由良紬葵は、夕暮れに秘密を分かち合う③
その日の放課後。私は図書室の大きな机に向かい、芸術鑑賞レポートと格闘していた。
『狂言『柿山伏』を鑑賞して感じたことを、自身の言葉で記しなさい』
……自身の言葉で、が難しい。
「うーん……」
小さな唸り声が無意識に出ていた。すると、隣の席に誰かが腰を下ろす気配がした。振り向くと、紬葵ちゃんだった。
「お、うめめもレポート?」
「つむつむも?」
「うん」
彼女は小さく笑う。
「でも、ここ私語禁止なんだよね」
「あ」
確かに。周囲の生徒たちは、皆一様に俯き、静かにペンを走らせている。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、机の並ぶ列に等間隔の影を落としていた。
その時、紬葵ちゃんがノートの端へ何かを書き込み、こちらへ差し出した。
『レポート進んでる?』
私はつい吹き出しそうになりつつ、ペンを受け取る。
『全然。感想はあるのに文章にならない』
それを読んだ彼女は、くすっと笑った。
『分かる。アタシも』
静かな図書室で、私たちは筆談を始める。
不思議な時間だった。
声を出して話すより、かえって相手の言葉をじっくり読んでいる気がする。
紙の上を滑るペンの音だけが、二人だけの秘密のように小さく響いていた。
『うめめは何が一番印象に残った?』
私は少し考えてから書いた。
『山伏が必死に言い訳してるところ』
『あは、まさかのそこ!?』
『だって人間っぽかったから』
彼女は一瞬、驚いたように目を見開き、それからゆっくりとペンを走らせる。
『人間っぽい、か。……その感想、好き』
その文字を見た瞬間、なぜか目の奥がじんとした。
紬葵ちゃんは続けて書く。
『アタシ、伝統芸能ってすごいものだと思われるのは嬉しいんだけど、遠いものだと思われるのは嫌なんだ。もっと気軽に笑ってほしい』
私はその文字を何度も読み返した。
今日、講堂で彼女が見せていた表情を思い出す。本当に好きだからこそ、誰かにも楽しんでほしい。
そんな気持ちだったんだ。
私はペンを握り直す。
『今日、つむつむと見られてよかった』
書いた瞬間、自分でも少し恥ずかしくなった。だけど、消したくはなかった。
紬葵ちゃんはその一文を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりとペンを持つ。
『……うめめのばーか、反則!』
『え?』
『そういう真っ直ぐなの』
彼女は小さく唇を尖らせる。
『ずるい』
そう書いたあと、そっとノートを閉じた。そして、机の下で。ほんの一瞬だけ。彼女の指先が、私の指先へ触れた。
驚いて顔を上げる。
紬葵ちゃんは前を向いたまま、口元だけをそっとほころばせていた。
声はない。
その触れた温度だけが、静かな図書室で伝わってきた。指先が離れたあとも、その温もりだけは、しばらく私の手のひらに残っていた。
ページをめくる音。
遠くで司書の先生が本を整理する微かな物音。
窓の外では、夕日に照らされた銀杏の葉が風に揺れている。それなのに、私の心臓だけがやけに騒がしい。
(……今、つむつむ)
触った……よね?
きっと偶然。
そう思おうとしても、胸の鼓動は落ち着いてくれない。私のノートに、もう一度ペン先がそっと触れる。
顔を向けると、紬葵ちゃんが新しいページをこちらへ向けていた。
『さっきね』
私は続きを待つ。
『うめめが「かっこいい」って言ってくれたじゃん?』
私は静かに頷いた。
『あれ、嬉しかったんだ』
その文字は小さく、丁寧だった。
『本当に?』
そう書き返すと、彼女はペン先を止め、少しだけ眉を下げて笑う。
『アタシ、小さい頃から家の人に言われてたんだ』
ペン先が少し止まる。
『もっとおしとやかに』
『もっと和服を着なさい』
『もっと家に相応しく』
『もっと』
『もっと』
『もっと』
短い言葉が並ぶたびに、彼女の筆圧が少しだけ強くなる。文字の輪郭が濃くなっていくのを、私はただ黙って見ていた。
『もちろん家族は嫌いじゃない』
『実家も大好き』
『伝統も好き』
『染物も好き』
『茶道も』
『狂言も』
『全部好き』
そこまで書いてから、彼女は少しだけ目を伏せた。
『でも』
『ギャルのアタシも……ちゃんとアタシなんだ』
私はその文字から目を離せなかった。
教室で見せる明るい笑顔。
流行のコスメ。
少し崩した制服。
全部、彼女自身。
そして今日見た、舞台を愛する横顔もまた彼女自身だった。
私は迷わずペンを取る。
『じゃあ、全部つむつむじゃん!』
紬葵ちゃんの手が止まる。
『ギャルなのも』
『伝統が好きなのも』
『茶道部なのも』
『狂言が好きなのも』
『全部つむつむ!一つだけ選ぶ必要なんてないと思う』
彼女は何も書かない。ただ、じっとその文字を見つめていた。
夕日が斜めに差し込み、机の上のノートを淡い橙色に染めている。
私は少しだけ照れつつも、最後に書き足す。
『私は今のつむつむが好き』
書いた瞬間、自分で恥ずかしくなった。
(ああっ!!)
す、好きって!違う!そういう意味じゃなくて!
慌てて消そうとすると、紬葵ちゃんがそっと私の手首を掴んだ。
「……」
声は出せない。
彼女は首を横に振る。
消さないで。
そう伝えるように。
それからゆっくりペンを持ち、
『ありがと』
たった四文字。その文字だけが、少し滲んでいた。
私はその滲みを見てしまう。
(……あれ?もしかして……泣いてる?)
顔を上げる。紬葵ちゃんは笑っていた。いつものギャルらしい笑顔じゃない。肩の力が抜けた年相応の優しい笑顔だった。
その笑顔があまりにも綺麗で。私は見惚れてしまった。
その時だった。
閉館五分前を告げるチャイムが図書室に響いた。
二人同時に顔を上げる。
「あ……」
声が揃って漏れてしまい、私たちは顔を見合わせる。そして、同時に吹き出した。
「ふふっ」
「……あはは」
小さな笑い声。司書の先生が「静かにお願いしますね」と優しく微笑む。
私たちは慌てて頭を下げた。
◇
図書室を出る頃には、校舎はすっかり夕焼け色に染まっていた。渡り廊下の窓から差し込む橙色の光が、二人分の影を長く伸ばしている。
「今日はありがと」
私が言うと、紬葵ちゃんは鞄を抱え直して笑う。
「こっちこそ」
「レポートも終わったし」
少し沈黙が流れる。不思議と気まずくはなかった。その沈黙さえ心地いい。歩調まで、いつの間にか自然と揃っていた。昇降口へ向かう途中。紬葵ちゃんがぽつりと呟く。
「今日さ、狂言見て思ったんだ。人って見た目だけじゃ分かんないなって」
「それ、私も思った」
「でしょ?」
「つむつむのこと、もっと知りたくなった」
紬葵ちゃんはぴたりと立ち止まり、驚いたように私を見た。夕日を受けた彼女の頬が、ほんのり赤く染まっている。
「……うめめ」
「ん?」
「そういうこと」
彼女は困ったように笑った。
「無自覚で言うの反則だってば。まったくもう」
耳元を薄らと赤くした彼女は私より少し前を歩き始める。
「帰ろ!」
「あ、待って!」
私は慌てて追いかける。
秋風が二人の間を吹き抜け、色づいた銀杏の葉が幾枚も宙を舞った。夕焼け色に染まった渡り廊下を私は紬葵ちゃんの少し後ろから歩いていた。
窓の外では、銀杏並木が風に揺れ、黄金色の葉が一枚、また一枚とゆっくり地面へ舞い降りていく。
「じゃあ、また明日ね!」
昇降口で靴を履き替えた紬葵ちゃんが、いつもの明るい笑顔を向けて手を振る。
「うん。また明日!」
私も笑顔で手を振り返す。紬葵ちゃんは軽く踵を返すと、ゆるく巻かれてサイドに結ばれたオレンジ色の長い髪を揺らして、校門へ向かって歩き出した。その背中はどこか軽やかで、今朝よりも少しだけ胸を張っているように見えた。
(……よかった)
今日、彼女が話してくれたこと。
伝統が好きなこと。
実家を誇りに思っていること。
それでも「今の自分」も否定したくなかったこと。
私はただ、その全部が素敵だと思っただけだった。だけど、その当たり前が、誰かにとっては救いになることもある。そんなことを少しだけ知れた気がした。
私は満ち足りた気持ちのまま歩き出そうとして──ふと、背筋に小さな寒気が走った。誰かに、見られている。
ゆっくり振り返る。
渡り廊下の先。夕日を背にした四つの影が、静かに立っていた。




