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それから数日後。


クラヴィオは作業台に向かい、組紐の端に金具を取り付けていた。あの日以来、エリックから連絡はない。

預かっていた懐中時計も、すでに本人へ返している。依頼された修理をしたわけでもなければ、何か魔法を掛けたわけでもない。結局、あの時計にクラヴィオがしたことといえば、中に残っていた記憶を覗き、持ち主へ返しただけだった。


果たして、あれで依頼を終えたと言っていいものなのだろうか。


「……報酬、貰えんのかな」


ぽつりと漏れた本音が、静かな部屋に響いた。

その時、入口のチャイムが鳴った。


「はいはい、今行きますよ」


クラヴィオは金具を置き、立ち上がった。扉を開けると、そこに立っていた人物を見て目を瞬かせる。


「こんにちは」


「あ……どうも」


エリックだった。


そして、その隣には、あの日工房で会った彼女もいる。


「二人でどうしたんです?」


「その……報告に」


「報告?」


「はい」


エリックは少し照れ臭そうに笑った。以前のような猫背は相変わらずだったが、初めてここへ来た時ほど視線は泳いでいない。


クラヴィオは二人を中へ通した。


「紅茶でいいですか?」


「あ、はい」


「私もお願いします」


二人分の紅茶を用意し、自分の分も持って向かいへ座る。エリックはカップに手を添えたものの、すぐには口をつけなかった。


「それで、報告って?」


「あの日、クラヴィオさんが帰った後……」


エリックはそこで言葉を切った。隣の彼女が、何でもないことのように微笑んでいる。そのせいで、かえって逃げ場がなくなったらしい。


「……言ったんです」


「何を?」


分かってはいた。分かってはいたが、クラヴィオは敢えて聞いた。


エリックが恨めしそうな顔をする。


「分かってますよね?」


「さあ」


「絶対分かってるじゃないですか……」


「依頼人の報告は正確に聞かないと」


「そういうところ、結構意地悪ですね……」


エリックは観念したように息を吐き、隣へ視線を落とした。彼女が小さく頷く。


「……結婚してほしいって」


「おお」


クラヴィオは思わず身を乗り出した。


「それで?」


「それでって……」


エリックは耳まで赤くなった。


「その、返事を……もらいました」


「ここに一緒に来てるんだから、分かるでしょう」


彼女が横から助け舟を出す。


「いや、一応」


「……受けてもらいました」


エリックが照れ臭そうに笑う。彼女も、今度は隠しきれないように頬を緩めた。


「おめでとうございます」


「ありがとうございます」


クラヴィオは素直に笑った。脳裏に、あの老人の得意げな顔が浮かぶ。


――よし。これで心残りはない。


「おじいさん、喜んでるでしょうね」


「多分」


エリックも笑った。


「というか、遅いって怒られそうです」


「それは間違いないですね」


「クラヴィオさんまで……」


三人で笑う。


以前なら祖父の話をするたび、エリックの表情にはどこか影が落ちていた。今は違う。寂しさがなくなったわけではないのだろう。それでも、思い出して笑えるようになった。それだけで十分なのかもしれない。


「それと、工房も少しずつ片付け始めました」


「そうなんですね」


「じいちゃんの道具は、まだほとんど残してますけど。使ってくれる人がいるなら譲ろうかなって。俺が持ってても仕方ない物もありますし」


「いいと思いますよ」


「椅子は残すけどな」


エリックが付け加えた。


「じいちゃんがいつも座ってたから」


「うん。それは残そう」


彼女が笑った。


全部捨てる必要などない。忘れる必要もない。残したいものは残して、それでも少しずつ景色を変えていく。きっと、それでいいのだろう。


「それでですね」


今度は彼女が口を開いた。


「実は、私からも話があって」


「俺に?」


「うん」


エリックが首を傾げる。彼女は一度クラヴィオを見た。


「ここで話して大丈夫ですか?」


「僕は別室に行きましょうか?」


「あ、大丈夫です」


「なら、何で聞いたんです?」


クラヴィオが半目になる。


彼女はそんなクラヴィオに小さく笑うと、エリックへ向き直った。


「本当は、もう少し落ち着いてから話そうと思ってたんだけど」


「何?」


エリックの声が少し低くなる。彼女は膝の上で手を重ねた。指先がわずかに動いている。


「私ね」


一度息を吸う。


「赤ちゃんができたみたい」


「…………」


エリックが止まった。


「え?」


「だから……赤ちゃん」


「……誰の?」


「あなたのに決まってるでしょ」


「いや、そうなんだけど……」


「そうなんだけど?」


「いや、違う。違わないけど」


クラヴィオは思わず口を挟んだ。


「落ち着いてください、エリックさん」


「クラヴィオさんは落ち着きすぎです!」


エリックは彼女へ向き直った。


「本当に?」


「うん」


「間違いなく?」


「そこまで疑われると、ちょっと傷つくんだけど」


「ご、ごめん。そういう意味じゃなくて」


彼女は困ったように笑った。


「分かってる」


エリックは口を開きかけて、閉じた。それから、もう一度彼女を見る。


「俺が……父親?」


彼女が頷いた。


その瞬間、エリックの表情がくしゃりと歪んだ。


「ちょっと、何で泣くのよ」


「いや……分かんない」


慌てて眼鏡を外し、目元を拭う。


「嬉しいんだけど……なんか……」


「うん」


「嬉しい。すごく嬉しいんだけど……」


そこで言葉が途切れる。彼女は急かさず、エリックの手にそっと触れた。


「怖い?」


エリックはしばらく黙っていた。


「……少し」


「私も」


「そっか」


「でも、一人じゃないから」


エリックは彼女の手を見つめた。それから、壊れ物に触れるように、その手を握り返す。


「うん」


短い返事だった。けれど、その声には先ほどまでの戸惑いとは違うものが混じっていた。

クラヴィオは黙って二人を見ていた。やがてエリックが、ふと思い出したように胸元へ手をやった。


服の内側から取り出したのは、あの懐中時計だった。


「……じいちゃんも」


小さく呟く。


「俺が生まれた時、こんな気持ちだったのかな」


クラヴィオの目が懐中時計へ向く。


あの朝。まだ見ぬ孫のため、老人は工房で時計を仕上げていた。


『今日、孫が生まれたそうだ』


足元には、毛足の長い犬。


『会うのが楽しみだな』


エリックは時計を両手で包んだ。


「顔も見てないのに……俺のために作ってくれたんだよな」


「そうみたいですね」


「そっか……」


エリックは泣きながら笑った。


「こんな感じだったのか」


その時だった。


カチ。


三人の視線が懐中時計へ集まる。秒針が一つ進んだ。

エリックが息を呑む。

けれど、時計はそれきり止まらなかった。


カチ。


もう一つ。


「……え?」


カチ。


また一つ。


カチ、カチ、カチ――。


小さな音が、部屋の中に響き始めた。秒針は一つ、また一つと、当たり前のように時を刻み続けている。


「動いてる……」


エリックの声が震えた。


「クラヴィオさん……時計が」


「はい」


クラヴィオは笑った。


「今度はちゃんと動いてますね」


エリックは懐中時計を耳元へ寄せた。カチ、カチ、カチ。何度聞いても止まらない。

彼女も時計を覗き込み、そっとエリックの腕に触れた。その手に気付き、エリックが彼女を見る。


「……ありがとう」


「何が?」


「いてくれて」


彼女は少し目を丸くしてから笑った。


「どういたしまして」


「それと……これからも」


「うん」


二人の手が重なる。


クラヴィオはその様子を見ながら、昨夜浮かび上がった文字を思い出した。


『願わくば、この子の人生が幸多からんことを……』


祖父が生まれたばかりの孫へ託した願い。

あの老人はきっと、こんな未来を望んでいたのだろう。孫が誰かを愛し、愛され、そしていつか、自分と同じように、まだ見ぬ新しい命の幸せを願う日を。

懐中時計は静かに、けれど確かに時を刻んでいる。

祖父の時間が終わっても、エリックの時間は続いていく。そして今、その先にまた新しい時間が生まれようとしていた。


カチ、カチ、カチ――。


「……直りましたね」


クラヴィオが言うと、エリックは少し考えてから首を横に振った。


「多分、最初から壊れてなかったんですよね」


「そうですね」


「止まってたのは、俺だったから」


エリックは懐中時計を見つめ、それから顔を上げた。


「ありがとうございました」


「どういたしまして」


今度こそ依頼完了だ。


クラヴィオが満足して頷いた、その時だった。


入口の扉が勢いよく開いた。


「終わったか?」


「うわっ!」


聞き慣れた声に、クラヴィオの肩が跳ねる。入口にはリュカが立っていた。


「お前! だから静かに入ってこいって言ってるだろ!」


「無理」


「何でだよ!」


「静かに入ったら面白くないだろ」


「俺の心臓を娯楽にするな!」


数日前とまったく同じやり取りに、エリックと彼女が顔を見合わせる。


リュカはそんな二人には構わず、クラヴィオの前へ一枚の紙を差し出した。


「で、依頼は終わったんだな?」


「今終わったよ」


「そうか」


リュカが爽やかに笑った。


嫌な予感がした。非常に嫌な予感がした。


「じゃあ、仲介料な」


「…………」


クラヴィオは差し出された紙を見る。数字を見る。もう一度見る。


「……お前」


「何だ?」


「せめて今だけは余韻に浸らせろよ!」


クラヴィオの叫び声が部屋中に響いた。


その傍らで、古い懐中時計だけが、何事もなかったかのように、カチ、カチ、カチ――と新しい時を刻み続けていた。


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