宴4
佳境です。短いですが……区切りが難しいですね。
よろしくお願いします。
ユマオは瞼の裏の虚像へ囁く。
「…ははうえ」
幼い声だった。王女らしからぬと叱られても仕方がない、弱い声。
「目をお開け、ユマオ」
優しい抱擁は夢だと思った。
死者の国に行くまでの一瞬の幻だ。
「これ、聞いておるか?」
ユマオは、まだ十七の若い娘は、ふるえる腕で精一杯きつく抱き返して首を振る。
「いやです」
「ユマオ?」
困ったように、慣れた指先で頭を撫でられる。
それがあんまり温かいから。
「よいこにします。だからもう、おいていかないで……」
ユマオは泣いた。葬儀でさえ、涙なんか一滴も浮かばなかったのに。今のユマオはまるっきり子どもだった。
「わかっておる。母はどこにも逃げぬよ。だから、さあ、ほら」
そのかわいい瞳を見せておくれ。
母の口癖だ。
懐かしい、あの日々。
ユマオは導かれるまま顔をあげた。ゆっくりと、おそるおそる目を開く。
母が……母と同じ色の瞳をした童女が、ユマオの濡れた頬を包んでいた。
ユマオはつぶやいた。
「ははうえ?」
「ああ。そうだ。お前があまりに心配でな。生き返ってしもうたよ」
童女は笑う。
ユマオの大好きな優しい笑顔だ。花開くように美しく、やわらかく、少年によく似ている。
「生まれ変わったって言うんじゃないの? こういうのは」
「知らん。呼び方なんぞ気にするなよ、弟」
「相変わらず細かいわねえ」
「感動の再会だってのに」
「水を差すでないわ、まったく」
いつどこから出てきたのか、ビルニークの剣を弾き飛ばした老若男女がスヌーヌごと周りを囲んでいた。
びっくりしすぎて涙も止まってしまったユマオに、彼らは朗らかに笑いかける。
「はじめましてだなあ、ユマオ」と銀髪の若者が、
「僕らは姉さんの弟だよ」と金髪の若者が、
「わたしは姉よ。妹の娘」と赤毛の女が言い、
「わしは初めてではないな。久しぶり、じゃの? 妹の娘。覚えておるかな?」と老人が尋ねた。
「宴があっただろう、お前の五つの祝いの。あれに兄は来ておった」
「そう。奇術を見せてやった」
ぱっと現れた花束にユマオは目を丸くして老人を見上げる。母が指さして笑った人だ。
「あの時と何も変わらんな。よいこじゃ」
その目尻の皺がぎゅっと深くなるのを、まだ夢心地に見つめる。
「ふふ、当たり前だ。私の娘だからな」
童女も笑っている。
母上だ。
抱きしめられたままユマオは思った。
こんなに小さくなってしまわれた。髪の色も違う。でも、間違いない。この方は私の母上だ。
「お」
「うん?」
「おかえり、な、さい、ませ」
それしか言葉が出なかった。言いたいことも聞きたいこともたくさんあった。あったのに、ずっと考えていたのに、今はもうこれだけでいいと思った。
「ああ。長いこと待たせてしまったな。すまぬ、ユマオ。愚かな母を許しておくれ」
首を横にぶんぶん振る。それから、縦にも。
「か、かえってきてくださった、だけで」
「そうか? ユマオは優しいな。もっとわがままを言うてよいのに」
ずいぶん長かった五年を挟んで、今では「姉に見える」のはユマオの方だ。それがおかしくておかしくてしあわせで、どうしようもなくて、またきつくきつく抱きしめる。今は、それがユマオのわがままだった。
「まあ、うらやましいわね。後でかわりなさいよ、妹」
「ふむ。よかろう。ひとつ貸しだぞ。占の姉」
「それではわしも」
「俺も」
「僕も」
剣を弾き飛ばされたビルニークは目の前のやり取りを呆然と見つめていた。
何だこれは、と思う。
おかしな集落の者たち。違和感を覚える隙さえないほど大人びた童女。金髪の若者はあっけなく剣を奪った。あの、普通の娘のように泣く王女を庇って。
「何だこれは、って顔だね?」
その若者はわらっている。体中をふるわせ、わらい続けている。
「さっきの言葉、そっくりそのまま返すよ」
その時、ビルニークだけではない、その場の皆が彼の呪いを聞いた。
「貴様らが姉上を殺した。それで十分だ。僕が、貴様らを、わらうには」
呪い。
全員の骨の髄まで刻まれる大声で彼はわらう。
日頃気弱にすら見えた優しい唇を吊り上げてわらう。
憎しみのかたまりのように、消せない悲しみのように。
「姉上は優しすぎる。何故冠しか壊さなかったのです。もっと全部何もかも滅茶苦茶に、国の名前ごと消せばよかったではありませんか。残るように手を加えてやる意味など欠片もない」
「……お前の情の深さは、時にお前らしからぬ恐ろしいことを言わせる」
と、かつての女王は微笑む。
女王。そう呼ぶのをためらう理由はもう誰にも何もなかった。
「『余』は、こわいお前も嫌いではないが」
即位の時には誰もが目を奪われた妖艶な表情で、娘の青ざめた頬を抱く童女は美しい。
「この子にはよくないな。腹の子にも」
神話の時代が、今この広間にだけ戻ってきていた。
冠は輝かしく、王は神々しかった調和の時代が。
しばしその姿を眩しそうに見つめていた若者が跪く。
「はい、姉上」
呪いの波が引いてゆく。
急に呼吸が楽になったのは、決して気のせいではない。
童女がふとサーラブを見つめた。
「へ、へいか」
「まったく、もう少しうまくできなかったのか? サーラブ。理想主義もいい加減にしておけ。すべてを救おうとしたところで、お前では一人壊れるのが目に見える。……まあ、どこまでも人間なのが、お前の取り柄ではあるのだがな」
サーラブは自分が泣いていることに気がついた。
人間。
そうだ。いつも、この方はそう言っていた。
王とは、人である前に、王なのだ。「お前たちとは根底が違う」……。
ネスルもサーラブも誰も、ここで国の未来のどうのこうのと話し出す気にはならなかった。そして黙りこくった人々の息を奪うように、まさに今我慢が尽きてしまった人魚の歌声が鳴る。
あまりにも清らかに誇らしく、今この時にふさわしくなく。
圧倒的なそれは間もなく人々の視線さえ奪った。恐ろしい現実を前に、彼女の歌はあまりに甘美な夢だった。その無垢な腕に抱かれたこの世のものとは思えぬ人形は、髪と瞳の色を違えただけだが、かつてのスヌーヌとはあまり似ていない。その父ハマーマの面影も無論ない。少なくともスヌーヌはそう思った。もっと貴い形になっていた。ぴんと張りつめた美しさ。
あれが俺の顔だったというのか。あんなに、美しいものが? 信じられない。でもそうなのだ。確かに繋がりを感じる。
兄弟の乱入には加わらず、壁際で見物していたコドクはそっと笑った。まったく素晴らしい見世物だ。
だが、マチルダはかちかちと歯を鳴らしていた。
だって、あんな連中の可愛がる人魚だ。人魚。古い噂。噂? 本当に? だって、美しの狂王がそこにいる。死んだのによみがえった。死んだ。間違いなく死んだ。でもよみがえった。じゃあもう、他に何がいたっておかしくない。奴らは魔性、本物の魔性なのだ。
マチルダは不意に自分の最初の記憶を思い出す。
父母もろとも砂の海に呑まれかけていた日のことだ。アル・ラベェの余波を逃れ、西へ向かう途中だった。幼かった自分の体は熱く火そのもののようで、だが自由にうねる炎と違ってぴくりとも動かなかった。死んでいく、ということからマチルダの記憶ははじまったのだった。そして、それを救いあげてくれたネスルの手から。
あんなに熱さから逃げたかったのに、人の温もりが泣きそうなくらい嬉しかった。
思い出して、マチルダはふらりと一歩だけ人魚から遠ざかった。この日もまた、マチルダは記憶の中の優しい手に救われたのである。
何からと言えばそれは、人魚から。
そして、それを引きずり出した女の、深い、こわい、執着から。
ありがとうございました。




