10
「……じいちゃん」
犬に押し倒されたまま、エリックが呆然と呟いた。
「なんだ、その間抜けな顔は」
「本当に……じいちゃんなのか?」
「さてな。わしにもよく分からん」
老人は顎髭を撫でた。
「わし自身か、時計に残った記憶か。それとも、お前がそう見ているだけか」
「死んだら何でも分かるんじゃないんですか?」
クラヴィオが口を挟むと、老人は笑った。
「そんな都合のいい話があるか」
「……ないんですね」
「残念だったな」
クラヴィオが呆れる横で、エリックは老人を見つめていた。
「じいちゃん。俺……」
声が詰まる。
喉の奥が急に狭くなり、息を吸うだけで胸が痛んだ。目の前にいるのは、ずっと会いたかった人の姿なのに、手を伸ばせば消えてしまいそうで、怖くて動けない。
老人は急かさず、黙って待った。
「……ごめん」
「何がだ?」
「ちゃんと、さよならを言えなかった」
エリックの声が震える。指先が冷たくなり、膝の上で手を握り締めても震えは止まらなかった。
「最後も泣いてばかりで、じいちゃんが話してくれたのに、何も返せなかった」
「そうだったな」
「帰ってきたら、じいちゃんはいなくて……。工房も、椅子も、工具も、そのままで」
言葉にした途端、胸の奥に押し込めていたものが一気に込み上げてきた。あの日からずっと、ここに残っていた空気まで失うのが怖くて、何も触れられなかった。
エリックは拳を握った。
「何か動かしたら、じいちゃんがいなくなったって認めるみたいで、片付けられなかった」
老人は黙って聞いている。
「こいつと出掛けて、楽しい日もあった。でも帰ってくると、俺だけ普通に生きてるみたいで……」
声が掠れた。胸の奥が空洞になったようで、息をするたび、その空洞に冷たい風が吹き込む。
エリックは俯いた。
「俺だけ先に行くみたいで、嫌だったんだ」
言い終えた瞬間、張り詰めていたものが切れた。
肩が大きく震え、呼吸が乱れる。泣くつもりなどなかったのに、涙が次々と頬を伝い、膝へ落ちていった。声を抑えようと唇を噛んでも、嗚咽が漏れる。
工房に、嗚咽だけが残った。
老人はゆっくり歩み寄る。
そして。
ごつん。
「痛っ! 何すんだよ!」
「馬鹿者。誰がお前に、そこで止まれと言った」
「だって……」
「わしは『幸せになれ』と言った。『工房でいつまでも立ち止まっていろ』とは言っとらん」
「そんな言い方してないだろ!」
「同じことだ」
エリックは頭を押さえたまま黙り込む。
拳骨の痛みが、かえってありがたかった。夢ではない。目の前の老人は、確かに自分へ触れ、いつものように叱ってくれた。その事実が、涙で滲む視界の中にかろうじて残っていた。
老人は少しだけ表情を和らげた。
「寂しかったか」
その一言で、エリックの顔が崩れた。
「……寂しかった」
声が喉の奥で潰れる。
「そうか」
「ずっと」
「そうか」
老人はそれ以上、何も言わなかった。
否定も、励ましもせず、ただそこにいてくれた。その沈黙が、今のエリックには何よりもありがたかった。泣いてもいいのだと、ようやく許された気がした。
犬が心配そうに鼻を鳴らし、エリックの頬を舐める。
「お前もいなくなったし……じいちゃんもいないし……」
「エリック」
老人が静かに呼ぶ。
「わしらがおらんことと、お前が一人になることは違う」
老人の視線が、隣の彼女へ向いた。
彼女は目元を拭いながら、エリックの傍に立っている。
「随分昔から、そこにおるじゃないか」
「いるわよ」
彼女が笑う。
「何回言わせるの?」
「……ごめん」
「そこは、ありがとうでしょ」
エリックは鼻を啜った。
「……ありがとう」
「よろしい」
老人は満足そうに頷いた。
それから、古い作業台へ手を置く。
透けた指の向こうに、木目が見えた。
「わしを置いていくんじゃない。わしの時間が、ここまでだっただけだ」
エリックが息を呑む。
「お前が生まれる前にも、わしの時間はあった。お前が生まれてからは、随分賑やかだったがな」
老人は足元の犬を見る。
「こいつもいた」
「ワン!」
「少々うるさかったが」
犬は褒められたと思ったのか、尻尾を振った。
「楽しかったよ。十分にな」
エリックの目から、また涙がこぼれる。
今度は拭おうとしなかった。涙を止める必要はない気がした。老人の言葉を一つもこぼさず受け取りたくて、震える息のまま、ただ頷いた。
「だから、お前も自分の時間を生きろ」
老人の視線が、クラヴィオの手の中の懐中時計へ向いた。
「そのために作った時計だ」
「俺のために?」
「お前が生まれた朝にな。顔も見ていない孫のために、朝っぱらから仕上げたんだ」
老人は犬を睨む。
「こいつが邪魔ばかりしてな」
「ワン!」
「部品を三回落とした」
「ワン!」
「反省しとらん」
クラヴィオが吹き出す。
エリックも涙を拭いながら、少し笑った。
その瞬間。
カチ。
時計の針が一つ進んだ。
「ほら」
老人が言う。
だが、秒針はすぐに止まった。
「……また止まった」
「まだ何も決めとらんからだ」
「何を?」
「これからどうするかを」
エリックは黙った。
「わしに言われたから生きるのか? 時計が動けと言ったから動くのか?」
「……違う」
「なら、自分で決めろ。わしが決めてやれるのは、ここまでだ」
エリックは隣の彼女を見る。
彼女は何も言わず、ただ見返した。
「……この工房、片付けるよ」
彼女が頷く。
「全部じゃない。残したい物は残す。でも、このままにはしない」
「うん」
エリックは息を吸った。
「それから……」
彼女を見る。
「何?」
「いや、これは……」
老人の眉が上がった。
「おい。まだ言っとらんのか」
「何を!?」
「その娘に決まっとる」
「じいちゃん!」
「子供の頃からあれだけ一緒におったのに、か?」
「今は関係ないだろ!」
「大ありだ。わしが死ぬ前から気になっとった」
「余計なお世話だよ!」
「死んだ爺さんにまで心配されるとは情けない」
「死んだ爺さんが出てきて口を出す方がおかしいだろ!」
「それもそうだな」
「納得するな!」
クラヴィオが吹き出す。
彼女も口元を押さえて笑っていた。
「……笑うなよ」
「だって」
「お前も何か言ってくれよ!」
彼女はエリックを見た。
「私も、おじいさんと同じことが気になってるけど?」
そう言いながらイタズラそうな顔をして微笑む彼女をみてエリックが固まる。耳まで赤くなった。
老人は満足そうに頷く。
「よし。これで心残りはない」
「勝手に終わるな!」
「もう十分だ」
老人の身体が、淡く光と溶け合うように透け始めた。
エリックの顔から笑みが消える。
「……じいちゃん?」
胸の奥が、また強く締め付けられた。さっきまで確かにそこにいたのに、今度こそ本当にいなくなる。分かっていたはずなのに、身体が拒むように一歩前へ出た。
足元の犬も、淡い光へ溶けていく。
「待って。もう行くのか?」
老人は答えず、ただ笑った。
「俺、まだ……」
言葉が続かない。
喉が震え、舌がうまく動かなかった。まだ伝えたいことがある。もっと話したい。聞きたいことも、謝りたいことも、いくらでも残っている。
けれど、時間は待ってくれない。
病室で何も言えなかった、あの日と同じだった。
また何も言えないまま、置いていかれる。
そう思った瞬間、エリックの指先が強く震えた。胸の奥からせり上がる恐怖を押し退けるように、拳を握る。
「……じいちゃん!」
老人が振り返った。
「ありがとう! 俺、じいちゃんの孫で良かった!」
声が震え、途中で裏返りそうになった。それでも、今度は止めなかった。涙で視界が滲んでも、老人の姿を見失わないように目を見開く。
「さよなら!」
言葉が工房いっぱいに響いた。
言えた。
ずっと言えなかった言葉が、今度はちゃんと届いた気がした。
胸の奥に絡みついていた後悔が、少しずつほどけていく。寂しさは消えない。失った痛みも、この先ずっと残るだろう。それでも、最後に伝えられた。もう、あの日の自分を責め続けなくていい。
老人は目を細める。
「ああ」
短い返事だった。
けれど、その声を聞いた瞬間、エリックの膝から力が抜けそうになった。返してくれた。ちゃんと聞いてくれた。その安堵が全身へ広がり、涙がまた溢れた。
犬が最後に一声吠え、エリックへ駆け寄った。
「お前も、ありがとな」
尻尾をはち切れんばかりにふる愛犬に手を伸ばす。
耳元を撫でようと伸ばした手は、もう触れられない。
指先が光の中を空しく通り抜ける。触れられないと分かっていても、エリックは手を引けなかった。もう一度だけ撫でたかった。あの温かい毛並みを、確かめたかった。
それでも犬は嬉しそうに尻尾を振っている。
老人がその背を軽く叩いた。
「行くぞ」
一人と一匹の姿が、朝の光に溶けていく。
最後まで笑っていた老人の顔が、光の向こうへ薄れていく。エリックは息を止めたまま、その姿を見つめ続けた。
完全に消えたあとも、しばらく動けなかった。
やがて工房には、三人だけが残った。
誰も喋らなかった。
エリックは二人が消えた場所を静かに見つめている。
頬にはまだ涙の跡が残り、胸は空っぽだった。それでも、先ほどまでのような息苦しい絶望はなかった。喪失感は確かにそこにある。けれど、その中に、最後に言葉を交わせたという小さな安堵が灯っていた。
クラヴィオは懐中時計を見た。
針は、まだ止まっている。
「……動かないんですね」
彼女が呟く。
「みたいですね」
「直ってない?」
「いいえ」
クラヴィオは時計を閉じ、エリックへ差し出した。
「たぶん、僕の仕事は終わりです。これはあなたの時計ですから」
エリックは時計を受け取った。
「ここから先は、僕が動かすものじゃない」
時計は静かなままだった。
それでも、エリックの表情に不安はなかった。
「……分かりました」
彼は時計を握り、彼女を見る。
「なあ」
「何?」
「少し、話がある」
「うん」
「二人で」
彼女は笑った。
「うん」
クラヴィオは二人を見比べる。
「じゃあ、僕はそろそろ」
「クラヴィオさん」
エリックに呼び止められた。
「ありがとうございました」
クラヴィオは笑う。
「まだ時計、直ってませんよ」
「でも」
エリックは懐中時計を胸元へ寄せた。
「もう、大丈夫な気がします」
「……そうですか」
クラヴィオは工房を出た。
扉が閉じる直前、背後からエリックの声が聞こえる。
「その……ずっと待たせて、ごめん」
「うん」
「俺と――」
扉が閉まった。
「…………」
クラヴィオは扉を見つめる。
「…めっちゃ良いところ見逃した…」
思わず呟いた。気になる。
猛烈に気になる。
しかし、今さら扉を開ける訳にも、耳を押し当てる訳にもいかない。
「……パン買って帰ろ」
朝から散々頭を使ったのだ。
これくらいはいいだろう。
クラヴィオは、先ほどのパン屋を思い浮かべながら歩き出した。その顔は優しい笑顔に包まれていた。




