広間
王宮の広間には、本当に、高いところがなかった。
天井は高い。高いが、そこへ行く道がない。壁は平らで、柱は磨いてあって、窓は床から生えている。登れるものが、ひとつもない。
人間は、どうしてこういう部屋を作るのか。
たぶん、逃げられない部屋を作りたかったのだと思う。そういう部屋に大勢を集めて、互いを見せ合う。これは、わたしの知るかぎり、もっとも人間らしい遊びである。
わたしは、扉のところで足を止めた。
「オデット」と父が言った。「進みなさい」
「うん」
*
人間が、百人以上いた。
正確な数は分からない。数えようとしたが、動くので、途中で分からなくなった。
わたしは、歩いた。
広間の端を、壁に沿って歩いた。
これは、考えてやったことではない。この部屋には登る場所がないので、せめて片側だけでも気にしなくていい道を選んだ、というだけである。
歩いているうちに、ひとつ気がついた。
混んでいるところを通らなければ、人にぶつからない。
人にぶつからなければ、音がしない。
音がしなければ、誰もこちらを見ない。
これは、たいへん良い発見だった。
*
その夜のことは、あとで何度も聞かされたので、周りから見るとどうだったのかを、わたしも知っている。
曰く、シャルヴィル家のご令嬢は、広間に入ってから一刻のあいだ、一度も人の前を横切らなかったそうだ。
曰く、立ち止まるときは必ず壁を背にし、誰にも背中を見せなかったそうだ。
曰く、足音がまったくしなかったそうだ。
曰く、そのあいだ、誰にも話しかけず、誰の目も見なかったそうだ。
曰く、しかし、話しかけられたときには必ず答え、相手が喋っているあいだ、一度も目をそらさなかったそうだ。
この最後のは、少し違う。
わたしは、相手が喋っているあいだ、相手の口元を見ている。目は見ない。目を見るのは「やるか」の合図だからである。口元を見ていれば、相手がいつ喋り終わるかが分かる。喋り終わったら「うん」と言えばいい。
人間は、どうやら、それを「真摯に聞いている」と呼ぶらしい。
わたしとしては、終わるのを待っているだけである。
*
父は、広間の中央近くにいた。
わたしは壁際にいた。
人が父に話しかけ、父が答え、ときどき、父がわたしのほうを見る。すると相手も、わたしのほうを見る。わたしは、何も言わない。
父が言った通りである。わたしは、ただ立っている。
これが、たいへんよく効いているらしかった。
なぜ効くのかは、あとでオーギュストが説明した。
「公爵が何か言われて、答えに迷ったように見えたとき、あなたのほうを見る。すると相手は、公爵が娘の判断を待っていると思う」
「わたし、なんにも考えてない」
「ええ」とオーギュストは言った。「ですから、沈黙が長いのです。長い沈黙は、重いのです」
人間の社会というのは、ずいぶん安く動いている。
*
一刻ほどして、わたしは壁の隅で足を止めた。
そこに、窓があった。
窓のそばは、冷たい。隙間から外の空気が入ってくる。百人の人間が集まった部屋は暑いので、この隙間は、たいへん貴重である。
わたしは、そこに立った。
立って、半分ほど外を見た。
王宮の庭が見えた。暗い。木が植わっている。石の道がある。奥のほうに、低い建物があって、その屋根が、月の明かりで見えた。
あの屋根には、行ける。
たぶん、あの塀を越えて、あの木を使えば。
——使えない。
わたしは、この体を見下ろした。
布が多い。足が長い。爪がない。
わたしは、窓から目を離した。
*
「お寒いのではありませんか」
声がした。
若い男だった。背が高く、髪が明るく、服に金が多い。この服の量は、着る本人の意思ではないと思う。
匂いは、悪くなかった。
強い香を使っていない。これは、この部屋の中では珍しいことである。
「寒いけど、いい」
「よい?」
「暑いより、いい」
男は、少し笑った。
「正直に言われる方だ」
わたしは、男の後ろを見た。
人間が、少し離れて、半円に並んでいた。全員が、こちらを見ないようにしながら、こちらを見ていた。
これは、群れの中の、順位の高いやつの周りで起きることである。
なるほど、と思った。
この男は、たぶん、この部屋でいちばん上のやつである。
*
あとで名前を聞いた。
リュシアン・ド・ヴァルロワ。
王子である。
この夜、わたしは彼と、おそらく十五ほどの言葉を交わした。内容は覚えていない。覚えているのは、三つだけである。
ひとつ。彼が「あなたは、この部屋が嫌いですか」と訊いたこと。
わたしは「人が多い」と答えた。
ふたつ。彼が「わたしも嫌いです」と言ったこと。
これは少し意外だった。順位の高いやつは、たいてい、自分の群れの真ん中が好きなものである。
みっつ。彼が、こう言ったこと。
「あなたは、わたしに何も訊きませんね」
わたしは、彼を見た。
正確には、口元を見た。
「訊くこと、ある?」
王子は、しばらく黙っていた。
それから、笑った。
この笑い方は、さっきのとは違った。さっきのは、顔でする笑い方だった。今度のは、息でする笑い方だった。
猫は、音の違いが分かる。
*
夜会が終わって、箱の中で、父は何も言わなかった。
母も何も言わなかった。
館に着いて、わたしが三階に上がろうとしたとき、父がようやく口を開いた。
「オデット」
「うん」
「今夜、お前は何もしなかった」
「うん」
「……それでいい」
父は、少し考えてから、こう付け加えた。
「だが、ひとつ余計なことが起きた」
わたしは、父を見た。
「殿下が、お前を覚えた」
父の声は、いつもと同じだった。同じだったが、少し低かった。
この家の主人は、わたしが何もしないことを使うことに決めたはずである。
どうやら、何もしなかった結果が、予定より大きかったらしい。
*
物置に上がると、窓が半分開いていた。
膝掛けが、台の上に畳んで置いてあった。
わたしは庇に出て、座った。
王都の屋根は、まだそこにあった。灯が減っている。煙も減っている。夜会のあいだに、人間たちが寝たのである。
向かいの屋根に、茶色いやつはいなかった。
わたしは、しばらく王宮のほうを見ていた。
あの庭の、奥の低い屋根。
あれには、行けない。
この体では、行けない。
風が吹いた。冷たい。
わたしは、膝掛けを肩まで引き上げた。
誰がこれを置いていったのかは、見ていない。
見ていないが、この家には、わたしが寒いと言うと膝掛けを持ってくる人間が、少なくとも三人いる。
——悪くない。
わたしは、そう思った。
思ってから、少し、変な感じがした。
これは胸のあたりではない。もっと、腹の奥のほうである。あたたかいものを食べたあとに似ている。
猫は、これを知っている。
知っているが、名前は知らない。




