと彼女の送迎をしてくれたエリックも、すでに館に戻っていた。
遠足から戻った日の翌日は、学校が定めた休日だ。
驚くべきことにリウは、ヴァルカンが目覚めたときにはもう庭で剣を振っていた。もはやそのバイタリティには呆れる他ない。あれだけの大立ち回りを演じておいてこれとは。
そんな娘の姿を二階の寝室の窓から見下ろし、ヴァルカンは苦虫を噛み潰したような顔をする。
どうやら今日も日課の五千回素振りを行っているらしい。
「これが若さか……」
引き換え、自身の肉体の不甲斐なさよ。
全身は気怠さに包まれ、手足はもちろん背中や腹まで筋肉痛だ。リウに倣って鍛え続けていたから、軽度ではあるものの。
それでも年齢の差を感じてしまう。
当然だ。ヴァルカンは目覚めたばかりとはいえ、もう夜なのだから。
「こんな時間まで寝ていて、何を言っているの。あと、あの子も夕方くらいまでは寝てたから」
エイメリアが呆れたようにつぶやいた。
寝間着姿だ。
ポットから水を入れ、ヴァルカンに差し出す。それを受け取った寝起きのヴァルカンは、一息に飲み干した。
五臓六腑に染み渡る。
「ありがとう」
「いいえ」
時刻は夜。空には月が浮かんでいる。
昨夜の今頃は生死の境を彷徨っていたとは思えないほどに穏やかだ。
「いや、だってあんなことがあったのでは、さすがに――」
言いかけて、少し考える。
そうしてエイメリアへと視線を向けた。
「もしかして事情をご存じない? リウから何も聞いていないのか?」
そうだ。昨夜――というか今日は帰ってくるなり水を浴びて、食事も取らずにそのままベッドで倒れたのだった。
そうして目覚めたのは半日後だ。
「ご存じありませんわよ? やっぱりリウも関係しているの? あの子、一泊の遠足から帰ってくるなりヴァルカンと同じように水だけ浴びてすぐに寝たのよ」
「何も話していないのか」
「起きてから何があったかを尋ねても、何も教えてくれないのよね。で、問い詰めてようやく絞り出した一言が、お父さんに聞いてぇ……、だったわ」
頬に手を当てて首を傾げている。金色の髪が乾いた砂のようにさらさらと流れた。
まるで一枚の絵画のように美しいとヴァルカンは思う。
「あ~……えっと……。他言はしないでもらえるなら」
「わたしが誰に話すのよ」
そう言えばもうエイメリアは退役したのだった。
同僚はもういない。そもそもかつてでさえ、エイメリアが自身以外の同僚とプライベートで親しくしているところを見たことがない。他者と関わるときは、ほとんどが業務連絡くらいのもので。
そんな愛想でも騎士たちからはよく口説かれていたから、ヴァルカンは自分が男性避けのために彼女に選ばれたのだろうと思っていた。
「殿下とか?」
「殿下なんていつ会うのよ。それに機会があったとしても、ひとりで会ったら面倒だから会わない。手癖の悪い男性は好きではないわ」
ヴァルカンは閉口する。
口さがないとはこのことだ。相手は王族だというのに。
「もしかして殿下にも口説かれたことがあるのか?」
「あなたと偽装結婚をする前はね」
そう言えば、王妃の座に興味はないかと、よく冗談めかして言っているのを見たことがあったようななかったような。
あったな。あった。
リウを拾って生還した日もだ。
「以前から尋ねたかったのだが」
「なに?」
「なんで俺は警戒されてないんだ?」
エイメリアは不機嫌そうに眉をひそめる。
「は?」
「いや……」
「警戒する必要があるの?」
その目があまりに怒りに満ちて見えたものだから、ヴァルカンは慌てて首を振った。
「ないないないない。安心してくれ。偽装に協力してくれているエイメリアが嫌がるようなことはしないよ」
「ないんだ。へえ、そうなんだ」
そう言ったあと、エイメリアは首を左右に振りながら長い息を吐いた。
安堵の息か、あるいはため息か。ヴァルカンには判断がつかない。会話の流れから、おそらく前者であろうと思うことにした。
「そ、それでな、昨夜のことなのだが」
「ええ」
ヴァルカンは先日からトルキア村周辺で起こったレヴニーの一件から騎士団の出撃までを説明した。もちろん、エイメリアに隠すことはない。
当然ファーガスを助けてその予定を空けてもらうために、と付け加えることも忘れない。
「要するに、騎士団の任務を正体を隠しながら手伝ったってわけね?」
「うん」
「そこにどうしてリウが出てくるの?」
いや、まったくそうだ。言われてみれば、本当に。心の底から。
自身ですら未だ呑み込めない。
「あいつは俺より先に、トルキア村を救うために森に入ってやがったんだ。遠足の行き先がトルキア村だったらしい。むろん行き先は近場に変更されたようだが、まあ、リウがトルキアの危機を知った経緯はそういうことだ」
自分はリウに追いつくという独善的な理由のために動いたというのに、リウは人助けのため、先に動いていた。未熟なことで常に頭を悩ませている自分などより、よほどできた人間だ。
それから魔猿と呼んだ新種の魔獣のこと、ガランドルフ侯爵家の嫡子を救えたこと、ともに戦い、どうにか勝利したことを語った。
エイメリアは眠そうにしながらも、いちいちうなずいてくれた。
やがてすべてを話し終えた頃、唐突に寝室のドアが開かれる。
「お父さん! 起きてる!?」
「こらこら、ノックはしなさいと何度も言ってるだろう、リウ」
いつの間にか素振りは終わっていたようだ。水を浴びたのだろう。湿ったプラチナ色の髪をしていた。
右は黄金の瞳、左は銀の瞳、髪はプラチナでは、やはり宝石のようだ。何より表情が元気いっぱいで。
「ご飯一緒に食べようよ! お母さんが準備してくれてるよ!」
「あ、そうだったのか」
エイメリアは肩をすくめる。
「準備はしたわ。さすがにもう冷めてるけど。わたしはとっくに食べたから、ふたりでどうぞ。先に寝ているから」
「そうか。いつもありがとう、おやすみ、エイメリア」
碧眼を少し細めて、エイメリアが微笑んだ。
「感謝より挨拶より、そこは、愛してる、って言って欲しいものね」
「んぐっ!? こ、子どもの前で……」
そもそも関係性からして所詮は偽装だろうに、などと考える。女はすごい。心にもないことを平然と口に出せてしまうのだから。
けれども、そうとは知らないリウは、両手で口を塞いで叫んだ。
「きゃーっ! お邪魔したら悪いから先に行ってるねっ! 遅かったらお父さんの分も食べちゃお! むしろごゆっくり!」
「食べるなっ、すぐ行くからっ」
廊下へ飛び出していったリウを見送って、ヴァルカンは振り返った。エイメリアに視線を向け、言いづらそうに頭を掻く。
「ああ、その……いまのはよくない冗談だぞ……」
ヴァルカンは少し考えるそぶりを見せたあと、咳払いをした。
「エイメリアはわかっていないだろうが、俺だったからいいようなものの、男というのは短絡的に誤解をしてしまう生き物だ。だから、あまりそういう挑発はしない方がいい。――リウ~、待ってくれよぉ~」
リウを追いかけて部屋を飛び出したヴァルカンを見送ってから、エイメリアが真顔でつぶやいたことには気づかない。
――あなたが一番わかっていないのだけれど。
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