ようこそ、天ノ川女学院生徒会室へ④
掌に伝わる仄かな温もりが、緊張で強張っていた指先を少しずつ解いていく。
「私の前の学校は、この学院とは比べ物にならないくらい小さくて、本当に普通で、でも、そこでは……」
私はゆっくりとその頃の日常や、自分が部活の助っ人として過ごした日々のことを話し始めた。
彼女たちの理想の庭とは対極にある、泥臭くて、でもどこか温かい日常。
話し始める前は緊張で震えていた指先も、紅茶の温もりと彼女たちの真剣な眼差しに触れているうちに、次第に落ち着きを取り戻していった。
「部活の助っ人だなんて、頼りにされていたのね」
優しい声でさゆり先輩がそう言ってくれて、私は少し照れてしまった。
「へへ、そうだと嬉しいんですけど。それからお休みの日は、クラスの友達と出かけたりもして」
そんな何気ない話をしていると、会長の瞳に輝きが宿る。
「お友達とは、どこへお出かけするの?何をして遊ぶのかしら?」
「カラオケとか?ショッピングですかね?他にも……」
そんな話をしていると、羨ましいと言わんばかりの色の混じった溜息が聞こえてきた。
「え?」
自分の中では、ごくごく普通のなんでもない話をしているつもりだったから、溜息の理由がわからず、不思議そうな顔で会長を見てしまった。
それを見ておかしそうに笑うさゆり先輩と、何となく会長の反応の意図を察している様子の海寧先輩。
「会長はね、そういう普通のことに憧れているのよ。……ううん、それは会長に限った話じゃなくて、私もそうかもしれないし、もしかしたら海寧ちゃんだって。……ねえ?」
さゆり先輩が海寧先輩に視線を投げると海寧先輩は目を逸らした。
「やっぱり梅沢さんの話は新鮮でとっても楽しいわ!」
会長の瞳には、かつて見たことのないほど純粋な憧れが宿っていた。
ふと窓の外に目を向けると、先ほどまで琥珀色だった西日はとうに姿を消し、校舎のシルエットは深い藍色の帳に包まれていた。いつの間にか、時計の針は私たちが話し始めた時間を大幅に過ぎている。
「あら……、こんな時間まで引き止めしてしまってごめんなさい。お話が楽しすぎて、すっかり時を忘れてしまったわ」
会長が少しだけ慌てたように立ち上がると海寧先輩もまた、正確な動作で自分の手元を片付け始めた。海寧先輩は、私を一瞥すると先ほどまでの鋭さは鳴りを潜め、どこか穏やかな表情でこう言った。
「梅沢、また気が向いた時にでも顔を出すといい」
その言葉は、彼女なりの精一杯の歓迎なのだと分かった。さゆり先輩もまた、最後の一口を飲み干した私にこれからの校舎の静けさを思わせるような優しい微笑みを向けてくれた。
「今日の話の続きも、またゆっくり聞かせてね。暗くなってきたから送っていきたいところだけど、会長も私もこの後の書類整理が少し残っているから……」
「ごめんなさいね。梅沢さん、今日は本当にありがとう。あなたの飾らない言葉に、今日一番の癒しをもらったわ」
生徒会室を出る際、会長は扉の前まで見送りに来てくれた。廊下に出た私の後ろから、椅子の引かれる音がして、ヒールの硬質な足音が響いてくる。振り返るとそこには海寧先輩の凛とした姿があった。
彼女はすでに羽織った制服のブレザーの上からコートを着込み、完璧な身のこなしで鞄を手にしている。
「さら、卯ノ花。あとの書類は、二人で頼む。私が梅沢を送っていく」
「海寧ちゃんが?それは心強いわね」
さゆり先輩が頷き、会長もまた「お願いできるかしら」と、海寧先輩に全幅の信頼を寄せるような眼差しを向けた。
「構わん」
海寧先輩は顔を背けそう言ったが、その表情は先ほどより少しだけ柔らかい。私は慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます、海寧先輩。すみません、書類の整理があったはずなのに……」
「気にしなくていい。ついでに、弓道場の施錠確認も済ませたいだけだ」
先輩は、私の数歩前を歩き出す。その背中は、やはり格好良かった。
重厚な扉が閉じられ、会長とさゆり先輩の話し声が遮断される。廊下には、私たち二人の足音だけがリズミカルに響き始めた。私は少しだけ緊張した面持ちで海寧先輩の背中を追う。夜の校舎は、昼間とは違う静寂に包まれていた。
◇
窓の外はすでに闇に沈み、等間隔に並ぶ廊下の照明だけが、二人分の影を長く床へ落としている。
隣を歩く海寧先輩の時折こちらを気遣うような視線を背中に感じつつ、私はこの不思議な送りの時間を大切に噛みしめた。廊下を歩く海寧先輩の足取りは、昼間と変わらず凛としていた。
背筋は真っ直ぐに伸び、歩幅にも一分の乱れもない。隣を歩く私の視界の端に映るその横顔は、生徒会室で見ていた副会長のものとは、どこか違って見えた。窓から差し込む夕闇の色が、そう感じさせるのかもしれなかった。
「……梅沢」
ふいに、海寧先輩が前を向いたまま声をかけてきた。
「はいっ!」
あまりの声音の真剣さに、私はついつい直立不動になってしまう。そんな私を見て、海寧先輩は小さく鼻で笑った。
「そんなに緊張しなくていい。先程、さらが言っていたことだが、お前が話していたカラオケやショッピングについて。実際、どういう楽しさがあるんだ?」
意外な問いだった。規律と伝統の中に生きる先輩が、そんな世俗的なことに興味を持つなんて、想像したこともなかった。
「えっと……。カラオケは、好きな曲を大きな声で歌ってストレスを発散したり、みんなで盛り上がったりするところが楽しいです。ショッピングは、可愛い雑貨を見つけたり、友達と服を選び合ったりして……。特別なことをするわけじゃなくて、ただ誰かと一緒に時間を共有するのが楽しい!みたいな感じですかね」
たどたどしい説明になってしまった。それでも先輩は、真面目な顔で耳を傾けている。少し考え込むような沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「なるほどな。目的のために動くのではなく、ただ一緒にいることそのものを目的にするのか」
「はい。……海寧先輩は、友達とそういうふうに過ごしたことはないんですか?」
聞いてから、すぐに後悔した。仙石家という名家で育ち、副会長という重責を担う彼女にとって、無遠慮すぎる質問だったかもしれない。海寧先輩は怒ることもなく、ただ窓の外の夜空を仰いだ。その横顔に、藍色の宵闇がゆっくりと影を落としていく。
「私にとっての時間は、常に何かを成し遂げるためか、維持するためにあった。誰かとただ無為に時を過ごすという概念は、私の辞書にはなかったのだ。……だが、今日お前の話を聞いていて、少しだけ興味が湧いた。それが、さらたちが抱いている憧れの正体なのだとしたら──」
そのまま校舎を出て、街灯の灯り始めた夜道を私たちは並んで歩いた。
会話が途切れると街路樹の枝を渡る夜風の音が、やけに大きく耳に届く。吐く息は白く、街灯の光の中で淡く滲んでは消えた。
自宅のある方向へと続く角を曲がろうとした、その時だった。




