序章
目の前に置かれた紅茶を見た瞬間、私はすべてを思い出した。
マドレーヌ・オルブライト、十七歳。公爵家の一人娘にして、侯爵令息ガイル・ローデンの婚約者。そして一年後、王都の広場で処刑される女。
(……私、悪役令嬢じゃん)
同時に蘇ったのは、佐藤里子という二十二歳の日本人として生きてきた記憶と、この世界を舞台にした恋愛小説の内容だった。
物語の主人公は、男爵令嬢のセシル。身分こそ高くないものの、誰にでも優しく聡明な彼女は、王立学院でガイルと出会い、やがて身分違いの恋に落ちる。
当然、それを許さないのが婚約者のマドレーヌだった。
幼い頃からガイルを愛していた彼女は、彼の心を奪ったセシルを憎み、取り巻きを使った嫌がらせを繰り返した末、ついには暗殺まで企てる。当然ながら計画は失敗し、すべての悪事を暴かれたマドレーヌはガイルから婚約を破棄され、そのまま処刑台へ送られる。
そしてガイルとセシルは幾多の困難を乗り越えた末に結ばれ、二人の幸福な未来を予感させて物語は幕を閉じる。
(いやいや、ちょっと待って。二人はそれでいいけど、私は死ぬじゃん!)
恋愛小説として読んでいた頃なら、マドレーヌの結末を自業自得だと思えた。けれど、その首を落とされるのが自分となれば話はまるで違う。
ガイルには悪いが、恋愛と命を天秤にかけて迷うほど私は乙女ではない。
(よし。ガイルはセシルにあげよう)
そう決めた私は、マドレーヌが犯すはずだった悪事を片っ端から潰していった。
取り巻きがセシルの教科書を隠そうとすれば止め、夜会で恥をかかせようと相談を始めれば却下し、ガイルとセシルが楽しそうに話しているところへ出くわせば邪魔をせずに立ち去った。
最初のうちは、ガイルを見かけるたびに胸の奥が妙にざわついた。マドレーヌとして十七年間生きてきた記憶まで消えたわけではなく、彼女がどれほどガイルを好きだったのかも知っているからだろう。
それでも、誰かを傷つけてまで手に入れた男と幸せになれるとは、里子だった私には思えなかった。
やがてガイルとセシルは、原作と同じように互いを意識するようになった。私は二人の邪魔をするどころか、ときには周囲からセシルを庇いながら、自分が処刑台へ向かう道を一本ずつ塞いでいった。
そうして迎えた、本来なら私が断罪されるはずだった卒業記念の舞踏会。
ガイルとの婚約は、両家の話し合いによって円満に解消された。
誰からも罪を告発されず、衛兵に腕を掴まれることもなく、自分の足で会場を出たときは、さすがに泣きそうになった。
(生き残った……)
その後、ガイルはセシルと婚約し、二人は多くの人々に祝福されて結婚した。
これで原作は終わった。
ところが、死刑を回避することばかり考えていた私は、そこで初めて重大なことに気づいた。
(……で、私はこれから何すればいいの?)
十八歳にして婚約者なし。原作が終わってしまった以上、この先の未来について知っていることも何一つない。
だったら、もう好きに生きればいい。
そう考えた私は、以前から気になっていた実家の領地に手をつけることにした。
土地は豊かなのに、収穫した作物をそのまま売っているため利益が少ない。加工して保存期間を延ばせば、もっと遠くへ売れるのではないかと思い、父を説得して小さな工房を作った。
もちろん、日本で二十二年間生きていたからといって、異世界で何でもできるわけではない。材料も違えば道具も違い、知識だけではどうにもならず大損したこともあった。
それでも試して、失敗して、また別の方法を考えた。そうして作った商品が少しずつ売れるようになると、工房で働く人が増え、領地の外から商人も訪れるようになった。
小さな工房はやがて商会となり、かつて社交界で悪評ばかりを集めていたマドレーヌの名前も、いつしか別の意味で知られるようになっていた。
アルベルトと出会ったのは、そんな頃だった。
王家の血を引く名門貴族で、若くして広大な領地を任されている男。原作にも名前だけは登場していたものの、ガイルとセシルの恋には一切関わらず、私も重要人物として意識したことはなかった。
最初は商会の取引相手に過ぎなかった。
けれど、新しい商品を作れば興味を持って話を聞き、私が無茶な事業を始めれば呆れながらも力を貸してくれる。逆に失敗して大損したときには、慰めるでも笑うでもなく、当たり前のように次の話をした。
「それで、次は何をするつもりだ?」
「失敗したばっかりなんだけど?」
「だから聞いている。君がこれでやめるとは思えない」
悔しいけれど、そのとおりだった。
仕事の話をするために会っていたはずなのに、いつからか何でもないことまで話すようになり、嬉しいことがあれば真っ先に知らせたいと思う相手になっていた。
死刑を回避するため、ガイルへの恋を捨てたときには、もう恋愛なんてしなくても構わないと思っていた。自分で稼げるようになってからは、結婚せずに生きていく人生だって悪くないと思っていた。
だからこそ、アルベルトから結婚を申し込まれたとき、自分がこんなにも嬉しいことに一番驚いたのは私だった。
そして今日、鏡の中には純白の花嫁衣装をまとったマドレーヌがいる。
ガイルへの執着からセシルを殺そうとして、処刑されるはずだった悪役令嬢はもういない。ガイルとセシルは結ばれ、私は自分の仕事と居場所を作り、原作には存在しなかった人生の中でアルベルトと出会った。
随分と遠回りしたけれど、ようやくここまで来た。
もう処刑される未来に怯える必要もなければ、誰かの物語に振り回されることもない。これからは好きな仕事を続けながら、好きな人と一緒に生きていける。
これで私は、幸せになるはずだった。




