手
冬の社交のあいだ、館には人が足りなかった。
足りないので、人を入れる。
入れるにあたって、マノンが一人、名前を挙げた。
「ドルネ家にいた、リゼットという娘でございます」
わたしは、それを聞いていなかった。聞いていなかったので、その娘が来た日も、特に何も思わなかった。
思わなかったが、顔は覚えていた。
茶会で、茶をこぼした子である。
*
その子は、台を運んできた。
三階の物置に、わたしの食事を運ぶ係になったらしい。
最初の日、その子は扉のところで三度ほど息を吸ってから入ってきた。台を置く手が震えていた。震えていたが、こぼさなかった。
「……お、お食事を、お持ちいたしました」
「うん」
その子は、下がろうとして、それから、思いきったように言った。
「あの」
「うん」
「……あの日の、お礼を」
わたしは、その子を見た。
礼というのが何のことなのか、少し考えて、分かった。
「あれ、音が大きかったから」
「は」
「大きい音が、嫌だったの」
その子は、たいへん困った顔をした。
それから、頭を下げて、出ていった。
翌日から、その子が運んでくる台には、必ず何かが一つ多かった。小さな菓子か、果物か、湯の入った器か。
わたしは、それを全部食べた。
多く持ってくる人間に、食べないという選択はない。それは失礼にあたる。猫の作法である。
*
その子は、よく喋った。
喋ると言っても、わたしに向かって喋るのではない。台を置いて、器を並べて、そのあいだに、ひとりで喋っている。
「今日は、お台所がたいへんで」
「うん」
「ベルトさんが、ピエールさんに塩の壺を投げまして」
「うん」
「当たりませんでした」
「うん」
この子は、わたしが「うん」としか言わないことを、三日で受け入れた。
受け入れてから、喋る量が倍になった。
わたしは、庇の上で聞いていた。
人間の喋り声は、意味を追わなければ、水の音と変わらない。悪くない音である。
*
八日目に、その子が台を落とした。
三階の廊下である。
物置の中から、音が聞こえた。陶器が割れる音と、湯がこぼれる音と、それから、人の声がした。
声は、男だった。
王都の館の、下働きを束ねている男である。名はクレールという。ジェルマンの下にいて、五年、ここにいる。
声の高さは、高くなかった。
低かった。
低い声で、速く、短く、続けて言う。あれは、声を荒らげるよりも効く種類の怒り方である。叱られているほうは、言い返す隙がない。
わたしは、庇の上にいた。
そこまでは、聞いていた。
聞いていて、別に動く気はなかった。人間が人間を叱るのは、人間の群れの中のことである。
そのとき、音がした。
短い音である。
肉を、掌で打つ音。
わたしは、立ち上がった。
*
窓から中に入るのに、たぶん一拍かかった。
それから廊下に出るのに、もう一拍。
廊下には、三人いた。
リゼットが、床に膝をついている。割れた器を集めている。頬を押さえていない。押さえないのは、押さえると叱られるからである。
クレールが、立っている。
もう一人、下働きの娘が、壁際で動けなくなっている。
クレールが、こちらを向いた。
向いて、わたしを見て、顔の色が変わった。
「お、お嬢様。お見苦しいところを」
わたしは、歩いた。
歩いて、リゼットの前で止まった。
そして、そこに立った。
茶会のときと、同じである。あの音と、この子のあいだに立つ。それだけのことである。
ただし、茶会のときと違って、わたしは今度、相手を見た。
まっすぐ、目を見た。
猫にとって、これは一つの意味しか持たない。
*
クレールは、一歩下がった。
下がってから、下がったことに自分で驚いた顔をした。
この男は、たぶん、自分が何を見たのか分かっていない。公爵家の令嬢が、無言で自分を見ている。それだけである。叱責もなく、問いもなく、ただ、見ている。
人間の目は、あまり物を言わない。
だが、人間でも、見られれば分かる。
「お嬢様、これは、その、この娘が」
わたしは、何も言わなかった。
言うことがなかった。
「廊下を、湯で濡らしまして、二度目でございます。しつけのうちと」
わたしは、まだ見ていた。
クレールの額に、汗が出ていた。冬である。
沈黙が、長かった。
どれくらい長かったかは分からない。わたしは、相手が目をそらすまで待つつもりだった。それ以上のことは考えていない。待つのは猫にできる数少ないことの一つである。
やがて、クレールが目をそらした。
そらして、頭を下げて、そのまま後ろに下がって、階段を降りていった。
わたしは、動かなかった。
下働きの娘が、壁際から、そっと離れていった。
*
廊下には、わたしとリゼットが残った。
リゼットは、まだ膝をついていた。
割れた器を、両手で持っていた。
顔を上げなかった。
「……あの」
「うん」
「も、申し訳ございません」
わたしは、その場に座った。
床である。廊下の床に、公爵令嬢が座った。
リゼットが、顔を上げた。
たいへん困った顔をしていた。
わたしは、別に慰めるつもりではなかった。立っていると、この子が顔を上げないからである。顔を上げない相手は、こちらを怖がっている相手である。怖がっている相手の前では、低くなるのが早い。
これも、猫の作法である。
「湯が」とわたしは言った。「こぼれてる」
「は、はい」
「拭かないと、滑る」
「……はい」
その子は、袖で床を拭きはじめた。
泣いていた。
泣きながら拭いていた。
わたしは、横に座って、それを見ていた。
胸のあたりが、変な感じになった。
わたしの手が、持ち上がりかけた。
この子の頭のほうへ。
——止まらなかった。
わたしの手は、この子の髪に触れた。
二度、撫でた。
それから、自分の手を見た。
誰がやったのか、分からなかった。
*
その夜、三階の物置に、ジェルマンが来た。
家令が自分で上がってくるのは、初めてだった。
彼は、窓の外のわたしに向かって、廊下に立ったまま言った。
「クレールを、下げました」
「うん」
「本日付けで、下働きの差配から外し、庭の仕事に移しました」
「うん」
「……お嬢様」
「うん」
「本日のことは、どのように申し伝えればよろしいでしょうか」
わたしは、庇の上で振り返った。
「なにを」
「公爵には、何と」
わたしは、少し考えた。
考えて、思いついたことを言った。
「音が、大きかった」
ジェルマンは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……承知いたしました」
彼は降りていった。
降りる途中で、一度、立ち止まった気配がした。
この家の人間は、本当に、立ち止まるのが好きである。
*
翌日、厨房は静かだった。
静かだったが、話はしていた。
「クレールさん、庭だって」
「ざまあないわね」
ベルトが、鍋をかき回した。
「お嬢様が、ご覧になったんだって」
「見ただけ?」
「見ただけ」
ピエールが、藁を払う手を止めた。
「……それ、怖くねえか」
「怖いわよ」とベルトが言った。「でも、あの子を叩いたのよ」
「叩いたな」
「じゃあ、怖くていいのよ」
洗い場のアネットが、黙って鍋を洗っていた。
やがて、こう言った。
「あたしはね、あの方が何をお考えなのか、いまだに分からないよ」
「うん」
「分からないけどね」
彼女は、水を切った。
「この屋敷で、子どもを叩く人間は、もういないよ」
誰も、何も言わなかった。
*
その夜、オーギュストが物置に来た。
彼は、いつもどおり、窓から顔を出さなかった。
「昨日のことを聞きました」
「うん」
「あなたは、クレールを見つめたそうですね」
「うん」
「なぜです」
わたしは、庇の上で、王都の屋根を見ていた。
風がなかった。
王宮のほうに、灯が三つ、ついていた。
「あの子、わたしの」
そこで、言葉が止まった。
なんと言えばいいのか、分からなかった。
人間の言葉には、これに当たるものがない。「わたしのもの」ではない。「わたしの家族」でもない。「わたしの友」でもない。
猫の中には、ちゃんとある。
自分の人間、という区分である。
餌をくれるかどうかとは関係がない。手が乱暴でないかどうかとも、少し違う。ただ、こちらが決める。決めたら、それで決まる。向こうの意思は関係ない。
わたしは、言い直した。
「わたしが、決めたから」
オーギュストは、何も訊き返さなかった。
しばらくして、こう言った。
「オデット嬢」
「うん」
「わたしは、あなたを、まだ一度も怖いと思ったことがありません」
「ふうん」
「昨日の話を聞いて、初めて、少し考えました」
わたしは、振り返った。
物置の中は暗くて、彼の顔は見えなかった。
「考えて」
「はい」
「どうなったの」
彼は、少し黙った。
「……やはり、怖くはありませんでした」
そして、こう続けた。
「ですが、あなたに決められた者は、幸運だと思いました」
わたしは、また屋根のほうを向いた。
この男は、ときどき、分からないことを言う。
分からないが、嫌ではなかった。




