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「おじいさんが亡くなってから、あなた自身がずっとあの日にいるんじゃないですか?」
「…………」
工房が静まり返った。
エリックは何を言われたのか分からないような顔でクラヴィオを見つめていたが、やがて困ったように眉を寄せた。
「……そんなこと、ないですよ」
「エリック」
「だって、普通に生活してますし。仕事だってしてる。買い物にも行くし……こいつとも会ってる」
そう言って隣を見る。彼女は瞳を伏せ何も答えなかった。
「じいちゃんが死んで悲しかったのは本当です。でも、それは普通でしょう? 家族が死んだんだから」
「ええ」
クラヴィオは否定しなかった。
「悲しむことがおかしいとは思ってません」
「だったら――」
「でも」
クラヴィオは工房を見回した。
壁に並んだ工具。作業台。椅子。棚。
昨夜見た光景と、ほとんど変わらない。
「ここ、ずっとこのままなんですよね?」
エリックが黙る。代わりに彼女が小さく頷き答えた。
「……おじいさんが亡くなった日から、ほとんど変わってないわ」
「おい」
「本当のことでしょ」
「だからって――」
「私、何度も言ったよ」
彼女の声は責めるようなものではなかった。
それがかえって、エリックには辛いようだった。
「ここを全部片付けろなんて言ってない。おじいさんの物を捨てろとも言ってない。ただ……少しずつ整理しないとって。ずっとこのまま居たらだめになっちゃう。」
「何が」
「先に少しでも進まなきゃ」
エリックの顔が強張った。
「……俺は進んでるよ」
「本当に?」
「進んでる」
「じゃあ、どうして――」
彼女は何かを言いかけて、口を閉じた。
クラヴィオは二人を交互に見る。
「どうして?」
「……いえ」
「言えよ」
今度はエリックの方から促した。
彼女はしばらく迷っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「前に、私がここを出ないかって言ったの」
「ここを?」
クラヴィオが尋ねる。
「ええ。別に遠くへ行こうって話じゃないわ。ただ……いつか二人で暮らすなら、ここじゃなくてもいいんじゃないかって。私もあなたも工房を使う仕事をしていないわ。」
「それは……」
エリックが俯いた。
「じいちゃんが死んですぐだっただろ」
「違うわ。三ヶ月経ってた」
「同じようなもんだよ」
「じゃあ半年なら?」
エリックは答えなかった。
「一年ならいい? 二年なら? いつになったら、あなたの中で“すぐ”じゃなくなるの?」
「…………」
「私は待てるよ」
彼女はそう言ってから、少し寂しそうに笑った。
「待てるけど……いつまで待てばいいのか分からないのは、ちょっと困るかな」
エリックの指が膝の上で強く組まれる。
その時だった。
カチ。
小さな音がした。三人が一斉に時計を見る。
秒針が一つだけ進んでいた。
「……動いた」
エリックが呟く。
クラヴィオは時計へ手を伸ばさなかった。魔力も流していないし、触れてすらいない。それなのに動いた。
今、この瞬間に。
クラヴィオはゆっくりと彼女を見やり、そしてエリックに視線を移した。
「……やっぱり」
「何が、ですか?」
「今、何を考えてました?」
「え?」
「時計が動いた瞬間です。何を考えてたんですか?」
「そんなの……」
エリックは答えようとして、言葉に詰まった。視線が隣へ向く。彼女と目が合った。すぐに逸らした。
それだけで十分だった。
「彼女のことですね」
「……」
「工房を片付けた時は、おじいさんのことを考えてた。犬が亡くなった時は、その子のことを。彼女に会った日は、彼女のことを」
クラヴィオは懐中時計を手に取った。
「この時計、誰かが止めてるんじゃない」
昨夜感じた温もりを思い出す。
『願わくば、この子の人生が幸多からんことを……』
「あなたが誰かを大切に思った時だけ、動いてるんだ」
エリックは何も言わなかった。
「でも、それなら……」
彼女が時計を見つめながら呟く。
「どうして普段は止まってるの?」
「そこなんですよ」
クラヴィオもまだ、それだけが分からなかった。
誰かを想えば動く。ならば何故、祖父が生きていた頃はそんなことをしなくても普通に動いていたのか。
何が変わった?答えは分かっている。祖父が死んだ。
けれど、それだけでは足りない。
祖父を失ったことで、エリックの何が変わったのか。
クラヴィオはもう一度、昨夜見た記憶を思い返した。
幼いエリック。
祖父。
その足元を走り回る犬。
そして病室。
『幸せになれ』
『誰かを大切にしろ』
『それだけで十分だ』
「……エリックさん」
「はい」
「おじいさんが亡くなった時、最後に言われたことを覚えてますか?」
エリックの顔から血の気が引いた。
「……どうして」
「昨日、時計の中に残っていた記憶を見ました」
「…………」
長い沈黙のあと、エリックは俯いた。
「覚えてますよ」
声が震えていた。
「忘れるわけないじゃないですか」
握った拳が、微かに震える。
「幸せになれって。誰かを大切にしろって」
「はい」
「だから……ちゃんとしてますよ」
絞り出すような声だった。
「仕事もしてる。生活だってしてる。こいつのことだって大切にしてる。じいちゃんが心配するようなことなんて――」
「じゃあ、幸せですか?」
エリックの言葉が止まった。クラヴィオ自身も、口にしてから少しだけ後悔した。随分と踏み込んだ質問だった。だが、エリックは怒らなかった。
ただ答えられなかった。
長い沈黙のあと、彼は小さく笑った。
「……分かりません」
その笑顔は、昨日クラヴィオの店へやって来た時よりもずっと頼りなく見えた。
「じいちゃんが死んでから……何か楽しいって思う度に、考えるんです」
彼女がエリックを見る。
「こんなことしてていいのかなって」
「……」
「じいちゃんはいないのに。俺だけ笑ってていいのかなって」
ぽつり、ぽつりと言葉が落ちる。
「こいつといる時は楽しいです。だから余計に……帰って一人になると、じいちゃんのこと思い出して」
エリックは工房を見回した。
「ここに来ると、まだいる気がするんです」
作業台。
工具。
窓際の椅子。
全部、老人がいた頃と同じ場所にある。
「だから変えたくなかった」
彼女が何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
「一つでも動かしたら、本当にいなくなる気がして」
エリックの声が掠れた。
「犬が死んだ時もそうだった。じいちゃんが拾ってきた子だったから……あいつまでいなくなったら、本当に俺だけになる気がして」
「一人じゃないでしょ」
彼女が静かに言った。
エリックが顔を上げる。
「……私、いるんだけど」
「あ……」
「ずっといるんだけどなぁ」
困ったように笑う彼女の目には、うっすら涙が浮かんでいた。
「子供の頃からずっと」
エリックは何も言えなかった。
その時、クラヴィオの手の中で、懐中時計が熱を持った。
「……っ!」
昨夜とは比べものにならない。思わず取り落としそうになるほどの熱だった。同時に、工房の奥から風が吹いた。窓は閉まっている。
それなのに、棚に掛けられていた布がふわりと揺れた。
クラヴィオは立ち上がった。
「二人とも、動かないで」
「え?」
淡い光が床を這っていく。作業台の脚を伝い、古い椅子の周囲へ集まり始める。クラヴィオには分かった。
これは昨夜感じたものと同じだ。
寂しさ。
懐かしさ。
そして。
誰かを見守るような、優しい気配。
エリックが息を呑んだ。
光の中に、ぼんやりと人の輪郭が浮かび始める。
「……じい、ちゃん?」
その声に応えるより先に。
「ワンッ!」
「え?」
光の中から何かが飛び出した。
毛むくじゃらの塊が一直線にエリックへ突っ込む。
「うわっ!?」
勢いよく押し倒されたエリックの顔を、犬が夢中になって舐め回した。
「ちょ、待っ……! お前!? おい、やめっ、顔! 顔はやめろって!」
尻尾が千切れそうなほど振られている。
「ちょっと、クラヴィオさん! これどうなって――」
彼女が目を丸くする。
クラヴィオも目を丸くしていた。
「いや、僕にも……」
もう少しこう。
ベロンベロンベロン
厳かというか。
ベロンベロンベロン
神秘的というか。
ベロンベロンベロン…
そういう再会になると思っていた。
「おまっ、死んでも変わらねぇな!」
涙を流しながら犬と格闘するエリックを見て、クラヴィオは何とも言えない顔になった。
そして、その背後から。
「はっはっは。随分熱烈な再会だな」
聞き覚えのない老人の声がした。
けれどクラヴィオだけは、その姿を知っていた。
昨夜時計の中で見た老人が、作業台の傍らに立っていた。




