赤ん坊を拾った
聞こえる。まだ聞こえる。それどころか声が大きくなってきている。
「……!?」
そうしてようやく、それに気づく。
信じられない光景だった。ヴァシスの王国騎士団を追うガリアナリスの帝国騎士団らが、戦場となった大草原を、大河の流れのように踏み砕きながら馬を走らせている。
その足下に、赤ん坊がひとりだけ立っていたのだ。
馬に踏まれることもなく、誰に見咎められることもなく、泣きながら、よたよたと歩いていたのだ。
信じられない。魔物の類ではないだろうか。
年の頃は二つほどか。旅をしてきたかのような、子供用のローブを引きずっている。
生きているだけで奇跡だ。一瞬の後には騎兵らに踏み砕かれたとて何ら不思議はない。これを幻と言わずしてなんと言おうか。
幻覚の類か。判断がつかない。
「俺の頭がまだ狂ってないことを祈るばかりだ」
いまにも潰されそうな赤ん坊へと、馬の鼻先を向ける。
ヴァルカンの存在に気づいた騎兵らが流れを変えて、こちらへと向かってきた。
先頭の騎兵は名のある騎士だろうか。趣味の悪い金色に輝く鎧を装着している。重量を考えればメッキなのだろうが。
思わず声をあげた。
「おい! 待て!」
彼らとの間には赤ん坊がいる。足下を這うその小さな存在に誰も気づいていない。黄金の鎧を纏う騎士の槍の穂先が上がった。ヴァルカンのそれよりも太く長い突撃槍だ。赤ん坊には目もくれていない。
でかい。人馬ともに体躯が。ゆえに余計に地を這う小さな者に気づかないのか。
「貴様がアンダーウッドか。ここで死ぬがいい」
「くそッ!」
聞こえていない。このままではあの子はやつの馬に潰されてしまう。やむを得ん。
正気と狂気の狭間で、ヴァルカンは使い慣れた槍を頭上に持ち上げた。そうして一瞬の躊躇いもなく、間髪容れずに投擲する。
戦場で武器を手放すなど、我ながら何をしているのか。幻覚かもしれないのに。などと考えてしまう。
投げられた槍は赤子の背後まで迫っていた馬の首を貫いて、背に乗せていた黄金騎士の胸をも貫いた。死者を乗せた馬が膝を折り崩れていくと同時。
ヴァルカンの存在に気がついた赤ん坊が、短く幼い両腕を伸ばした。精一杯に。
「……」
まるで「あなたを待っていた」とでも言わんばかりにだ。
視線が合う。瞬間、電撃魔法を浴びたかのように痺れた気がした。
「現実であってくれよ……ッ」
両手を伸ばした赤ん坊に応じるように、ヴァルカンもまた右の鐙から足を外して限界まで左に全身を傾け、左腕を守る硬い籠手をも外して捨てた。
「つかめ!」
「ぅ……」
言葉など通じる年齢ではないことをわかっていながらも、そう叫んでいた。
そうして敵の刃が届く寸前、すり抜けながら赤ん坊を左腕でかっ攫う。
ぬくもりがあった。この場に似つかわしくない、まるでミルクのような甘い匂いがした。赤ん坊が大きな目で視線をヴァルカンへと向けてきた。
そうして笑った。返り血にまみれた男を見てだ。
「んぎ、ぃぃ……!」
どうにか馬上に戻り、ふらついた馬の体勢を整える。
そうして気づいた。
いつの間にか包囲網が薄くなっていたことに。どうやら追撃する騎兵隊の幅は、さほど広くはなかったようだ。このままこの方角になら、うまく切り抜けられるかもしれない。
尽きたと思っていた運が、ここへきて向いてきた。
「はは、俺たちは運がいいな。いや、おまえが俺にとっての幸運の天使なのか」
「ぅ……?」
きょとんとしている。
「かわええ……」
だが、槍は失った。敵はいまもこちらを追ってきている。
馬にくくりつけているツヴァイヘンダーは両手剣だ。馬上では手綱を放さねばならないし、当然赤ん坊を抱えてはいられなくなってしまう。
考えている暇はない。籠手に引き続き、へこんで傷だらけとなった胸鎧をも取り外す。そうして追撃に迫ってきた騎士にぶつけるように投げ捨てた。
ベルトを外し、自身の腹に赤ん坊を密着させて締め直す。
「苦しくないかい? 首が据わってて助かるよ」
「ぅぅ」
「うははは、いちいち返事をしてくれるとは、なかなか聡いな」
「ぅー」
赤ん坊は褒められると、どこか得意げな表情をしたように見えた。もっとも、言葉など通じる年齢ではないはずなのだが。
そうして馬から取り外したツヴァイヘンダーの刃を、右の肩に乗せた。
ここから先は手綱を放すため、細かな進行方向の調整はできなくなる。行き先は馬次第の運否天賦。願わくば愛馬が戦場からうまく逃れてくれることを祈るばかり……なのだが、先ほどまで確かに感じていた不安は不思議となくなっていた。
このどこの誰ともわからない赤ん坊が、幸運をもたらす天使のように笑っていたからだ。すっかりと安心しきった顔で。
左手でツヴァイヘンダーの柄と、右手でリカッソをつかむ。
この重さ。しっくりくる。やはり己は槍より剣が得意だ。
「さーて、行こうか! しっかりつかまってろよ、バブ公!」
「ぅー」
こうしてヴァルカン・アンダーウッドは赤ん坊を抱えたまま、包囲網の外周を築いていた敵騎士らのただ中へと飛び込んでいった。
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