ようこそ、天ノ川女学院生徒会室へ⑤
海寧先輩が足を止め、訝しげな表情で私を見下ろす。私も先輩に合わせて、反射的に足を止めた。
「……梅沢。お前もそっちなのか?」
「え?はい。ここを真っ直ぐ行って、信号を右に曲がったところが家なんですけど……」
私の返答を聞いた先輩は、眉を顰め、意外そうに目を見開いた。
「……奇遇だな。私もその先だ。このまま歩けば、あと十分もしないうちに私の家の門を通り過ぎることになる」
「え、本当ですか!?奇遇ですね!」
生徒会室ではあれほど雲の上の存在に思えた海寧先輩が、実は同じ学区内に住んでいるなんて、想像もしていなかった。
「これまで一度も見かけなかったのは、帰る時間帯が合わなかっただけのことだろう。私は弓道部の稽古と最終下校の確認が定例だからな」
先輩は視線を前方に戻すと何事もなかったかのように歩き出した。その背中を追って、私は不思議な感慨を覚える。
格式高い仙石家の住まいと私の平凡な家。
住む世界は違っていても、同じ夜風に吹かれ、同じ道を通っているという事実は、先輩との距離を少しだけ……物理的に縮めてくれたような気がした。
「……あの、海寧先輩って、家ではどんなふうに過ごされているんですか?」
何気なく好奇心で聞いてしまった。先輩は少しだけ歩調を緩め、夜空を見上げ、考え込むように言葉を探す。
「そうだな……。家に戻れば、父も母も規律には厳しい。舞踊の稽古や座学の復習を終えれば、一日は終わりだ。お前が先程話していた娯楽とは、無縁かもしれないな」
「そうなんですか。でも、たまにはゆっくりしたい時だってありますよね?」
「まあ、な。私にも一応好きなことは……あ、いや、」
先輩は何かを言いかけて口を噤み、少しだけ遠い目をした。夜空に浮かぶ月へ、視線を逃がすように。
「時折、夜更けに窓を開けて、外の風に当たる時間は嫌いではない。この街は静かだからな。今日お前から聞いたような、友人と街を歩くという話は新鮮だった。……不自由を感じているわけではないが、未知の体験を聞くのは、思考の整理には悪くない」
そう言って先輩は、少しだけ口元を緩めた。生徒会室でのあの威厳ある副会長とは違い、今はただ近所に住む先輩として、隣を歩いている。その距離の近さが、なんだかくすぐったかった。
「またこうして帰りが重なる時は、……話の続きでも聞かせてくれ。弓道部の稽古を終えた後の時間帯なら、お前を見かけることもあるかもしれない」
「はい、是非!良かったら……その時は、先輩の話も聞けたら嬉しいです」
私の言葉に先輩は「ああ」と短く応えただけだった。それは決して社交辞令のような柔らかさではなく、彼女なりの誠意なのだと、私は勝手に解釈した。
静かな住宅街に、二人の規則正しい足音が重なっていく。等間隔に並ぶ街灯の光が、一つ、また一つと私たちの足元を照らしては、後方へ流れて消えていった。
普段は家まで急ぐだけの見慣れた道も、海寧先輩とこうして並んで歩くと別の場所を歩いているような不思議な感覚に包まれる。
交わるはずのなかった二人の帰路が、同じ方向を向いているという事実に、私は言葉にならない充足感を覚えていた。
「……そういえば、梅沢」
先輩がふと声を落とした。さっきまでの冷静な口調に、ほんの少しだけ迷いが混じっている。
「今日の弓道のことだが。部活中、私としたことが……的を外してしまってな」
意外な告白だった。完璧な副会長である彼女が、自らそんな個人的な失敗を口にするなんて。
「何かあったんですか?」
「……いや。ただ、今日の部活中にふと、お前のことが頭をよぎったのだ。バザーの時に見た、あの迷いのない表情がな。怪我を押してまで役割を果たそうとしていた、お前の真っ直ぐな姿だ」
完璧主義で知られる海寧先輩が、そんなふうに私のことを覚えていたなんて。胸の奥が、じわりと熱を持つ。
「自分の責務に確信を持っている人間は、ああして眩しく見えるものなのかもしれない。……いや、今の言葉は忘れてくれ」
先輩はすぐにいつもの厳格な表情に戻ろうとした。街灯の光に照らされたその横顔は、かすかに上気して見えた。
「え!?そ、そんな~~!嫌ですよ。忘れません! 先輩にそう言ってもらえるなんて、すごく光栄で貴重なことですから!!」
嬉しさのあまり、うるさかったかもしれない。先輩はそんな私を見て、これまで見てきた先輩の表情の中で、一番おかしそうに笑ってくれた。
「……フッ、お前って奴は、こちらが何を言っても臆さないんだな。──本当に、おかしな奴だ」
その後、先輩は小さく溜息をつき、その声には微かな戸惑いとどこか安堵したような響きが滲んでいた。
取り留めもない話をしながら歩いているうちに、いつの間にか私の自宅の明かりが見えてきた。
私が足を止めると、隣を歩いていた先輩も自然と立ち止まる。
「あ……ここ、私の家なんです」
「……そうか」
先輩は私の家の門をひと目見ると小さく頷いた。それだけの仕草なのに、二人の間には、どこか名残を惜しむような、わずかな間があった。
「今日は、送っていただいて、本当にありがとうございました」
「気にしなくていい。近所だからな。偶然、帰路が同じだっただけのこと」
先輩は少しだけ口元を緩めると視線をそらした。街灯の光の加減か、その頬が、ほんの少し赤らんで見えた。
「……そうだ、梅沢。弓道場での私の失態は、誰にも言うなよ。副会長が的を外したなどと知れ渡れば、学院の秩序に関わるからな」
「もちろんです!私と先輩だけの秘密ですね!なんて」
先程の会話の余韻を引きずって私が少しおどけて言うと、先輩は「……ああ」と眉を下げ、短く返事をした。
それきり、会話は途切れた。先輩は何か言いかけるように、一度だけ小さく息を吸った。しかし、その先の言葉は結局出てこないまま、静かに吐息だけが白く夜に溶けていく。
「……」
「……」
沈黙が、いつもより長く感じられた。
夜風が二人の間を通り抜けていくのに、どちらも動こうとしない。本当はもう少しだけ、この時間が続けばいいのにと思っていた。だけど、それを言葉にする勇気はなくて、ただ先輩の次の言葉を待つことしかできなかった。
「……また明日、学院で」
先輩は、そう言って一歩、踏み出す。
そして、二歩目を踏み出す前に、ふと足を止めた。
「……梅沢」
「はい?」
振り返ったその表情は、何かを言おうとして、結局言葉を選びきれなかったような、微かな戸惑いを浮かべていた。
「……いや。何でもない」
先輩は小さく首を振ると、今度こそ迷いのない足取りで歩き出した。
私は、門の前に立ったままその背中を見送る。
街灯の光を一つ、また一つとくぐるたびに、先輩の輪郭が浮かび上がっては、また闇に溶けていった。角を曲がる直前、先輩がほんの一瞬だけ、こちらを振り返った──ような気がした。しかし、確かめる間もなく、その姿は夜の向こうへ消えてしまう。
私は、しばらくそこに立ち尽くしていた。
もう少しだけ、話していたかった。
どうして……そんな風に思ったんだろう?
副会長の素顔をほんの少しだけ知り、そして帰り道まで一緒だった。もしかしたら明日の教室では、また昨日までとは違う風景が見えるかもしれない。そんな予感がして、私は夜道の余韻を惜しみながら、玄関のドアを開けた。
冬の夜気が、開いた扉の隙間からふわりと室内へ流れ込む。
振り返った先には、もう先輩の姿はない。それでも、その温もりだけは、まだ胸の奥に確かに残っていた。




