怒れる父
傷だらけだ。
リウも、しかし魔猿もだ。
リウは逃走しながら戦っていた。魔猿の体毛に覆われた足は湿っていた。最初はリウを追ううちに沼や川に踏み込んだかと思っていたが、そうではない。
植物が踏み荒らされ露出した岩肌には、べっとりとした血糊が貼りついていたのだ。人間であれば致死量だ。
それでも魔猿の動きに変化はなかった。怪我による鈍化も、疲労による鈍化もだ。
ヴァルカンは両者を追いながらすぐに理解する。
リウのショートソードでは、いくら斬ったところで小傷だ。その切っ先は、骨はおろか重要な血管にすら簡単には届かない。レヴニー程度の体躯ならともかく、巨体、それも人外の筋肉に守られたものでは。
それは己のロングソードであったとて、さほど変わりはない……が。
わかっている。普段のヴァルカンならば理解できている。
だが、このとき。ここまではかろうじて持ち合わせていた冷静さすら、欠片もなくなっていた。
ヴァルカンは――ヴァルカンの視界は真っ暗な闇が赤に染まるほどに怒っていた。血流がマグマのように沸騰し、血管を膨張させる。
思考は一点に収束する。追い詰められつつあるリウだ。
転がるように逃げ、追いつかれては反転し、魔猿の脚部の隙間を抜ける。その際に刃を振るうことも忘れない。
だが到底、致命傷には至らない。
血が爆ぜる。怒る魔猿が人間など潰せそうなほどの巨大な掌で大地を叩いた。違う。あろうことか、叩きつけ浮き上がった大地を両手で掬い上げ、リウへと放ったのだ。
――アアアァァァァァーーーーーーッ!!
リウが息を呑むのがわかった。
無数の礫が凶器となってリウへと迫る。
驚くべき反射でリウは振り返りながら身をよじってそれらを躱し、けれども細かな砂粒までは回避しきれず、全身を刻まれる。
服が裂かれて血が飛散した。
「~~っ」
歪む表情。それでも両脚で着地し、再び逃げ始める。
魔猿は素早いリウを捉え切れていない。時々捜すように視線を揺らしている。だがリウもまた魔猿に致命傷を与えられない。一進一退――とはいえない攻防だ。
魔猿には痛みこそあれど死の危険性はない一方で、リウはほんの少しでも礫が掠めただけで肉体を持って行かれてしまう。
それだけではない。魔猿の一歩はリウの十数歩だ。体躯の差がでかすぎる。全力で動けば動くほどに体力は削られていく。
先に待つのは至極当然の結末だ。
それを容易に想像したとき、男の怒りは爆発した。
自身が体躯や能力に劣る人間であること。自身の武器では致命傷を与えることができないこと。そんなことはもう念頭にもなかった。
冷静さの欠片もなかった。ただ怒り、走り、魔猿を追った。
血まみれのリウが振り返り、魔猿の背後に見えるヴァルカンの表情にギョッと目を剥く。
男が抱いた怒りは、それほどだったのだ。
ヴァルカンの顔は、リウがかつて見たことがないほどに怒りに満ちたものとなっていた。
「おと――ッ!?」
ガギリィと奥歯が鳴った。
その隙間から声が漏れる。怒りと憎しみと苛立ちに満ちた声が。
「……貴様ァァァ、うちの娘にぃぃぃ――ッ!!」
その声に魔猿が反応して振り返った。
そのときにはもう、魔猿の視線を振り切るようにヴァルカンは地を蹴って空を高く舞っていた。およそ人間に可能な範囲での跳躍力ではない。
滑る岩を蹴り、樹木の幹を蹴り、さらに枝を蹴って、高く、高く。
おっさんが舞う。
つかんだ剣の柄が軋む。
だが、速い。魔猿の反応が。
すぐさま視線を上げると同時に、空中のヴァルカンへと右の豪腕を伸ばす。つかまれば終いだ。人間など簡単に握りつぶされてしまうだろう。
しかしその豪腕にショートソードが突き刺さった。リウだ。この機を逃せば倒せないと理解し、自らの唯一の武器を投げたのだ。
ゆえに、ヴァルカンに回避のための動作はない。
中空でロングソードを逆手に持ち替えて。さらなる声で。
「――ン何をォ、さらしとンじゃああああぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
そう叫びながらヴァルカンは魔猿の肩に降り立ちながら、強靱な骨も毛皮もないその眼球と頭蓋の隙間へと、ロングソードの刃を突き下ろしていた。
瞼を破り眼球の上部から滑り込んだ刃は骨にぶつかることなく、切っ先で脳を貫く。その上で、ヴァルカンは柄を持つ手を返した。
ぐじゅり、と刃が内容物を掻き回す嫌な感触が伝わってくる。
――……。
肩に取りついた男を叩き下ろそうと持ち上げられていた魔猿の左手が、突然力なく垂れ下がった。
そうして魔猿は断末魔の悲鳴すら上げることすらなく、静かに数歩後退し、踵が岩にあたったところで、ゆっくりと背後へと倒れていく。
「ふー……」
ヴァルカンは剣を引き抜いて魔猿の肩を蹴り、空中で後方回転しながら着地する。次の瞬間、地響きを起こしながら魔猿は仰向けになって倒れていた。
びく、びくと痙攣する魔猿の呼吸が、徐々に止まっていく。脳を剣で掻き回したのだ。いかに頑丈な魔獣の肉体といえど、ひとたまりもないだろう。
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