焼き立てのアップルパイ
足早に一軒の民家へと駆け込み、ドアを叩く。
無論、無用な誤解を招く前に仮面は外した。
「エリック! いるか!?」
王都にある老執事エリックの家だ。
至るところに飾られた観葉植物や家屋の周囲に植えられた植物たちは、彼の妻であるラーナ夫人の趣味だそうだ。
小さな庭には、アンダーウッド家の馬車が停まっている。
すぐさまドアが開かれ、ラーナ夫人が顔を覗かせた。皺が刻まれ、髪はもうすっかりと白くなっているが、彼女の仕草は貴族もかくやと思うほどに、いつも上品だ。
「あら、アンダーウッド子爵。ごきげんよう」
「ごきげんよう、ラーナ夫人。エリックはいるかい?」
ラーナはにっこり微笑んで、家の方を振り返った。
「あなたー、子爵がお見えよー」
奥からバタバタと音が聞こえる。どうやら執事服を着込んでいるようだ。急いでいるのだから、服装などどうでもいいというのに。
だが踏み込んだり叫んだりするわけにもいかない。
逸る気持ちを押し隠しつつ、ヴァルカンは待つ。
「ねえ子爵、ちょうどよかったわ。いまアップルパイが焼き上がったところなの。もしお時間がありましたら、ご一緒しませんこと?」
そう言えば屋内から甘く良い香りが漂ってきていて、唾液腺を刺激される。昼食も取り損ねているし、腹も減った。
何度か夫人のパイをいただいたことはあるが、あれは絶品だ。いつもはエリックが手土産に持ってくる冷めたものだが、焼き立てともなればさらに美味かろう。
けれども。
断腸の思いで苦笑する。
「すまない。ものすごぉ~く残念なのだが、いまは急ぎの用なのだ」
「あらあら。でしたらお包みします?」
「よいのか?」
ラーナが愛嬌のある笑みを浮かべて、腕まくりをした。
「ええ、ええ。子爵には主人がいつもお世話になっていますから。お安いご用だわ。いけない、急いでいるのでしたわね」
そう言って屋内に戻っていった。
入れ替わりで執事服に身を固めたエリックが慌ててやってくる。
「旦那様、いかがなさいましたか」
わざわざ着替えなくてもいいというのに、律儀な男だ。
「休憩中にすまん、エリック。馬車の馬を一頭借りたい。少々用事ができてな。トルキア村まで足を運ぶことになった」
「承知しました。すぐにご用意いたします」
エリックは庭の草を食んでいた馬を、馬車から取り外す。鞍を馬車内に常備していたのはさすがだ。調達の手間が省ける。気の利かせ方が尋常ではない。
そのとき、ラーナ夫人が布製の包みを持ってやってきた。
「どうぞ、お持ちくださいな」
「ありがとう、夫人」
「いいのよ。それより、リウちゃんやエイメリアさんはお元気?」
ヴァルカンが苦笑いを浮かべた。
「どちらも元気すぎるほどだ。特にリウはな。まるで空を舞う鳥のごとくだ」
剣でももうちょっとで自身を超えそうなくらいに。
心の中で付け加える。
「それはよかったわ。リウちゃんに、また遊びにいらっしゃいとお伝え願えます?」
「む? あいつ、ここにお邪魔したことがあったのか」
初耳だ。
まだ赤ん坊のような気がしていたのに、ちゃんと人間関係を育んでいる。嬉しくもあり、少々不安にもなる。
「ええ。パイの焼き方を教えてって言われたわ」
「迷惑をかけてなければよいのだが」
「あら、とてもよい子よ」
知ってるぅ!
鼻の下を伸ばして同意したいところではあるが、立場もあるため弁えた。
「お父さんに食べさせて驚かせるのって言ってたわ。あ、これ秘密だったかしら」
我慢はしたが、堪えきれなかった。
鼻の下が伸びる。
「そ、そうですかー! 我が娘ながら思いやりに溢れて育っておりますなー! 父親思いが過ぎて、少々子どもっぽいのも困りものですが! ンなははは!」
「うふふ、子爵やエイメリアさんの育て方がよかったのね。わたしたちには子も孫もいませんから、とても楽しかったわ」
「でしょうなあ! いやあ、いい子すぎて困りますわー!」
そこには度を超えた親馬鹿――否、もはや馬鹿親ともいうべき姿があった。
そのとき、手綱を引いて馬を連れたエリックがやってきた。その姿を見て、ヴァルカンは正気を取り戻す。
「旦那様、どうぞ」
「うん。感謝するぞ、エリック」
手綱を渡され、すぐに跨がる。
「何を仰いますか。私がお預かりをしているだけで、もともとはアンダーウッド家の馬でしょう」
「そうなのだが、おまえが世話をしてくれて助かるのだ。――よし、では行ってくる。それと、夕刻にオルガドまで向かいエイメリアに伝えてほしい。数日内には戻るゆえ心配はするな、と」
ファーガスたち騎士団が手こずるということは、どういうわけか相当な数のレヴニーが森から溢れ出しているはずだ。それらの駆除と並行して騎士たちの捜索もこなさなければならないとなれば、どれだけの日数を要するか想像がつかない。
「おや、珍しい。任務でございますか?」
かぶりを振る。
「いや、立場上、俺に任務は下りてこない」
「うふふ、なんたって子爵は〝剣聖〟様ですものね。いくら国王様だって、アンダーウッド子爵には命令は下せないのよ。いっちばん偉いんだから。ね?」
だいぶ違うが、まあ時間ももったいないし笑って誤魔化した。
「今回に関しては少々思うところがあってな。詳しくは語れんのだが」
「まあ! 極秘任務ですのね! 格好いいわ!」
夫人の暢気さには、もはや苦笑を浮かべるしかない。
いまのところ、トルキア村での出来事は騎士団の機密情報だ。それに、自身がそこに関わることも歓迎されていない。他言すればもめ事が増える。
「任務というわけではないのだが、まあ、色々……な」
そう言い淀むと、ラーナが困ったような表情で頬に手を当てた。
「色々……。あらあら、浮気はだめよ、子爵?」
「しとらんよっ!?」
そもそも結婚もしてないのに浮気も何もあったものではなかった。
「ラーナ、あまり引き留めては悪い。旦那様はお急ぎのようだ」
「そうね、そうね」
エリックが丁寧に頭を下げる。
「奥様への伝言の件、確かに承りました。お気をつけていってらっしゃいませ」
「パイは温かいうちに食べてね、子爵」
「ああ」
あいかわらずマイペースなご婦人だ。
ふたりの言葉にうなずきながら、ヴァルカンは鐙で腹を蹴って馬を走らせるのだった。再び仮面を装着したのは、王都門を飛び出してからだった。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。




