王子
王宮から、紙が来た。
この紙は、他の紙と違った。
まず、厚い。次に、匂いが強い。香を焚いた部屋に置いてあった紙である。そして、蝋で封がしてある。蝋には、何かの形が押してある。
わたしは、それを嗅いだ。
嗅いでいるあいだ、母が、たいへん良くない顔をしていた。
「オデット」
「うん」
「それは、お読みになるものです」
「うん」
わたしは、それを読んだ。
読むのは、思おうと思えばできる。
書いてあったのは、次のことである。
近いうちに、王子リュシアン・ド・ヴァルロワが、シャルヴィル家を訪ねる。
以上である。
紙が厚くて、香が焚いてあって、蝋で封がしてあって、中身がこれだけなのだから、人間の文というのは、たいへん効率が悪い。
*
館が、おかしくなった。
三日のあいだ、全員が何かを磨いていた。
銀を磨き、床を磨き、窓を磨き、磨くものがなくなると、磨いたものをもう一度磨いていた。ジェルマンは眠っていないようだった。ベルトは厨房で三度、鍋を取り落とした。
わたしは、庇の上にいた。
上にいると、下の騒ぎが音でよく分かる。
四日目の朝、マノンが物置に上がってきた。
上がってきて、わたしを見て、泣きそうな顔をした。
「お嬢様」
「うん」
「本日は、庇にお出になりませんよう」
「なんで」
「殿下がお見えになります」
「ふうん」
「お庭から、見えます」
わたしは、庇の端から下を覗いた。
たしかに、見える。
王子が庭を通って、三階の庇を見上げたら、そこに公爵令嬢が座っているのが見える。
人間の社会では、これはよくないことなのだそうだ。
理由は、いまだに分からない。
*
王子は、昼に来た。
応接室に通された。
わたしは、座っていた。
椅子の上で、きちんと、人間の座り方で座っていた。これはマノンが三度直したからである。三度である。わたしも、三度やり直した。四度目はしなかった。
「オデット嬢」
「うん」
王子は、笑った。
息でする笑い方のほうだった。
「変わりませんね」
「うん」
父がいて、母がいて、使用人が四人いて、王子の従者が三人いた。部屋の中に十一人である。
多い。
わたしは、窓のほうを見た。日が当たっている。この椅子からは、少し遠い。
王子が、こう言った。
「人を、下げてもよろしいですか」
父が、少し考えてから、頭を下げた。
全員が、出ていった。
*
二人になると、部屋が広くなった。
王子は、椅子の背に体を預けた。
この座り方のほうが、この人には合っていた。
「オデット嬢」
「うん」
「わたしは、あなたに求婚しに来ました」
わたしは、窓を見ていた。
日が、少し動いた。
「わたくし、結婚する気ないんだけど」
沈黙があった。
四秒くらいだと思う。
「……即答ですね」
「うん」
「理由をお聞かせいただけますか」
わたしは、少し考えた。
考えて、いちばん正確なことを言った。
「結婚すると、どうなるの」
王子は、まばたきをした。
「どう、とは」
「どこに住むの」
「王宮です」
「あそこ、登れるところがない」
王子は、黙った。
わたしは、続けた。訊かれたので、答えている。
「人が多い。香が強い。庭に出るのに人がついてくる。昼寝をする場所が、たぶん決められてる。屋根に出たら、誰かが怒る」
そして、最後に、いちばん重要なことを言った。
「あと、わたし、あなたのこと、嫌いじゃないけど、好きでもない」
また、沈黙があった。
今度は、もっと長かった。
*
王子は、笑いはじめた。
声を出して笑った。
これは、顔でする笑い方でも、息でする笑い方でもなかった。三つ目があったらしい。
彼は、しばらく笑っていた。
笑い終えて、目のあたりを押さえて、こう言った。
「二十九年生きてきて、初めてです」
「なにが」
「断られたのが」
わたしは、この人を見た。
この人は、順位がいちばん上のやつである。順位がいちばん上のやつに、断る人間はいない。断らないから、この人は、自分が何を持っているのかを、ずっと確かめられずにいた。
それは、たぶん、あまり良いことではない。
「あなたは」と王子は言った。「わたしが王子であることに、興味がない」
「うん」
「わたしの顔にも、家にも、金にも」
「うん」
「……では、あなたは、何に興味があるのですか」
わたしは、窓のほうを指した。
「あそこ、あたたかい」
王子は、わたしが指したほうを見た。
窓の下の、床である。日が、四角く落ちていた。
彼は、長いことそれを見ていた。
それから、立ち上がった。
わたしは、何かされるのかと思って、少し身構えた。
彼は、その日なたのところまで歩いていって、そこに座った。
床である。
王子が、床に座った。
*
「……なるほど」
彼は言った。
「あたたかい」
「うん」
「わたしは」と彼は言った。「生まれてから、床に座ったことがありませんでした」
わたしは、椅子から降りた。
降りて、同じ日なたに座った。
二人で、床に座っていた。
扉の外に人がいる気配がしたが、誰も入ってこなかった。たぶん、覗いた者が、見たものを理解できずに、そのまま戻ったのだと思う。
「オデット嬢」
「うん」
「あなたは、変わられたと聞きました」
「うん」
「以前のあなたは、わたしに三度、茶会で会っています。覚えていますか」
「覚えてない」
「でしょうね」
彼は、膝に肘を乗せた。
「以前のあなたは、わたしと話すとき、一度も笑いませんでした。間違ったことも一度も言わなかった。完璧でした。そして、ずっと、どこか遠くを見ていらした」
わたしは、聞いていた。
「わたしは、あのころのあなたを見て、こう思っていました。この方は、たいへん疲れておられるのだろうと」
胸のあたりが、少し動いた。
わたしは、それを無視した。
「……それで」
「ええ」と王子は言った。「ですから、今日、あなたに断られて、わたしは、少し安心しました」
*
王子は、一刻ほどいて、帰った。
帰るとき、父に向かって、こう言ったそうである。
「断られました」
父は、何も言えなかったらしい。
「ですが、わたしは、またお訪ねします。求婚のためではありません」
そして、こう続けた。
「あのご令嬢は、わたしが王子であることに、一切の関心がない。王宮で、そういう人間に会ったのは初めてです」
父は、このとき、ようやくこう言ったという。
「……娘は、何も考えておりません」
「存じております」と王子は言った。「それが、いちばん得がたいことです」
*
厨房は、たいへんなことになっていた。
「お断りになったのよ」
「王子様を?」
「王子様を」
ベルトが、椅子に座り込んだ。
「……どうして」
「わたし、扉の外で聞いていたのだけど」マノンが、声を落とした。「お嬢様、こう仰ったのよ。王宮には登れるところがないから、と」
「は」
「登れるところがないから、と」
ピエールが、たいへん長く黙った。
やがて、こう言った。
「……それ、断る理由として、合ってるのか?」
「合ってないわよ」
「合ってないよな」
「でも」とベルトが言った。「お嬢様の中では、合ってるんでしょう」
誰も、何も言わなかった。
洗い場のアネットが、鍋を洗いながら、こう言った。
「あたしはね、王子様がお気の毒だと思うよ」
「なんで」
「あの方、三階の物置に負けたんだよ」
*
その夜、わたしは庇の上にいた。
マノンは、もう何も言わなかった。
王都の屋根は、いつもどおりだった。
王宮のほうに、灯がいくつか見えた。あの建物の中に、あの人がいる。登れる場所のない、香の強い、人が多い建物の中に。
向かいの屋根に、茶色いやつがいた。
片耳の欠けたやつである。
そいつは、わたしを見た。
わたしも、見た。
しばらく、そうしていた。
そいつは、尻尾を一度振って、今度は降りていかなかった。
同じ屋根の上で、少し離れたところに、座った。
わたしは、庇の上に伏せた。
二匹は、別の屋根の上で、同じ夜を眺めていた。
これを、猫は、仲が良いと呼ぶ。




