花形1
前回までが細かく分けすぎたので、長めにしています。
よろしくお願いします。
とある国のとある港町に、人魚が出たという話があった。
今から三十年ほど前のことだ。
人魚とは、美しい歌声で男を誘惑する海の魔性である。半人半魚。その肉を食らえば不死にも不老にもなるというが、この大陸の海辺ではもっぱら災いの象徴とされている。
そのとおり、現れた人魚は町の少女達の歌声を次から次に奪っては、微笑んで美味しそうに食らったという。町からは少女の声がいっさい消えた。
それは不気味な静寂だった。
何しろ港町であるから、男らの船出にはいつだって少女らの歌があった。人魚の誘惑に遭った時には、どうかこの歌声を思いだし、無事に帰ってきてくれるようにと祈るのが古くからの習わしだった。これが消えた。女は歌うのをやめ、男は海に出たがらなくなった。それで、とうとう、この町はなくなったという話であった。
人魚のゆくえは誰も知らない。
あるいは知っていたとしても決して語ろうとはしなかった。一つでも明かせば自分も声を食われてしまう。そう恐れたのかもしれなかった。
かごの中の少女を人魚と呼び出したのは座長だった。もちろん先の噂話にあやかってのことである。
この人は踊りも楽器もてんでだめだし、背は低いのに横幅があって(特別大食らいでもないのに不思議な話だが、座長の家系の男どもは皆似たりよったりの体型らしい)、顔立ちも平凡をやや下回るくらいなのだけれど、口上を言わせたら天下一品だった。
「ほんとうは詩人になりたかったんだ」
酔っ払うといつも照れくさそうにわらう。宮廷詩人というやつは、言葉を紡ぐばかりでなく麗しい姿で貴人を喜ばせる仕事だ。座長はどう贔屓目に見てもそれができる人物ではなかったから、戯れ言だと皆がからかう。
「せめて声がネスルみたいならね」
「それでもおっさんのツラじゃあさ、やっと道化師見習いってところだろ?」
「ビルニーク! 馬鹿にするなよ! わしは道化師だってやり遂げるさ!」
がたんと立ち上がって堂々と胸を張る。きりりと引き締まった表情がかえっておもしろい。なるほど、道化ならやれそうである。
この一座は「虹の羽衣」と名乗っている。それもこの男が言い出したのをネスルやカルブが採用したのだった。彼らにとって虹は雨後の、つまり未来の幸福の標であり、羽衣は神と人を繋ぐ天使の衣装だ。旅芸人とは得てしてよい響きで心に残る名前を好むもの。希望を暗示する名乗りをしながら、扱うのが不吉の人魚とは! 皮肉がきいている。座長は胸のうちで自賛した。
さて、声を食らう人魚。その天上の歌声。謳い文句の気味悪さがかえって人々の興味を引いて、初公演は大賑わいだった。まだ踊りの前奏さえはじまっていないのに、観衆の増えること増えること。
「ほらな! 言ったろう。宣伝ってもんはこうやるんだ!」
座長の姿勢がいっそう良くなり、腹の丸みが目立つ。でもそれを笑う余裕は一行にはなかった。「虹の羽衣」は決して有名な一座ではない。どころか無名も無名。こんな大勢を魅了するほどの芸達者はいないのだ。マチルダだけは持ち前の勝気な表情でいるけれど、他の踊り子たちは一様に不安げだった。
「ねえ、ほんとに踊るの?」
「これだけ人を集めてんだぜ。公演中止なんて、芸を売る身でやれるもんか。悪目立ちするだけだ」
「そりゃ、あんたたちはいいわよ。楽士のことなんてそうそう見る人いないでしょうから。でもあたしたちは花形なのよ?」
「花形ぁ? おいおい、本気で言ってんのかよ」
ビルニークが呆れるのも無理はない。無理はない話だが……
「この人数が踊り子を見に来たって? 冗談だろ! そんならあんな人魚なんざ、ネスルは拾ったりしねえよ!」
とは言えもう少し穏便な伝え方がないものか。男衆が揃って身動ぎする。かつてない居心地の悪さだ。これで踊り子たちが公演を止めると言い出すものなら、一座ではなくて人魚の一人舞台になってしまう。
「おい、いい加減にしろよ。言葉が過ぎるぞ」
カルブがたしなめて、ドッブは無言で友人の肩を掴む。怪力のドッブが仲間を力尽くでどうにかするなんて滅多にないことだ。さすがのビルニークも怯んだ。
その時だ。
歌がはじまった。
人魚は、だらしなく座ったままぐうっと仰け反る。人形はしっかり抱きしめられているので傍目にはほとんど見えない。見えたらどうするの、客が減るわ、と気を揉んでいた年長の踊り子も歌を聴いたら何も言わなくなった。何故って、あんなものを聴いているうちに他を気にする余裕なんか、誰も持てるわけがないからである。洞窟でネスル達を虜にしたように、歌っている人魚はまさしく魔性、人ならざる美の化身だ。
格子の隙間を抜けていくのは、命沸き立つ春の空だ。歌から、声から、口から、青空が広がっていく。
得意の口上も忘れた座長が人魚を見つめる。
この少女にかかれば、とっくに廃れた恋歌さえ命の讃歌に変わった。低く大地を走りながら軽やかに宙を舞う。
誰か一緒に歌っているのか、どんなからくりなのだと疑ってみても、やはりそれは少女ひとりが小さなかごの中で奏でている音で、踊りも伴奏も人魚のうたの前では邪魔になるだけだと悟る。
人はこれを奇跡と呼ぶのだ。
あるいは魔性と。
聴き惚れる人々には目もくれず、天へ昇る鐘の音。届かないことも知らず一心に空へ送りだされる言葉ひとつひとつが皆を揺さぶる。それは悲哀ではないのだ。いつか届く日を楽しみに待ち焦がれている。人魚は空へ飛び立てないのに、その精一杯の泡はぐんぐん空へ吸い込まれる。
座長はこれを一番近くで聴いていた。
何て一途。
何て清らか。
反して、己の息の罪深さ……。
はたして自覚した者がどれだけいたか知れぬけれど、聴衆は人魚の歌の泡に己が罪を託し、遠くへ追いやった。誰も彼も清々しく穏やかな表情をしている。足元は泥だらけで、身にまとうのは襤褸でも、この世界はこんなにも青く、あたしをおれを抱きしめてくれる。化け物。魔性。それがどうした。彼女は幸福を告げる鐘なのだ。うっとり涙を流す。それは一人や二人でなく、座長などもう鼻が真っ赤になっていた。笑う者は誰もいない。
お披露目は大成功だった。
座長は手放しで称賛し喜んだが、これまで花形だった踊り子らは、夢から覚めるとやはり少々不機嫌だった。
人魚の世話係になったマチルダは、開かないかごの中へ目一杯手を差し込んで、飯やら下の世話やらをしなくてはならないのだからなおさら不満だ。
「ねえ、せめてあのかご壊しちゃってよ!」
無茶を言ってドッブを困らせるのが日課になってしまった。
「歌えればいいんでしょ? それならもう汚くってもいいじゃない」
そう言って一日世話をしなかったこともある。
これを悲しむ感性が人魚にあれば、まだ女たちの気も晴れただろう。けれど肝心の本人は毎日毎日素晴らしい歌声で彼女たちを苛立たせた。
「あんたってほんとに馬鹿! なんなのよもう!」
「ほんとにばかだねえ」
「あーもーうるさいわね!」
「ね!」
こんな調子だ。まったくやってられないとマチルダが叫んだのも無理なかろう。
そこにあって、他の一座や商人から少女を引き取りたいとの声がまたうるさい。
「この一座で終わらせるにはもったいない才能だ」
「座長ともなればおわかりだろう?」
ネスルの指示がなくとも、座長はこの人魚を手放すつもりは一切なかった。名声や、その先にある目的のことは関係ない。この件については拾ってきたネスルのほうが驚くくらい、座長は頑なだった。
「まったく、座長もネスルたちもどうしたっていうのかしら」
「さっさと売っ払っちまえばいいのに」
「本当にね」
稽古に集まった踊り子らがぼやいていた、晴れた昼下がりのことである。
「人魚を飼ってるってのはここかい?」
若い男が訪ねてきた。
金髪に、紫の瞳。品よく華やかな顔立ちは高貴な身の上でもおかしくないが、くたびれた赤い旅装束に鮮やかな花の刺繍の散っているところを見ると、同じく何かしらの芸を売って稼いでいる者らしい。
踊り子たちは顔を見合わせた。
大方いつもの買い取り希望だろうと、年長の一人があえてきつい調子で返した。
「ええそうよ。なぁに? あなたも買いたいって話なの? 悪いけど、うちの座長はあの子を手放す気はないわよ」
男とは単純なもので、女を強調したきわどい衣装の踊り子にこうやって挑発されると、大概頭に血が上る。予定より大きな額を示して自分の力を見せつけようとするのだ。
が、この若者は違った。明るく笑い声をあげた。ちょっとびっくりするくらいよく通る声だ。座長より声量があるかもしれない。
「手放す気はないだって?」
しばらく経ってもまだ笑いを含んだまま、踊り子達、大天幕から出てきた座長、ネスルら男衆をじろじろ眺めた。
「何だよ?」
ビルニークが睨んでもどこ吹く風。
「兄さん、姉さん」と背後に呼びかけた。
「聞いた?」
「ああ」
「まったく、これだから外は好かん」
「図々しいったら」
次々に返る間のない声にネスルたちは眉をひそめた。
「誰があなたたちの物だって?」
「勘違いするでない」
「さっさと返しなさいよ」
「悔やむ前にの」
「あれはお前らの扱える代物じゃねえんだって」
「教えられなきゃわからないのか」
別に怒りが籠っているわけではない。
ただ凄みがあった。
幼い少女の声すらそうだった。
そう、声。
姿もないのに聞こえてくるそれに、怯えた踊り子が男衆の後ろにまわる。
「……あの集落の者か?」
ほとんどわかりきったことをカルブが問うと、若者はにっこり口角をあげる。
「人魚はどこ?」
男ら四人でそっと目を見合わせてから、ネスルが慎重に返した。
「案内しよう。マチルダ」
「う、うん」
不安に頷きつつ歩き出した世話係は、途中何度も振り返った。ネスルが隣にいてくれるのは嬉しいし心強い。でも、それにしたって不気味だった。
若者が一歩進むごと一人二人と連れが増えていく。路地の影から出てきただけだ。わかっている。だがそれは大蛇がゆっくりと這い出てきたようにマチルダには思えた。
人魚と呼ばれる少女と同じように、あの腕の中の人形のように、得体の知れない物に思えた。
金髪の若者以外は外套の頭巾を深く被っていて、顔が見えないのもよくなかった。一際小柄な童女さえ、足音がない。
一番奥の小さな天幕までやって来ると、若者はぐっと眉をひそめた。
何しろかごが開かないので、汚物やら食べこぼしやらのすえたにおいが、まあひどい。
マチルダのせいと切り捨てるほどの非情さはネスルにはない。実際、よくやってくれたのだ。彼女は仲間の中でもいっとう小柄で腕が細く、格子の隙間から届く範囲は何とかきれいにしてやっていたのを知っている。
これを毎度舞台に運ぶのはドッブの仕事だが、並外れて温厚な彼さえ、仕事終わりには体を洗いたいと愚痴をこぼす始末。一人別の天幕に置いているのも、この臭気が原因だった。花の香りなんてとっくに消えている。それでも舞台にあげるというのだから、座長のやり方に顔をしかめる仲間も出てきて当然だった。声を上げないのは人魚が歌ってしまうからだ。大声でのびのびとよく歌う。勝手に客が集まってきて、なし崩しに舞台がはじまってしまう。それでは稼がないわけにいかない。
「頭だけじゃなくて、鼻もいかれてんじゃねえのかあいつ」
毒づいたビルニークをたしなめるのは座長だけだ。
「今夜の酒も飯も、彼女の歌で稼いでもらってるんだぞ。文句があるなら呑むな。食べるな」
ご説ごもっとも。が、まあビルニークの台詞は一座の総意と言って過言ではなかろう。
もちろんあの「化け物」の仲間たちにそんな内情を打ち明けてしまうほど、ネスルは愚かではない。
「何? ちゃんと世話してやってたんじゃないの?」
「開けなかったのか」
「服も肌も汚れとるのう」
「これでよく売らないなんて言えたわね」
「全く、こんな有り様で歌わされるとはかわいそうに」
流れるような非難も黙って受け止めた。
一方マチルダは段々腹が立ってきた。もともと勝ち気な性格の娘である。特に自分よりずっと年下の子どもが優しく叱るように言ったのが気にくわなかった。
「あたしだって!」と彼女は声を張った。
午睡から目を覚ました人魚がのんびり起き上がってあくびをする。
マチルダはますます苛立つ。
「あたしだって好きでこんな風にしてるんじゃないわ! このかごが開かないんだもの! 仕方ないじゃない!」
人魚はそんなマチルダに目もやらない。周りを囲む老若男女にふわふわと笑いかけている。
「おむかえ?」
「どうかしら」
「たぶんな」
「喉は平気か」
一人の男が淡々と問いかけながらかごの中に手を差し入れた。人魚はその少し骨ばった大きな手のひらを持ち上げて、自分の首をすっぽり覆う襟の中に導く。子どもの熱を確かめてやるような、気安いやり取りだった。マチルダは未だに彼女のよだれまみれの頬すら触れないのに。厚意を避けられているのに。
「大丈夫らしいな」
「うん!」
知性なんてまるでない、愛らしい笑顔。でもそんなの演技に決まってる。
だって歌えるのだ。歌を覚えるだけの頭があってこちらの神経を逆なでするような言動をして、笑っているのだ。小さな子どもと同じなんて座長の戯れ言だ。優しくしてやれ。大事にしてやれ。この子にもっと感謝しろ……冗談じゃない。
「やめなさい、マチルダ」
「何よ! ほんとのことでしょう!?」
今だって座長はネスルを差し置いて、自分が一番の責任者であるみたいに若者たちへ頭を下げている。
気に入らない。まったくもって気に入らない。
けれどもマチルダは懸命に気持ちを落ち着けようとした。
そこへ例の大人びた童女が口を開く。
「仕方がない? 馬鹿を言うな。お前ら、何ぞ怖がらせたりしたのだろう。そうでなければ、この子とてかごくらい開けてやるさ」
呆れた、と肩をすくめられる。その姿と人魚の呆けた笑顔が重なった。限界だ。黙っていられるわけがない。言い返そうとしたマチルダを、今度こそネスルが止める。
「やめろ」
「だけど、だってさァ!」
「マチルダ」
低い声に怯む。それでもただで立ち去る気はなかった。
「あたしは何もしてないからね!」
マチルダは童女をきっと睨みつけ言い捨てて、天幕の外へ駆けだした。
ありがとうございました。




