宴3
よろしくお願いします。
時間は少し巻き戻る。
ところ変わって、人魚の鼻歌が響く天幕でのことである。
「あんた自分で開けらんないの? これ」
しばらくぶりにかごに近寄ってマチルダが聞くと、人魚は歌うのをやめ、こてっと首をかしげた。
「あけらんないの?」
相変わらずのおうむ返し。いやおうむの方がまだましだ。鳥にしては賢いってことなんだから。だけどこの子は人間で、それもとびっきり馬鹿な子!
マチルダは苛々と平手でかごを叩いた。
「当たり前でしょ。何? あんた、あたしがこんなもん一人で抱えていけるとでも思ってんの?」
人魚はあたふたと立ち上がった。
「かかえるの、どこ行くの」
「だ、か、ら! 歌! 宴にいくの!」
ぱあっと明るくなる。その無邪気に見える笑顔がまた腹立たしい。
「うたいにいくの!」
「そうよだから開けなって言ってんの!」
マチルダは自信たっぷり高圧的に命じた。運命的に、とコドクは後に皮肉っぽく付け加えてみせた。今のマチルダにとっては幸運だったのだけれど、人魚はこういう強引な少女をよく知っていたのだ。逆らうものにはとことんきつく、従うものには甘い、優しい。そしてそんな自分は慈悲深いのだと信じている人間をしっかり覚えていた。
「あ、あける。あけるよ。まってね」
人魚は慌ててかごの天井を叩いた。彼女にしては珍しくすばやい判断だったのに、この短い間にもマチルダはぶつぶつ文句を言った。
「ほんと全然わかんないわ。あんたみたいな、ぼーっとした、農家の末っ子みたいなのろまのどこがいいわけ? 歌うほかには何にもできないのに」
農家の末っ子なんてろくに見たこともないくせに、そんな罵倒をする。
かごの芸術的な開きかたにさえ苛立って叫ぶ。
「時間がないのに!」
この人魚の美しい取りまき達がいつ帰ってくるのか、マチルダは知らなかった。
いつもならネスルの頼みだって無視してかごのまわりに陣取っている連中なのに、今日だけは全員出払っていた。一座のみんなについて宴に行ってしまったのだ。マチルダは、罰として留守番役。
そんな不公平を大人しく受け入れると思っているなら大間違いだ。
絶対、宴に出る。
そのためにたくさん練習もした。
ネスルが怒ったって知るもんか。座長も姐さんたちも、人魚を連れてきたと知れば喜んでくれるはずだ。
だってそのために都まで来たんだから、今さら人魚を歌わせないなんて筋が通らないじゃない。
奴らは最低。不正直で、美しの狂王みたいにたちが悪い。
宴はそろそろ始まっただろうか。
夕日がつくりだす青い影は美しかった。風は少しずつ強まっていた。
不安げに人形を抱え直した人魚を見て、マチルダは置いていきなさいよそんなの、と言おうか迷った。もたつきはしたが、とにかくはじめてまともに言うことを聞かせられたので、マチルダの心は幾分広くなっていたのだ。
まあひとつくらいならご褒美をやってもいいわね。急いでるのに、またぐずぐずされたらたまったもんじゃないし。
「さあ行くわよ。人形は持っていっても構わないから、しゃんと立って歩くの。いい?」
猫なで声で言い聞かせると、人魚は嬉しそうにうなずく。
単純な子。
マチルダはちらりと人形を見下ろし、息を呑んだ。
そこにあったのは、あの不気味な目玉じゃなかった。深い苦しみと安らぎを同時に湛えている美貌だった。人の手でつくられたとはとても思えない。
これが、あれ? あの人形? 目だけくりぬいてこっちに嵌め込んだんじゃなくて? 髪だって被せればいいんだし、きっとそうなんだわ。だってこんなのおかしい。そうに決まってる。
見れば見るほど呑み込まれそうで、マチルダはぶんぶん首を振った。
「さ、さあ行くわよ」
早足で歩きだす。ところが人魚はよたよたしてまっすぐ歩くことさえできないので、何度も立ち止まる羽目になった。おおらかになった心はあっという間に萎んで苛立ちがつのった。
「あんたってほんと役たたず。頭だけじゃなくて、体まで鈍いんだから!」
剣呑な少女の声に、通りすがった人々が驚いて振り返った。でもマチルダは気にしない。
「ねえ、手をつないでやったらどうだい? その子、随分と疲れてるみたいじゃないか」
路肩の老商人が声をかけても聞こえないふりだ。
「意地悪はよして、人形くらい持っておやりよ」
「意地悪? 馬鹿言わないでよ。この子はね、これだけは絶対離さないんだから。あたしのせいじゃないわ」
確かにそれは本当だった。マチルダだって、このいかにも重そうな人形がなければもっとさっさと歩けるだろうと思ったのだ。でも人魚は持ってやろうとしたって絶対に渡さないのだから。
歓楽街を抜け、商人地区を通り過ぎ、やっと目的の屋敷に着いた時には思わずため息をついた。
とっくに、夜。
金色の満月に照らされると、質実剛健で名高い宰相のお屋敷も、高い塀がいかにも気取っている感じがした。
門番には当然止められたが、
「『虹の羽衣』よ。この子の足があんまり遅いんで、あたしらだけ後で来なさいって言われたの。人魚の噂は聞いてるでしょ?」
マチルダの堂々とした態度と人魚の衣裳だけで十分だった。今日招かれた中でもとびきり見目麗しい変わった衣裳の男女は門番達の記憶によく残っていたからだ。人魚と人形を見れば、彼らの一団だとすぐにわかる。
他の面々と違って、肌なんか全然見えない外套だった。でも、その裾や襟の刺繍の細やかさと言ったら。あんなもの滅多に見られない。
それに宴はとっくに始まっていたので、マチルダの不機嫌も当然のことだと思われた。せっかくここまで来たのに、自分の出番は終わっているかもしれないのだ。
仕事熱心な一人の門番は、同情を含んだしゃがれ声で哀れな少女達に広間までの道を教えてくれた。正式な入り口はもう閉じられてしまったが、芸人たちが着替えたりするために出入りを繰り返すので、小さな扉の幾つかは開け放してある。その周辺でお仲間にも会えるだろう、と彼は優しく言った。
マチルダはしおらしく礼を述べたが、果たしてそれはどうかしらと考えていた。もしかしてネスル達は主人の側で酌を受けているかもしれない。「虹の羽衣」は、特にその男衆は、本来もてなされて然るべき身分なのだ。ずっと隠してきたこの事実を今夜明らかにするつもりだと、マチルダはもちろんしっかり覚えていたのだった。そんな喜ばしい舞台に自分だけ立てないなんてまっぴらだった。
「うた」
と人魚がつぶやく。
「ああわかってるわよ。うるさいわね。もうちょっとで着くじゃない。これっぽっちの我慢もできないの?」
マチルダは厳しくたしなめた。
「来なさい、のろま。こんな時間になったのは、全部あんたのせいなんだからね」
あまりの刺々しさに、門番たちは二人を見比べた。
言われた少女が泣き出しそうだと思ったら、差し出がましいとは思うけれど一言注意してやるつもりだった。ところが人魚は微笑んでいる。
その無邪気さに、思わず息を呑む。
そうして彼らが何も言えないうちに、二人の少女と人形は廊下の向こうに消えてしまったのである。
大広間では頬に赤みの増した男たちが声高に言いあっていた。
「数えきれぬ人々が命を失ったのですぞ。それを、いくら王族とは言えあの王の直系が冠を戴くとは余りにも…」
「まことに。亡くなった者たちとて浮かばれますまい」
「おっしゃる通り!」
きちんと口にしたのにも関わらず、冠を拒絶するユマオの意志など彼らにはまるで届いていないのだ。スヌーヌは耳の後ろを擦る。
燃え尽きたサーラブの隣に座して成り行きを見守っていたユマオは小さく笑った。はじめはサーラブやスヌーヌにしか聞こえなかったものが、だんだんと大きくなる。
広間はまたもや静まっていった。大の男らが成人したての娘相手に恐れをなして息をひそめたのだ。
まるで、狂乱の王を前にしたように。
「ユマオ殿下?」
「数えきれぬ、だと?」
サーラブの呼び声に被せたつぶやきは冷ややかだった。
「何だそれは。冗談のつもりか?」
言い出した老年の男は見据えられただけで声も出ない。
無理もないな、とスヌーヌは思う。
皮肉に歪んだ笑み、ゆったりと頬杖をついて周囲を見おろす横顔も、いつものユマオとはまるで別人だ。陛下、と誰かがつぶやくのが耳に届く。
「三万」
ユマオは告げる。
「三千、八百、五十、六」
一区切りごと、おそろしくゆっくりそう告げる。
「私が生まれたその日に、母上が殺した人数だ」
驚くべき数だった。この都がぜんぶ死体で埋まってもおかしくない。
大虐殺、と世では言われる一日。
それからいくつかの数字をユマオは口にした。それがいつの死者の数なのかも合わせて言った。
笑わせるなよ、と彼女は囁く。
「数えきれるさ。当たり前だろう。毎日聞いていたのに覚えていないのか」
有名な話だった。美しの狂王は即位してから毎日同じことを問うた。
今日は何人死んだ?
答えるのはハマーマの役目だった。
王はその数だけ庭の花びらを湯に浮かべた。いつもの戯れと皆が思っていた。残酷な、戯れだと。
「母上はな、これは箱庭王の戒めだと私に教えてくださった。自分がどれだけ死なせたか、決して忘れないための習わしだと。だからすべて覚えておられたよ。いつ、誰を、どう殺したのか。何故殺さねばならなかったのか。すべて。……冠など私はいらぬ。お前らにでも犬にでも、欲しいやつにくれてやる。母上だってそうだったじゃないか。なりたくてなった王ではない。忘れたか? お前らの親やその親が、母上を見つけて冠を被せた。人形にするつもりでそうした。忘れたのか? 母上がお隠れになったあの日、それまでに失われた命を数えたか? 悼んでみたことが一度でもあるか? 言え。答えてみろ。死んでいった者は何人だ? お前らは、数えたことが一度でもあったのか?」
口調こそ穏やかだったが、そこには先ほどのサーラブにも劣らぬ凄みがあった。
スヌーヌでさえしばし茫然とした。
これがあのユマオか。いつも無為に怯えていた娘か。信じられない。そして、この問いに誰も答えないことも、彼には理解できなかった。こんなものかと思った。父が家族を捨ててまで尽くした、結果はこんなものか。ユマオが怒るのも無理はない。
「……きょ、狂王の娘が偉そうに」
ふと、隅に控えていた男が声をふるわせる。まだ若い、スヌーヌと変わらぬ年頃の男だ。あざやかな剣舞の衣装のまま、彼は立ち上がる。腰には剣。
「ビルニーク」
同じ格好の男がその手を掴む。見覚えのある顔だった。「花と仮面」亭。南の一番は人魚を呼ぶと、学府の訛りで叫んでいた。
「よせ」
だがビルニークが睨むのはただ一人。
「あんたの母親は狂ってた。意味もなく簡単に人を殺した。大虐殺。俺の親父もその一人だ。全体でいくらなんか知るもんかよ。親父は、死んだ。それだけで十分だろ?」
ずかずかと近づいてくる男に、ユマオはいっそ優しく言って聞かせる。
「意味もなく人を殺せる人間など、いない」
「黙れ。お前も狂王と同じだ。魔性に、人間の心なんかわからない」
ビルニークは腰の剣を抜いた。その音は珍しく冴えて綺麗だった。
「死ね、王女」
誰もが目を背けたこの瞬間、スヌーヌだけははっきり二人を見ていた。
天使と、王女と、約束をしたとおりに目を見開いていた。
だからその介入者を見たのも、彼が一番はじめだった。
ユマオでさえ、この瞬間は目を閉じていたから。
ありがとうございました。




