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美澄瑛良は、気まぐれに手を差し伸べる①

十一月も終わりへ近づき、天ノ川女学院の木々はすっかり冬支度を始めていた。中庭を彩っていた銀杏の葉は風に舞い、石畳の上へ黄金色の絨毯を敷き詰めていく。そんな景色とは対照的に、学院全体には目に見えない緊張が漂っていた。


期末考査。


それは天ノ川女学院に通う生徒たちにとって、自らの教養と努力を示す大切な節目だった。


休み時間になっても教室は静かで、誰もが参考書や問題集へ視線を落としている。廊下を歩けば、聞こえてくる話題は試験範囲や課題のことばかり。


「今年の古典は難しくなるそうですわ」


「数学は昨年より応用問題が増えると伺いました」


「副会長が作成なさった対策プリント、とても参考になりますもの」


そんな会話を耳にするたび、私は小さく肩を縮めてしまう。


(やっぱり、この学校のみんなって本当にすごいな……)


編入してまだ日も浅い私にとって、この学院の授業進度は想像以上だった。前の学校なら難なく解けていた問題も、ここでは応用の入り口に過ぎない。


「梅沢さん、大丈夫?」


昼休み。お弁当を広げた藍ちゃんが心配そうに声を掛けてくれる。


「最近、ずっと参考書と睨めっこしてるでしょ」


「あはは……その、うん。ちょっとね」


苦笑いしか返せない。その様子を見ていた茉子ちゃんが、大げさなくらい両手を広げた。


「もうさー!一人で抱え込むタイプだよね、梅沢ちゃんって!困ったら茉子たちのこと、頼っていいんだから!」


「ありがとう。でも、まずは自分で頑張ってみたいんだ」


そう答えると、二人は顔を見合わせて笑った。


「そういうところ、真面目だよね」


「無理だけはしちゃ駄目だからね!」


二人の優しさが嬉しくて、私は何度も頷いた。


一方、教室の窓際。相変わらず瑛良ちゃんは、一人静かに本を読んでいた。周囲の喧騒とは別世界にいるような静けさ。文庫本ではない分厚い数学書。ページをめくる指先には迷いがなく、その横顔は今日もどこか近寄り難い。


(すごいなぁ……)


私はついつい見惚れてしまう。授業中も、休み時間も、放課後も、彼女はいつも本を読んでいる。それなのに、不思議と孤独には見えなかった。むしろ、一人でいることを自然に受け入れているような、穏やかな空気をまとっている。


「あ」


ふいに瑛良ちゃんが顔を上げた。


視線が合う。


私は慌てて会釈する。


すると彼女も、僅かに首を下げた。


それだけ。


たったそれだけのやり取りなのに。なんだか少しだけ嬉しくなる自分がいた。



その日の放課後。私は重たい足取りで図書室へ向かった。天ノ川女学院の図書室は、校舎の一角とは思えないほど広い。


天井まで届く書棚。


磨き上げられた木製の机。


柔らかな間接照明。


紙とインクが混ざり合った落ち着いた香り。


ここへ来ると、不思議と心が静かになる。私は参考書を何冊も抱え、一番奥の席へ腰を下ろした。


数学。


英語。


古典。


積み上げられた教科書を見て、小さく息を吐く。


(……今日は数学を終わらせよう)


そう決めて問題集を開いた。しかし、開始から三十分もしないうちに手が止まる。


「……あれ?」


解けない。公式は覚えてる。途中式も書ける。それなのに最後だけ答えが合わない。何度計算し直しても同じだった。


(どこで間違えてるんだろう……?)


消しゴムの跡ばかりが増えていく。ページは灰色に擦れ、焦りだけが胸の奥へ積もっていった。


小さく息をつき、シャーペンを置く。


ほんの少しだけ首を上げると、数席離れた場所で瑛良ちゃんが本を読んでいた。相変わらず分厚い専門書を膝に広げ、周囲の物音などまるで存在しないかのような静かな横顔。


私が視線を向けても、こちらを見る気配はない。


(……やっぱり、自分で頑張らなきゃ)


もう一度問題へ向き直る。数字を書き直し、式を組み立てる。結果は変わらなかった。私は困ったように眉を下げ、問題集を閉じようとした。


その時だった。


机の横に、静かな影が落ちる。顔を上げると、瑛良ちゃんが立っていた。


「……」


何も言わない。


図書室では私語は禁止だ。彼女は私の顔を見るでもなく、開きっぱなしの問題集へ静かに視線を落とした。私は一瞬戸惑ったものの、声は出さず、口の動きだけで伝えてみることにした。


「……お願いしても、いい?」


瑛良ちゃんは頷くと、問題集を手元へ引き寄せた。長い睫毛が伏せられ、整った横顔がゆっくりと数式を追っていく。その姿は、難解な論文を読む研究者のようだった。


制服のポケットから付箋を一枚取り出し、さらさらと文字を書き込む。書き終えると、それを私の問題集へそっと貼り付けた。


『四行目。展開式の途中で括弧を一つ落としてる』


私は慌てて見直した。


「あ……」


思わず声が漏れそうになり、慌てて口元を押さえる。


本当だ。


一つ括弧を書き忘れただけで、その後の計算が全部ずれてしまっていた。そんな単純なミスだったなんて。私は恥ずかしさで頬を熱くしながら、瑛良ちゃんを見上げた。


「ありがとう」


小さく唇だけを動かす。


瑛良ちゃんは相変わらず無表情のまま、小さく頷いた。席へ戻る直前、一枚だけ新しい付箋を机へ置く。


『焦ると、字が雑になる』


それだけだった。


自分のノートを見る。確かに、後半になるほど数字も記号も乱れている。


(そんなところまで見られてたんだ……。は、恥ずかしい)


でも、不思議と嫌じゃない。彼女は「頑張れ」とも「大丈夫」とも言わない。必要なことだけを、必要な分だけ伝えてくれる。その距離感が、どこか瑛良ちゃんらしかった。


私は付箋を大切にノートへ貼り直し、もう一度シャーペンを握る。


今度は焦らず、一行ずつ確かめるように式を書いていく。


──数分後。


最後の答えに二重丸をつけた瞬間、小さな達成感が胸いっぱいに広がった。


顔を上げる。


数席先では、瑛良ちゃんがもう何事もなかったかのように専門書へ視線を戻していた。


先ほどの出来事など最初から存在しなかったかのように。


それでも知っている。あの付箋一枚がなければ、私はきっと今日も答えへ辿り着けなかった。誰にも気付かれないよう、小さく頭を下げる。


その一礼に気付いたのかどうか。


ページをめくる音だけが、静かな図書室に優しく響いていた。



それからというもの放課後の図書室は、私にとって少しだけ特別な場所になった。


数学で手が止まる。


英語の長文に首を傾げる。


古典の敬語表現で混乱する。


そんな時、決まって机の横へ静かな影が差す。


「……」


声はない。けれど、瑛良ちゃんは私のノートを一瞥すると付箋を一枚取り出して短く書き込む。


『主語が違う』


『この公式』


『ここは助動詞』


必要最低限の言葉だけ。それ以上は何も書かない。私もまた、大げさに礼を言うことはしなかった。小さく会釈をして、付箋をノートへ貼る。それだけで十分だった。図書室の静寂を壊さず、それでも、ありがとうはちゃんと伝わっている気がした。


そんな日が何日か続いた頃には、不思議な習慣ができていた。


問題が解けなくなる。


私は少しだけ問題集を机の右端へ寄せる。


しばらくして瑛良ちゃんが席を立つ。


本棚へ向かう途中を装っているのか、それとも偶然なのか。私には分からない。彼女は、私の机の前を通りかかるたび、ほんの数秒だけノートへ目を落とすのだ。


一枚の付箋が置かれる。


『二段目』


『そこは約分』


『惜しい』


たったそれだけ。それだけなのに、私の頭の中で絡まっていた糸がするりとほどけていく。


(……本当にすごい)


解説は短い。なのに、どう考えればいいのかが驚くほど分かりやすい。教え方まで上手なんだ。私は付箋を見つめながら、何度もそう思った。


瑛良ちゃんは、用事が済めばすぐ自分の席へ戻ってしまう。振り返ることもない。雑談をすることもない。相変わらず分厚い専門書を読み続けている。──それなのに。


(今日は瑛良ちゃん、来ないのかな)


そんなことを考えてしまう自分がいた。


気付けば私は、問題が解けないことよりも、瑛良ちゃんが図書室へ来ているかどうかを先に探すようになっていた。



ある日の放課後。彼女の席は空いていた。


(今日はお休みかな)


そう思って一人で問題を解いてみる。いつもなら十五分ほどで終わる問題に三十分近くかかってしまった。


ようやく解き終えた頃。


静かに椅子が引かれる音が聞こえた。


振り返る。


そこには、少しだけ肩を揺らし、珍しく荒い息を整えている瑛良ちゃんが立っていた。


いつもは乱れのない髪や制服の着こなしも、どこか慌ただしさを物語っている。


よほど急いで図書室へ駆け込んできたのだろうか。


(……珍しい)


そんな姿を見るのは初めてだった。瑛良ちゃんは私と目が合うと、一瞬だけ動きを止める。それから何事もなかったように、自分の席へ向かった。


私はほっと表情をやわらげる。


(よかった)


どうしてよかったと思ったのか、自分でも分からない。まだ、ほとんど会話もしたことがない相手なのに。


ただ、彼女が来てくれただけで、図書室がいつもの景色に戻ったような気がしたのだった。


──それから数日が過ぎた。

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