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10/22

手

冬の社交のあいだ、館には人が足りなかった。


 足りないので、人を入れる。


 入れるにあたって、マノンが一人、名前を挙げた。


「ドルネ家にいた、リゼットという娘でございます」


 わたしは、それを聞いていなかった。聞いていなかったので、その娘が来た日も、特に何も思わなかった。


 思わなかったが、顔は覚えていた。


 茶会で、茶をこぼした子である。


*


 その子は、台を運んできた。


 三階の物置に、わたしの食事を運ぶ係になったらしい。


 最初の日、その子は扉のところで三度ほど息を吸ってから入ってきた。台を置く手が震えていた。震えていたが、こぼさなかった。


「……お、お食事を、お持ちいたしました」


「うん」


 その子は、下がろうとして、それから、思いきったように言った。


「あの」


「うん」


「……あの日の、お礼を」


 わたしは、その子を見た。


 礼というのが何のことなのか、少し考えて、分かった。


「あれ、音が大きかったから」


「は」


「大きい音が、嫌だったの」


 その子は、たいへん困った顔をした。


 それから、頭を下げて、出ていった。


 翌日から、その子が運んでくる台には、必ず何かが一つ多かった。小さな菓子か、果物か、湯の入った器か。


 わたしは、それを全部食べた。


 多く持ってくる人間に、食べないという選択はない。それは失礼にあたる。猫の作法である。


*


 その子は、よく喋った。


 喋ると言っても、わたしに向かって喋るのではない。台を置いて、器を並べて、そのあいだに、ひとりで喋っている。


「今日は、お台所がたいへんで」


「うん」


「ベルトさんが、ピエールさんに塩の壺を投げまして」


「うん」


「当たりませんでした」


「うん」


 この子は、わたしが「うん」としか言わないことを、三日で受け入れた。


 受け入れてから、喋る量が倍になった。


 わたしは、庇の上で聞いていた。


 人間の喋り声は、意味を追わなければ、水の音と変わらない。悪くない音である。


*


 八日目に、その子が台を落とした。


 三階の廊下である。


 物置の中から、音が聞こえた。陶器が割れる音と、湯がこぼれる音と、それから、人の声がした。


 声は、男だった。


 王都の館の、下働きを束ねている男である。名はクレールという。ジェルマンの下にいて、五年、ここにいる。


 声の高さは、高くなかった。


 低かった。


 低い声で、速く、短く、続けて言う。あれは、声を荒らげるよりも効く種類の怒り方である。叱られているほうは、言い返す隙がない。


 わたしは、庇の上にいた。


 そこまでは、聞いていた。


 聞いていて、別に動く気はなかった。人間が人間を叱るのは、人間の群れの中のことである。


 そのとき、音がした。


 短い音である。


 肉を、掌で打つ音。


 わたしは、立ち上がった。


*


 窓から中に入るのに、たぶん一拍かかった。


 それから廊下に出るのに、もう一拍。


 廊下には、三人いた。


 リゼットが、床に膝をついている。割れた器を集めている。頬を押さえていない。押さえないのは、押さえると叱られるからである。


 クレールが、立っている。


 もう一人、下働きの娘が、壁際で動けなくなっている。


 クレールが、こちらを向いた。


 向いて、わたしを見て、顔の色が変わった。


「お、お嬢様。お見苦しいところを」


 わたしは、歩いた。


 歩いて、リゼットの前で止まった。


 そして、そこに立った。


 茶会のときと、同じである。あの音と、この子のあいだに立つ。それだけのことである。


 ただし、茶会のときと違って、わたしは今度、相手を見た。


 まっすぐ、目を見た。


 猫にとって、これは一つの意味しか持たない。


*


 クレールは、一歩下がった。


 下がってから、下がったことに自分で驚いた顔をした。


 この男は、たぶん、自分が何を見たのか分かっていない。公爵家の令嬢が、無言で自分を見ている。それだけである。叱責もなく、問いもなく、ただ、見ている。


 人間の目は、あまり物を言わない。


 だが、人間でも、見られれば分かる。


「お嬢様、これは、その、この娘が」


 わたしは、何も言わなかった。


 言うことがなかった。


「廊下を、湯で濡らしまして、二度目でございます。しつけのうちと」


 わたしは、まだ見ていた。


 クレールの額に、汗が出ていた。冬である。


 沈黙が、長かった。


 どれくらい長かったかは分からない。わたしは、相手が目をそらすまで待つつもりだった。それ以上のことは考えていない。待つのは猫にできる数少ないことの一つである。


 やがて、クレールが目をそらした。


 そらして、頭を下げて、そのまま後ろに下がって、階段を降りていった。


 わたしは、動かなかった。


 下働きの娘が、壁際から、そっと離れていった。


*


 廊下には、わたしとリゼットが残った。


 リゼットは、まだ膝をついていた。


 割れた器を、両手で持っていた。


 顔を上げなかった。


「……あの」


「うん」


「も、申し訳ございません」


 わたしは、その場に座った。


 床である。廊下の床に、公爵令嬢が座った。


 リゼットが、顔を上げた。


 たいへん困った顔をしていた。


 わたしは、別に慰めるつもりではなかった。立っていると、この子が顔を上げないからである。顔を上げない相手は、こちらを怖がっている相手である。怖がっている相手の前では、低くなるのが早い。


 これも、猫の作法である。


「湯が」とわたしは言った。「こぼれてる」


「は、はい」


「拭かないと、滑る」


「……はい」


 その子は、袖で床を拭きはじめた。


 泣いていた。


 泣きながら拭いていた。


 わたしは、横に座って、それを見ていた。


 胸のあたりが、変な感じになった。


 わたしの手が、持ち上がりかけた。


 この子の頭のほうへ。


 ——止まらなかった。


 わたしの手は、この子の髪に触れた。


 二度、撫でた。


 それから、自分の手を見た。


 誰がやったのか、分からなかった。


*


 その夜、三階の物置に、ジェルマンが来た。


 家令が自分で上がってくるのは、初めてだった。


 彼は、窓の外のわたしに向かって、廊下に立ったまま言った。


「クレールを、下げました」


「うん」


「本日付けで、下働きの差配から外し、庭の仕事に移しました」


「うん」


「……お嬢様」


「うん」


「本日のことは、どのように申し伝えればよろしいでしょうか」


 わたしは、庇の上で振り返った。


「なにを」


「公爵には、何と」


 わたしは、少し考えた。


 考えて、思いついたことを言った。


「音が、大きかった」


 ジェルマンは、しばらく黙っていた。


 それから、こう言った。


「……承知いたしました」


 彼は降りていった。


 降りる途中で、一度、立ち止まった気配がした。


 この家の人間は、本当に、立ち止まるのが好きである。


*


 翌日、厨房は静かだった。


 静かだったが、話はしていた。


「クレールさん、庭だって」


「ざまあないわね」


 ベルトが、鍋をかき回した。


「お嬢様が、ご覧になったんだって」


「見ただけ?」


「見ただけ」


 ピエールが、藁を払う手を止めた。


「……それ、怖くねえか」


「怖いわよ」とベルトが言った。「でも、あの子を叩いたのよ」


「叩いたな」


「じゃあ、怖くていいのよ」


 洗い場のアネットが、黙って鍋を洗っていた。


 やがて、こう言った。


「あたしはね、あの方が何をお考えなのか、いまだに分からないよ」


「うん」


「分からないけどね」


 彼女は、水を切った。


「この屋敷で、子どもを叩く人間は、もういないよ」


 誰も、何も言わなかった。


*


 その夜、オーギュストが物置に来た。


 彼は、いつもどおり、窓から顔を出さなかった。


「昨日のことを聞きました」


「うん」


「あなたは、クレールを見つめたそうですね」


「うん」


「なぜです」


 わたしは、庇の上で、王都の屋根を見ていた。


 風がなかった。


 王宮のほうに、灯が三つ、ついていた。


「あの子、わたしの」


 そこで、言葉が止まった。


 なんと言えばいいのか、分からなかった。


 人間の言葉には、これに当たるものがない。「わたしのもの」ではない。「わたしの家族」でもない。「わたしの友」でもない。


 猫の中には、ちゃんとある。


 自分の人間、という区分である。


 餌をくれるかどうかとは関係がない。手が乱暴でないかどうかとも、少し違う。ただ、こちらが決める。決めたら、それで決まる。向こうの意思は関係ない。


 わたしは、言い直した。


「わたしが、決めたから」


 オーギュストは、何も訊き返さなかった。


 しばらくして、こう言った。


「オデット嬢」


「うん」


「わたしは、あなたを、まだ一度も怖いと思ったことがありません」


「ふうん」


「昨日の話を聞いて、初めて、少し考えました」


 わたしは、振り返った。


 物置の中は暗くて、彼の顔は見えなかった。


「考えて」


「はい」


「どうなったの」


 彼は、少し黙った。


「……やはり、怖くはありませんでした」


 そして、こう続けた。


「ですが、あなたに決められた者は、幸運だと思いました」


 わたしは、また屋根のほうを向いた。


 この男は、ときどき、分からないことを言う。


 分からないが、嫌ではなかった。

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