由良紬葵は、夕暮れに秘密を分かち合う④
ハッとして息を呑む。
──生徒会。
さら会長。
海寧先輩。
さゆり先輩。
それから、演劇部の紫苑先輩。
四人とも、こちらを見ている。
その空気は初日に感じた威圧とは少し違っていた。舞台袖から、一人の役者の成長を見守る観客のような視線。値踏みというよりも、興味という言葉のほうが近いのかもしれない。それでも、四人の佇まいには、幼い頃からこの学院の頂点にいることを疑ったこともないという静かな矜持が、変わらず滲んでいた。
「随分と馴染むのが早い子ね」
その声音は穏やかだった。手元の駒の成長を見守るような、余裕に満ちた響き。
「最初は怯えた子鹿かと思ったけれど、もうクラスの人気者なのかな」
紫苑先輩が肩を竦め、柔らかな笑みの奥で、瞳だけがこちらの一挙一動を丁寧に採点しているかのようだった。
「人の懐へ入るのがお上手なのでしょうね」
さゆり先輩も微笑む。その三人の会話を海寧先輩だけは黙って聞いていた。
腕を組み、視線はただ一人──私だけへ向けられている。その瞳は相変わらず鋭い。しかし、初日に向けられた明らかな警戒とは、どこか質が違うように思えた。
「海寧」
さら会長が隣を見る。
「あなたはどう思う?」
少しの沈黙。西日が長い廊下を橙色に染め、建物の影から四人の影を石畳へ伸ばしていた。
海寧先輩はようやく口を開いた。
「……変わらんな」
「え?」
紫苑先輩が不思議そうに首を傾げる。
「無防備すぎる。……あいつはきっと、他人を疑うことを知らない」
海寧先輩は淡々と言う。その視線は、まだ私から逸れない。
「誰にでも真っ直ぐ手を差し伸べ、誰にでも同じ笑顔を向ける。だからこそ危うい。……そんな気がしている」
それを聞いた会長が小さく笑う。
「あなたらしい評価ね」
海寧先輩は答えない。ただ静かに続けた。
「この学院には、善意だけでは越えられない壁がある」
その言葉には実感が滲んでいた。自分自身も一度その壁にぶつかったことがあるかのように。
誰よりも規律を重んじ、誰よりも隙を見せない海寧先輩だからこそ、その一言には削り出したような重みがあった。
「私はまだ、梅沢杏奈という人物を評価してはいない。……だが、」
一拍。ほんの少し瞳が細められる。
「見誤っていた点は訂正しよう」
会長が興味深そうに首を傾げた。
「見誤っていた点、……ねぇ?」
海寧先輩は夕日に照らされる私を見つめる。
「あいつは、人を変えようとはしない。その者が本来持つ良さを、素直に認める。それは……簡単なようで、最も難しい」
私はもちろん、その会話など知る由もない。ただ、生徒会の皆さんがこちらを見ていることだけは分かった。
(やっぱり……)
まだ見られてるんだ。
そう思うと少し緊張する。
自然と背筋が伸びた。
そんな私を見て、海寧先輩は小さく鼻を鳴らした。
「……少しは学んだようだな」
その呟きは誰にも聞こえないほど小さかった。その横顔を見たさら会長だけは、くすりと笑う。
「海寧」
「なんだ」
「あなた」
「?」
「思ったより、あの子を気に入っているのね」
空気が止まる。
紫苑先輩が吹き出した。
「まさか海寧が?」
さゆり先輩まで、上品な仕草で口元を押さえ、肩を震わせている。海寧先輩だけが真顔だった。
「あり得ん」
即答。
「私は職務を遂行しているだけだ」
その語気には、わずかな苛立ちすら滲んでいた。感情を悟られること自体が、彼女の誇りを揺るがす小さな敗北にほかならなかった。
「そう」
会長は面白そうに笑う。
それは新しい玩具を見つけた子供のような、無邪気でいて、どこか意味深な笑みだった。
「なら、そのまま見届けなさい。梅沢杏奈という一生徒が、この学院で何を得て、どう変っていくのか」
海寧先輩は答えなかった。ただもう一度だけ、校門へ向かう私の背中を見つめる。
夕日に照らされた赤いボブヘア。
大きく腕を振って歩く癖。
令嬢らしからぬ、少し大股な歩き方。
それが、どこか真っ直ぐで。
海寧先輩は無意識に、自分の指先へ視線を落とした。
初日。杏奈の顎を持ち上げた、あの右手。
不思議だった。
冷静であるはずの自分が。
なぜ、あの真っ直ぐな瞳だけは忘れられないのか。
答えの出ない問いを彼女は指先に残る微かな感触とともに、そっと胸の奥へ仕舞い込んだ。
海寧先輩は小さく息を吐くと、その感情に名前を付けることなく踵を返した。
生徒会の四人も、それに続く。
廊下には、規則正しい靴音だけが静かに響いていた。
◇
夕暮れの校門を抜けると、頬を撫でる風が少しだけ冷たくなっていた。
十一月も半ば。
街路樹の銀杏は黄金色に染まり、夕陽を受けてきらきらと輝いている。私は歩みを緩め、今日一日の出来事を思い返していた。
狂言『柿山伏』
舞台いっぱいに広がった、何もない空間を"ある"と信じさせる力。芸術って、こんなにも人の心を動かせるんだ。それは、パパが作品に向き合う姿とどこか重なって見えた。
「今度、感想を聞いてみようかな」
ふと笑みが零れる。きっとパパなら、嬉しそうに何時間でも語ってくれるに違いない。
それから、つむつむ。今日初めて知った、本当の彼女。流行のメイクが好きで、おしゃれも大好き。だけど同じくらい、茶道も狂言も、日本の伝統も好き。そのどちらも彼女自身なのだ。私はそんな彼女をとても素敵だと思った。
(また、一緒に狂言の話をしたいな)
そんなことを考え、歩いていると自然と口元が緩んでしまう。
編入してまだ一週間も経っていない。それなのにこの学園には、少しずつまた明日と笑い合える人が増えてきた。そう思うと、不思議なくらい足取りが軽くなった。
「……よーし!」
私は小さく拳を握る。
まだ授業にはついていけない。
お嬢様言葉もぎこちない。
歩き方だって、きっとまだ田舎っぽい。
失敗ばかりだ。
それでも。一歩ずつなら、きっと前へ進める。この学園で、私は私らしく生きていきたい。そう強く思えた。
◇
帰宅した私は、玄関を開けるなり温かな匂いに包まれた。
「杏奈、おかえり!」
「今日はね、芸術鑑賞の日だから、フランス料理をイメージしてみたんだ!」
エプロン姿のパパが、得意げに両手を広げる。テーブルには彩り豊かな夕食が並んでいた。
「あなた、芸術鑑賞でどうしてフランス料理なのよ」
ママが呆れたようにため息をつく。
「芸術は国境を越えるから!」
「意味が分からないわ」
つい笑ってしまう。
「ほら見てよ杏美さん!」
「杏奈が笑ったから、私の勝ちね」
「何と戦ってるの」
賑やかな食卓。
温かな笑い声。
湯気の立つスープの香りが、部屋いっぱいに満ちている。
私は椅子に深く腰掛け、今日を振り返る。
今日も、大変な一日だった。でも。少しだけ。本当に少しだけ。この学園が好きになれた気がする。その時の私は、まだ知らなかった。
私が少しずつ馴染めてきたと安心しているその裏で。生徒会副会長・仙石海寧だけは──今もなお、私を誰よりも注意深く見つめ続けていることを。
そして、その視線が……私自身の運命を変えていくことを。




