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11/22

王子

王宮から、紙が来た。


 この紙は、他の紙と違った。


 まず、厚い。次に、匂いが強い。香を焚いた部屋に置いてあった紙である。そして、蝋で封がしてある。蝋には、何かの形が押してある。


 わたしは、それを嗅いだ。


 嗅いでいるあいだ、母が、たいへん良くない顔をしていた。


「オデット」


「うん」


「それは、お読みになるものです」


「うん」


 わたしは、それを読んだ。


 読むのは、思おうと思えばできる。


 書いてあったのは、次のことである。


 近いうちに、王子リュシアン・ド・ヴァルロワが、シャルヴィル家を訪ねる。


 以上である。


 紙が厚くて、香が焚いてあって、蝋で封がしてあって、中身がこれだけなのだから、人間の文というのは、たいへん効率が悪い。


*


 館が、おかしくなった。


 三日のあいだ、全員が何かを磨いていた。


 銀を磨き、床を磨き、窓を磨き、磨くものがなくなると、磨いたものをもう一度磨いていた。ジェルマンは眠っていないようだった。ベルトは厨房で三度、鍋を取り落とした。


 わたしは、庇の上にいた。


 上にいると、下の騒ぎが音でよく分かる。


 四日目の朝、マノンが物置に上がってきた。


 上がってきて、わたしを見て、泣きそうな顔をした。


「お嬢様」


「うん」


「本日は、庇にお出になりませんよう」


「なんで」


「殿下がお見えになります」


「ふうん」


「お庭から、見えます」


 わたしは、庇の端から下を覗いた。


 たしかに、見える。


 王子が庭を通って、三階の庇を見上げたら、そこに公爵令嬢が座っているのが見える。


 人間の社会では、これはよくないことなのだそうだ。


 理由は、いまだに分からない。


*


 王子は、昼に来た。


 応接室に通された。


 わたしは、座っていた。


 椅子の上で、きちんと、人間の座り方で座っていた。これはマノンが三度直したからである。三度である。わたしも、三度やり直した。四度目はしなかった。


「オデット嬢」


「うん」


 王子は、笑った。


 息でする笑い方のほうだった。


「変わりませんね」


「うん」


 父がいて、母がいて、使用人が四人いて、王子の従者が三人いた。部屋の中に十一人である。


 多い。


 わたしは、窓のほうを見た。日が当たっている。この椅子からは、少し遠い。


 王子が、こう言った。


「人を、下げてもよろしいですか」


 父が、少し考えてから、頭を下げた。


 全員が、出ていった。


*


 二人になると、部屋が広くなった。


 王子は、椅子の背に体を預けた。


 この座り方のほうが、この人には合っていた。


「オデット嬢」


「うん」


「わたしは、あなたに求婚しに来ました」


 わたしは、窓を見ていた。


 日が、少し動いた。


「わたくし、結婚する気ないんだけど」


 沈黙があった。


 四秒くらいだと思う。


「……即答ですね」


「うん」


「理由をお聞かせいただけますか」


 わたしは、少し考えた。


 考えて、いちばん正確なことを言った。


「結婚すると、どうなるの」


 王子は、まばたきをした。


「どう、とは」


「どこに住むの」


「王宮です」


「あそこ、登れるところがない」


 王子は、黙った。


 わたしは、続けた。訊かれたので、答えている。


「人が多い。香が強い。庭に出るのに人がついてくる。昼寝をする場所が、たぶん決められてる。屋根に出たら、誰かが怒る」


 そして、最後に、いちばん重要なことを言った。


「あと、わたし、あなたのこと、嫌いじゃないけど、好きでもない」


 また、沈黙があった。


 今度は、もっと長かった。


*


 王子は、笑いはじめた。


 声を出して笑った。


 これは、顔でする笑い方でも、息でする笑い方でもなかった。三つ目があったらしい。


 彼は、しばらく笑っていた。


 笑い終えて、目のあたりを押さえて、こう言った。


「二十九年生きてきて、初めてです」


「なにが」


「断られたのが」


 わたしは、この人を見た。


 この人は、順位がいちばん上のやつである。順位がいちばん上のやつに、断る人間はいない。断らないから、この人は、自分が何を持っているのかを、ずっと確かめられずにいた。


 それは、たぶん、あまり良いことではない。


「あなたは」と王子は言った。「わたしが王子であることに、興味がない」


「うん」


「わたしの顔にも、家にも、金にも」


「うん」


「……では、あなたは、何に興味があるのですか」


 わたしは、窓のほうを指した。


「あそこ、あたたかい」


 王子は、わたしが指したほうを見た。


 窓の下の、床である。日が、四角く落ちていた。


 彼は、長いことそれを見ていた。


 それから、立ち上がった。


 わたしは、何かされるのかと思って、少し身構えた。


 彼は、その日なたのところまで歩いていって、そこに座った。


 床である。


 王子が、床に座った。


*


「……なるほど」


 彼は言った。


「あたたかい」


「うん」


「わたしは」と彼は言った。「生まれてから、床に座ったことがありませんでした」


 わたしは、椅子から降りた。


 降りて、同じ日なたに座った。


 二人で、床に座っていた。


 扉の外に人がいる気配がしたが、誰も入ってこなかった。たぶん、覗いた者が、見たものを理解できずに、そのまま戻ったのだと思う。


「オデット嬢」


「うん」


「あなたは、変わられたと聞きました」


「うん」


「以前のあなたは、わたしに三度、茶会で会っています。覚えていますか」


「覚えてない」


「でしょうね」


 彼は、膝に肘を乗せた。


「以前のあなたは、わたしと話すとき、一度も笑いませんでした。間違ったことも一度も言わなかった。完璧でした。そして、ずっと、どこか遠くを見ていらした」


 わたしは、聞いていた。


「わたしは、あのころのあなたを見て、こう思っていました。この方は、たいへん疲れておられるのだろうと」


 胸のあたりが、少し動いた。


 わたしは、それを無視した。


「……それで」


「ええ」と王子は言った。「ですから、今日、あなたに断られて、わたしは、少し安心しました」


*


 王子は、一刻ほどいて、帰った。


 帰るとき、父に向かって、こう言ったそうである。


「断られました」


 父は、何も言えなかったらしい。


「ですが、わたしは、またお訪ねします。求婚のためではありません」


 そして、こう続けた。


「あのご令嬢は、わたしが王子であることに、一切の関心がない。王宮で、そういう人間に会ったのは初めてです」


 父は、このとき、ようやくこう言ったという。


「……娘は、何も考えておりません」


「存じております」と王子は言った。「それが、いちばん得がたいことです」


*


 厨房は、たいへんなことになっていた。


「お断りになったのよ」


「王子様を?」


「王子様を」


 ベルトが、椅子に座り込んだ。


「……どうして」


「わたし、扉の外で聞いていたのだけど」マノンが、声を落とした。「お嬢様、こう仰ったのよ。王宮には登れるところがないから、と」


「は」


「登れるところがないから、と」


 ピエールが、たいへん長く黙った。


 やがて、こう言った。


「……それ、断る理由として、合ってるのか?」


「合ってないわよ」


「合ってないよな」


「でも」とベルトが言った。「お嬢様の中では、合ってるんでしょう」


 誰も、何も言わなかった。


 洗い場のアネットが、鍋を洗いながら、こう言った。


「あたしはね、王子様がお気の毒だと思うよ」


「なんで」


「あの方、三階の物置に負けたんだよ」


*


 その夜、わたしは庇の上にいた。


 マノンは、もう何も言わなかった。


 王都の屋根は、いつもどおりだった。


 王宮のほうに、灯がいくつか見えた。あの建物の中に、あの人がいる。登れる場所のない、香の強い、人が多い建物の中に。


 向かいの屋根に、茶色いやつがいた。


 片耳の欠けたやつである。


 そいつは、わたしを見た。


 わたしも、見た。


 しばらく、そうしていた。


 そいつは、尻尾を一度振って、今度は降りていかなかった。


 同じ屋根の上で、少し離れたところに、座った。


 わたしは、庇の上に伏せた。


 二匹は、別の屋根の上で、同じ夜を眺めていた。


 これを、猫は、仲が良いと呼ぶ。

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